TOKYO COMPLEX「中野サンプラザ」

人生において中野サンプラザには3回、足を運んだことがある。

1回目は忘れもしない、2010年1月21日。

自他共に認める音楽好きである僕ではあるが、その中でも特に好きなアーティストは複数いて、その中でもさらに盲目的に好きで且つ影響を受けまくったアーティストがいる。
その1つが「フジファブリック」というバンドである。
僕が音楽にのめりこむようになった2008年の夏に出会ったバンドであり、「赤黄色の金木犀」や「陽炎」といった美しいメロディーの曲があるかと思えば「銀河」といったへんてこで変態的な曲もあったりと、すごくハマっていった。
特にギターボーカルで作詞作曲を行う志村正彦が好きでファッションもよく真似ていた(学生時代にハットを被っていたのは彼の影響)。
初めて手にしたギターがテレキャスターだったのもくるりの岸田さんやスーパーカーのナカコーが使っている、ということに加え、赤黄色の金木犀のMVで使っているテレキャスターを見たのが決定打だった。
それぐらい志村さんの影響を受けていたのだが、2009年12月24日に急逝。
当時、大学1年生だった僕は多大なる悲しみと衝撃を受けていた。当時のmixiの日記を読み返したが、その衝撃の度合いは今でも計り知れない。

志村さんのお別れ会として「志村會」として開かれたのが翌年の1月。
その日、所属していた放送研究会のラジオ収録があったのだが、無理を言って、急きょお休みとさせていただき、お別れ会に参加。
コンサート会場として聞いたことがあった中野サンプラザホールへの訪問がこんなにも悲しいことで訪れるとは思いもしなかった。
ただただ、悲しかった。
その一方で、これからもどんな形であれ、フジファブリックを愛し続けようと決意した日でもあった。現に今も好きなバンドだ。

2回目は2010年5月25日。
小沢健二「ひふみよツアー」の時だ。
音楽ののめりこむ前から母親の影響で小沢健二を聴いていた(聴かされていた?)僕ではあるが、リアルタイムで小沢健二の活動というのははっきりとは覚えていない。幼稚園から小学生ぐらいの時だから仕方がない。そこから先は日本での活動を休止している。
だからこそ、リアルタイムで小沢健二のライブを見る、ということが実現するということは奇跡のようだった。
チケットもまさか当選するとは!!
バンドサークルの先輩と僕とでライブに行った。
あのオザケンに会える!!と思ったが、入口スタッフから

「これ、明日のチケットですよ」

そうなのだ。その日は24日。僕のチケットには「25日開催」と書かれていた。
何をどう勘違いしたのか、未だに不明。
その日は先輩に青葉のラーメンをおごってもらった。すごくうまかった。
あと、中野ブロードウェイに行き、サブカルチャーの雰囲気を堪能した。
振り返ると、その日、めちゃくちゃ楽しかった。のだが、それ以降、中野ブロードウェイに足を運んでいない。

改めて25日。小沢健二のライブを参戦。
うん。実在してたんだ、オザケンって。
1曲目の「流星ビバップ」を聴いたとき、浮かんだ感想がこれだった。
その後、知っている曲をたくさんやってくれて、ただただ嬉しさに満ち溢れていた。
「ラブリー」や「今夜はブギー・バック」に「戦場のボーイズ・ライフ」など、好きな曲をたくさんやってくれたのが嬉しくて嬉しくて(ただ、「ある光」がサビのワンフレーズだけだったのが残念だった。あれ、名曲なのに)。
mixiにセットリストと当時のレポをしっかりと書いてあったので読み返してみたが、確かにすごいセットリストだった。

そして、2017年。小沢健二が19年ぶりに国内での音楽活動を再開(と言いつつ、ライブはやっていたけど)。「流動体について」は最高に名曲。
さらに、小沢健二とともに「フリッパーズ・ギター」を組んでいた小山田圭吾のCorneliusも11年ぶりにアルバムリリース。
2017年、半端ない。
Corneliusに関しては北海道の野外フェスであるRISING SUN ROCK FESTIVALと先日のアルバムツアーでライブを堪能。
2017年、とんでもない1年だ。

最後に中野サンプラザに訪れたのが2013年の3月。
大学の卒業式の後に開催された懇親会。
卒業時期になるとゼミのメンバーかサークルの友達と会う機会が多かったので、久々に会う人も多くいた。
この時の僕の精神状態はあまり良いものではなかった。
4月から社会人として働くことになるし、さらに大阪、という未知なる土地での生活。それに相まって告白して振られるなど色々なことが起きた時期であり、ちょっと疲れていたのかもしれない。
余談だがその頃、DE DE MOUSEやSerph、WONDER WORLDといったセンチメンタルなインストゥルメントを聴きまくっていて「俺はいつか、ファンタジーの物を作りたい」と言っていた記憶がある。
訳が分からないし、アホである。
懇親会で程よく酔っぱらった俺は元来のセンチメンタル好きと心身疲労からか、各分野の代表挨拶を担当することになっていた僕は、

「これから先が見えない明日を僕たちで切り開いていきましょう」

という訳のわからないことを発していた。
アホである。ただただ、アホである。
しかもその時、最後の学生時代だから、ということもあり、極限まで髪を伸ばしていて、気持ち悪かった。
言動も見た目も気持ち悪いって最悪である。
卒業式の時の自分に説教してやりたい。
今でも卒業アルバムを見ると溜息が出る。

3回目の中野サンプラザは未来に向けての大きな一歩であり、決意をした場所でもあるが、黒歴史とも呼べる日だった。

その後、中野にはたまに行くことはあったが、あまり降りることもなく、ゆかりがない。
また行くことはあるのだろうか。
中野サンプラザ以外ではバンドサークルのPA係の集まりで飲んだくらいかもしれない。

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