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僕らはもっと“演じる”を学ぶ必要がある|物語思考

僕らはもっと「演じる」を学ばなければならない。僕はそう思った。




「それが虚構であると知っていながら、本当のように振る舞うからこそごっこ遊びは成立する。遊びは微妙なバランスに立つ。スポーツは本気でやるからこそ面白いが、一方で試合の勝ち負けを引きずって、負けた相手をずっと恨むようなことがあれば、弊害が大きい。文化祭にクラスで演劇を上演する時に、こんなのお芝居だからとくすくす笑っていたら劇が成立しない。遊びが成立するのは、本当でありながら虚構でもあるという状態を、その場を形成する皆が暗黙に了承しているからだ。」

為末大『熟達論』(新潮社、2023年)

と『熟達論』書かれていたのが興味深くて印象に残っている。

ここでいう遊びは、エンターテイメント全般に置き換えて言うことができる。スポーツでも芸術でも表現活動や創作活動にも当てはめて解釈することが可能だ。

自分は本当は根暗な人間だからといった理由でミュージシャンが舞台の上でぼそぼそ話し始めたら、ライブは冷める。僕は虫を殺せないほど優しい臆病な性格だからといって、サッカーのピッチで相手に優しくボールをあげるようなことをしてたら、サッカーは成り立たない。

要するに、僕らはエンターテイメントと認識した環境や空間において、暗黙の了解で「演じる」を許しあっている。

しかし、これが日常生活になると話が変わるらしい。

普段の生活で「演じる」を使おうものなら、気使いすぎ認定され、本音を求められたり、時に「嘘」と認定され、信用されなくなったりする。

素こそ正義であり、聖人君子でオモテウラのない完璧な人間像を求められる現代。人は過去にすがり、「自分の本当に〇〇なこと」を自分に問う。

「自分の本当にやりたいことはなんなのか」「自分の本当の気持ち、言いたいことはなんなのか」など。確固たる自分の核があれば、迷わずに済むからだ。

数多のビジネス書が「やりたいことをやれ」というメッセージを放つ。それも「今すぐに」と。

その風潮が強まれば強まるほど、やりたいことをやっている人こそが正義であり、やりたいことをしていない自分を認識している多くの人が追い詰められる。

「やりたいことをやれ」というフレーズは非常に分かりやすい。やりたいことだけやっていれば絶対に幸せだし、それを仕事にできたらお金の問題にも悩まされないし、不労所得のように機能して幸せになること間違い無し、と脳が容易に想像できる。

しかし、現実はそうではない。

このメッセージで幸せになる人は実はそれほど多くないのだ。そもそも、「やりたいこと」って何?

やりたいことが全ての人間に備わっている前提なのだ。仮にやりたいことがあったとして、それをやることが本当に幸せなのか。

これも意外とそうでもない。

つまり、「やりたいことをやれ」というのは多くの人を幸せにする絶対解ではなかったのだ。

僕は6歳でサッカーを始めて、今年で19年目になるのだが、最初の10年くらいはサッカーが嫌いだった。嫌いなことに堪えるよりも、自分の意志を表明して辞めることの方が難しかった自分は、気づいたら10年もサッカーを続けていて、19年経った今ではサッカーを好きになっている。

そんな僕が「やりたいことをやれ」と発信して、自分を正当化しているのが現代だ。

このメッセージの裏にそれほど緻密な理論は存在していないし、時代の変化に対応できるほど万能でもない。わかりやすいし、自分を正当化できるし、このメッセージを放つだけで一定の評価が得られる。ビジネス所で書けば売れる。そんな構造的な理由でこの言葉が一人歩きしているだけだ。




そんな現代に、一つの最適解として「やりたいことがない時代のキャリア設計術」を示したのが『物語思考』だ。

詳しい内容は割愛。気になる人は、検索するなり、以下のリンクに飛ぶなり、煮るなり焼くなり、、、



本書には、その人がどんな人か、過去がどうだったかなどといった要素は一切関係なく、未来からの逆算で自分のキャラを設定し、キャラと物語の力を利用して生きることで、人生のプロセスを楽しみながら激動の時代を生き抜いていく術が書かれている。

冒頭に触れた「僕らはもっと『演じる』を学ぶ必要がある」というのは、ここでいうキャラの話と通ずる。

自分の目標やら未来にどうありたいかを設定し、それ達成する為には自分がどんなキャラだと都合がいいのかを逆算し、人生でいくつも訪れる選択の場面で「ルフィ(設定したキャラ)だったらどっちを選ぶか、どんな行動をとるか」と考えるのが物語思考なのだが、これはつまり「人生という演劇において役を演じること」と同義なのではないかと。


僕は『競争闘争理論』(河内一馬・著)でサッカーにおける思考態度を学び、サッカーネイティブの欧州人がいかにピッチ上での『闘う』を理解しているのかを毎日ドイツでプレーしながら肌で感じるようになった。日本人は審判に文句や抗議をほとんどしないが、彼らは勝つ為に感情を利用するし、ピッチの中では別人になる。

彼らにはサッカーとはそういうものだと、生まれながらに身についていて、わざわざ言語化したり意識したりはしていない。日本人はその思考態度を生まれながらに持ち合わせているわけではないので、意識してこの思考態度を習得していかなければならないのだが、これを日本語で捉えるならば「演じる」だと僕は最近思うようになった。

ピッチとは演劇の舞台であり、選手は役者やミュージシャンのようにふさわしい態度を取らなければならない(キャラを振る舞わなければならない)。
このようにサッカーを捉え直してから、今までよりも明らかに、サッカーの文脈に自分がフィットした感覚がある。

僕は自然体で誰に対しても素でいたいタイプの人間で、舞台に立ったりするのは得意ではない人間だが、サッカーの文脈の中で演じることの気持ちよさも、演じることで引き出される自分の能力があることも非常に強く感じている。

人生も同じように、「演じる」が持つ力を借り、物語のキャラを演じて生きていくのでもいいのではないだろうか。

自分の境遇に重ね合わせ、そんなことを考え、もっと「“演じる”とはどういうことなのか」について学ぶ必要があると感じさせてくれた本だった。


参考文献
為末大『熟達論 〜人はいつまでも学び、成長できる〜』
河内一馬『競争闘争理論 〜サッカーは「競う」べきか「闘う」べきか〜』
note『【対談:前編】『果たしてサッカーは"芸術"であり"表現"なのか?』 河内一馬×三倉克也』


かくいたくや
1999年生まれ。東京都出身。大学を中退後、プロ契約を目指し20歳で渡独。23歳でクラウドファンディングを行い110人から70万円以上の支援を集め挑戦するも、夢叶わず。現在はドイツの孤児院で働きながらプレーするサッカー選手。

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