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1203-1221,つくった顔とそれを置き去るまでのことについて

 12月16日、1年次の必修授業が終わりを迎えた。モデルを見て粘土でそれを見たままに形作っていく塑像と、それを石膏で型取りし置き換えてからの彫刻の作業が、週6日×3週間続いた。自分の認識が、そのままかたちになって目の前にできあがってくる。顔になったり、かたまりになったり、また顔になったり、そんなことを繰り返していると地層のように次第に分厚くなって、ひとまわり大きくなった。

 石膏を型取る作業で予想以上の体力を消耗したのは、石膏が、粘土よりも自分に抵抗している感じがあったからだ。最初は粉で、水に溶かしていると液体のようになり、最後にはびくともしない固体になる、あまり言うことを聞いてくれない素材だった。手を突っ込んで掬い取り、頭のかたまりに付け足していけば、自分の皮膚の水分までが奪い取られて指の腹にひびが入る。自分で付け足していくのに、最後には、自分一人では持つことができないほどの重さになってしまった。固まるときに熱を帯びる石膏は、それ自体に血が通っているようでもあり、自分自身の体温が移ってしまったような感覚を与えるものでもあった。

 石膏の型取り作業は夜20時まで続いた。冷たい空気がまとわりついたまま家に帰ってきて、絆創膏を剥がすと人差し指の傷口がきれいに閉じていた。萎びた絆創膏は捨てて、新しく親指にできた傷に新しい絆創膏を貼った。

 朝、自転車のサドルが露の粒子に覆われている。布団をたたむときに発生した風は、まだエネルギーを失っていない。朝日も差し込んでくる。


 ドラッグストアに食器洗剤を買いに行きながら電話をしていて、手に入れることと、捨てる(手放すこと)は似ているのではないかという話がでた。もの、特に、日常生活に組み込まれるようなものを手に入れると、その存在が当たり前のことになってしまって、ある意味で忘れられてしまったようになる。ものを捨てると、それが捨てがたいものであっても結局忘れられてしまって、それが存在しない生活に慣れていく。生活というゾーンがあって、そのゾーンとそうでないゾーンの境界をものが通り抜けるとき、その瞬間だけ当たり前だったものが当たり前ではなくなる。洗剤が見つかったけれどポケットティッシュが見つからずに探しているとき、星がブラックホールに引っ張られているのを観測した。

 遠出をして、帰り道口をあんぐりと開けて寝てしまって、起きて本を読もうと思ったが、眠たくて力が入らず、本を開いておくのに手が震える午後の電車の中であった。首筋に熱を感じながら、ツイスト・ドーナツでお腹を満たすことを楽しみとして過ごした。

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