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リアリティ

カクシンハン、渾身の舞台「シン・タイタス」。

コロナ禍で軒並み演劇が中止となり、チケットも売った段階でやむなく中止となった「いわくつき」の作品でもある。

このプロジェクトの首謀者は、演出家・木村龍之介氏。

ある日、気づいたら彼がSNSで僕のことをフォローしてくれていて、僕はビックリした。普段、道を歩いていて「演出家」と肩がぶつかることは滅多に無いから、彼の活動を、ほぼ日さんで拝読してみた。

 なんかガチの眼をした若者たちが、何かを創造しようとしている様子が飛び込んできた。ほぼ日さんの写真から、本気の人ならではのオーラを感じた。

 それから木村さんとは、SNS上の相互フォロー、メッセージ、とご縁がつながり、コロナ禍のリモート対談をきっかけに、「これからなんか面白いことを一緒にやれたらいいよね」なんて話していた。

 今回、満を持してのリベンジマッチ。僕はセコンド、チームドクター、トークの登壇者など、「いろんな顔」で参加させてもらう機会をいただいた。

現場こそ、最高の教室。

これも、リーダーである木村さん、キャストのみなさん、運営スタッフのみなさん、裏方のみなさん、会場のOKSキャンパスのみなさんのオープンマインドのおかげである。

いろんな学び、気づき、感動、刺激がたくさんあって、僕の筆力では全てをきちんと書き切れないんだけど、やはりここは、作品『シン・タイタス』の感想を最初に述べるべきだろう。

最後は舞台上で役柄を演じた全員が死んでしまう、全く救いの無いストーリー。

誰かひとりが悪いわけではない。
誰も悪くないし、誰もが悪いとも言える。

さらに言えば、この難解なる作品は、

「善いとか、悪いとか、そんな形容詞は、どの立場でどう見るかによって、全く違って感じられるものだ」という当たり前の人間の在り様を、真っ直ぐに突きつけてくる。

かつて子供の時にTVで観た、ヒーロー戦隊もの、あるいは勧善懲悪ものとは違い、「それぞれの正義」と「人間の根源的欲求」がぶつかり合い、ギシギシと激しく不協和音を奏でる。それはまさに人間のリアルだろう。

誹謗中傷、無理解、ハラスメント、仲間外れ、権力争い、精神的圧力、裏切り、誤解、扇動・・・

現代社会でもそこかしこにある現象を、この作品は伝わりやすい形で「劇化」しているからこそ「劇薬」でもあるだろう。

だけど、この救いの無い作品には、大いなる救いがある。

それは「演劇という救い」に他ならない。

全員が死ぬのに、全員が生き返る。
立ち上がって、手を振り、感謝を述べる。

誰も殺していないし、一滴の血も流れていないのだ。
そして驚くべきことに、残酷なのにとても美しい。

流血のメタファーである赤い布と共に踊る白装束の女性は、神々しささえ感じさせ、悪の限りを尽くすヒールは、虐げられし人間の逞しさを伝えてくる。

それを人は「フィクション」「ファンタジー」あるいは「虚構」と言うかも知れないが、それは違うと僕は思う。

人を殺す恐ろしさ、命の儚さ、人生の呆気なさ、そういったものを感じ、心臓の鼓動が早まり、手に汗握り、思わず涙し、鳴りやまない拍手を送った「受け取った者たち」の身体に起きた変化は「リアル」そのものだ。

そしてこの劇を目の当たりにして、ずっと何かを考え続けている。それもまた「リアル」だ。

この作品を体験し、意識や考え方が変化すれば、その後に変わっていくのは「リアル」の生活だ。

フィクションや虚構を、「本気で演じる」ことで伝わるのは、ウソではなく「リアリティ」に他ならない。

これが演劇のもつ威力なのだと、僕はようやく理解した。

そして僕は、かつてプリンスが語ったこの言葉を想い出した。

コロナ禍で、ジャンルに関わらず芸術は「潜伏」を余儀なくされたが、そんな時にこそ人々の心を守ってきたのもまた、芸術に代表される「人間の可能性を感じさせる何か」であったはずだ。

ここではないどこか、現在とは違う未来を信じられるか、否か。
それこそが”2 B or not 2 B”の境界であろう。

シェイクスピアが描いた、
死に向かうストーリーの中の生命の煌めき。
それは我々だって同じことだ。

ありがとう、シン・タイタス。

作り手、演者のリアリティについては、またの機会に、改めて。
U can be HEROES 4ever & ever.

PS. 動くとは生きること。

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