見出し画像

最後のたまごまる杯 結果発表 ゼロの紙編

【あなたの想いが誰かの記憶になってゆく】

おはようございます。

さあ、ついに最後のたまごまる杯の結果発表の日がやってまいりました。

二日間に渡って開催する最後のたまごまる杯。

たまごまる杯とは、応募者の記事を全て読み、その中から心震わしてくれた作品に賞を贈呈するコンテストです。

本日は、もうひとりの審査員であるゼロの紙さんが選考し、選び抜いた作品のご紹介です。(たまごまるが選んだ作品は明日発表させていただきます。)

因みに、ゼロの紙さんは、僕が、誰の何の作品を受賞作品に選んだか知りません。合わせたわけではないとだけ、今日は申しておきます。

受賞作品と合わせて、ゼロの紙さんが織りなす言葉も、とくとご堪能くださいませ。


🥇金賞🥇4作品


🥇金賞🥇「赤いりんごには光を」

北野赤いトマトさんの言葉には、目の前で知っていたはずのものたちの輪郭がたちまち揺らぐことがある。

この「りんご」もそうだ。

わたし達が知っているはずのりんごは、もはやりんごじゃないよとでも言うように。

美術の授業でりんごを写生していたトマトさんは、色を塗り重ねながら、つぎに塗り足すべき色が黄色であることが、とつぜん「わかった」ことがあると書いている。

それは物質がたくさんの光の反射で成り立っていて色をなしているからだと理解するのだけれど。

トマトさんは思考にここでピリオドを打たない。この「わかった」ってなんだろうとどんどん深く穴を掘る。微分しながらじぶんの中で、納得した言葉しか言葉にしない。

つじつまをあわそうとしないところにいつもわたしはほれぼれしている。

そしてこのエッセイはこの後、内省へと自らを誘う。あの頃感じた感覚は今は失われているのではないかと。それがあのウィルスの為にコミュニケーションが絶たれているせいなのかと。

そしてこう締めくくる。

「肉眼ではみえないたくさんの光をつかまえながら、誰にも消費されることなく、自分を生きていきたいと、春の暖かい日にそう思った」と。

きらきらとした光の粒子が散りばめられているトマトさんの言葉にずっと翻弄されていたい。


🥇金賞🥇「蟻塚」

性を描くってどういうことだろうと時折考える。紅茶と蜂密さんの「蟻塚」に描かれているのは性であるけれども性だけではない。

冒頭は「高い、細い声が夜明けの寝室につうと引かれて」とある。このつうという、擬音に私たち読者はそこに声と声がまるで天井にまで昇華したようなそんな気さえする。

セックスが終わる。

この9文字をこんなふうに、聴覚と視覚を刺激するように描ける紅茶と蜂蜜さんに憧れる。

「電気が消えるように、しゅるしゅると眠りに落ちていった相手の髪をなでる」

この<しゅるしゅる>というオノマトペが、彼の微睡む様子までをも表現していて。

相手の髪を撫でることを、「多分、起きていたら喜ばれない」と思案する。

チカは、言葉にできない時により生き生きとしている。

恋人同士の男女はいつも言葉だけで生きているのではないことに気づかせてくれる。

言葉にならない要素を指先に込めた仕草で表現してしまうことだって大いにあるわけで。

わたしたち読者に恋人たちの密やかな時間をみせてくれている。

言葉が欲しい時に言葉がもたらされないことを知っている。

表題の「蟻塚」に想いを馳せながら蟻塚の中の無数の営みの部屋を想ってみたりした。

紅茶と蜂蜜さん、描写の力を存分に堪能しました。贅沢な時間をありがとうございます。


🥇金賞🥇「母のうた 吉田山田」 

生まれた時、みんなまっしろい地図をもって生まれて来るとしたら一番はじまりの点は、母親が自分を生んでくれた場所になるんだろうって考えたことがあった。

そうやってまっしろい地図に足跡をつけたところに点をひとつずつ打って。

年月が経ってその点はどんなラインを描くのかなって。ふいに聞こえて来た曲に惹かれて、心揺
さぶられることってあるけれど。

雅樹さんは、その曲への手紙を、ご両親への想いに重ねるように書いています。

歌詞の中の言葉を、心全部で受け止めた雅樹さん。

<あと何年 あと何回>

とエッセイの中でもリフレインするように手紙の宛先を吉田山田さんからご両親へとスライドさせながら。

雅樹さんの書く言葉には、邪念がない。

うまく見せようとかこのフレーズ見てほしいみたいな自分推しをしないところがわたしのお手本です。

そして余白の使い方に心惹かれました。noteの白い場所をわたしたちが呼吸しやすいように、気遣いながら書かれていて。

雅樹さん気づいたら泣きながら感想書いていました。ご両親がいつまでもお元気でいらしゃいますこと心よりお祈り申し上げます。

雅樹さんたまごまる杯金賞おめでとうございます。


🥇金賞🥇「穢れで遊ぶ子どもたち」

短いシカさんのこの作品を、原稿用紙1枚で簡潔にまとめなさいと言われたらどう書くだろうって想いながら今言葉を探しています。

すごく好きです。

短いシカさんの文章ってショートショートもそうですが、一行一行かわされてしまう。するっと掴まえたものが逃げてゆくような。それでいて、時間差で自分が捕まえようとした何かが手のひらに残っている感触を得るようなそんな感動がある。

くま先生って呼ばれていた中学の時の先生の事を回想したエッセイ。

「私は授業が好きでした」って言う、なんで?って思っていたら授業だけは「個性」を要求されない。ただ授業を受ける平等な「生徒」でいられるからと。逆に、休み時間は「個性」よろしくの時間であると。

いいなぁ、この斜に構えた姿勢、好きです。

そんなシカさんが少年法について作文を書く。中学生の視線を貫いた文章はほめられて作文コンクールに提出されるのだけど。その先生との会話がいい。

君の文章は君の性格の悪さが出ているって言う。


ほめて落とさないでって思っていたら先生が言った言葉が、

「君は性格が悪い。それでなにがいけない?」って。

もうSO WHAT?の世界。

くま先生とシカさんってどこか似ているそんな気がしています。

🥇🥇🥇🥇


🥈銀賞🥈7作品


🥈銀賞🥈「空を指さす」

春ってなにかが去って行った後なにかが新しくやってくるそんなイメージがあって。

春の空を見ていると、なぜか懐かしい記憶も一緒につれてきてくれる。

『ヘリコプターにむかって、手をふると、のってる人がしゃしんをとってくれるんだよ』

そんな誰かが言った言葉を思い出す橘さん。

その言葉を信じていたあの日を思い描きながら歩いていると、目の前を男の子が通り過ぎる。

その子が指さす方をみると、ちょうど15時の空にヘリコプターが一機飛んでいるのがみえる。

記事の真ん中あたりに音源のリンクが貼ってある。春の空を思い浮かべながら、聴くAlexandros の「温度差」は、作者とおなじく時間を追体験してる気持ちになって。歌詞にも立ち止まりたくなった。

「誰も要らない 走るのは一人の方が 軽い。だけど一方で片隅 抱きしめられたくなる」

その歌詞の物語の中にご自分が小さかった頃に想いを馳せて、お母様が妹さんを乗っけて走っていた自転車の記憶をたどる。

「走るのは一人の方が軽いよ」と肯定してみせた後、誰かの温もりがほしいじぶんにも気づくのだ。

そして冒頭のヘリコプターの記憶をプレイバックする。

ふいに言葉を思い出したかったんじゃなくてあの時誰かと手をつないでいたあの温もりを手繰り寄せたかったんだと。

最後の一行に鳥肌たちました!


🥈銀賞🥈「緑色の星空が広がっている」

小さい時に何かを感じる時、たぶん五感が今よりも自由だったのかもしれないって思う時がある。

自在に感じて、言葉にしないこと含めて、感じていたのだと。

川ノ森さんの様々な記事を目にするとき、いつも感じるのは、彼女は今もあの頃の五感で生きているのだと。


このタイトルがその証のような気がする。

「緑色の星空が広がっている」

なんだろうと読む人の気持ちを惹きつける。

そしてこれ以外にないというぐらい寄り添ったビジュアルの配置。

彼女が昔ちいさい頃に見た真昼の月を見てびっくりしたあの頃と同じ感性で、いま昼の星をみつける。

みているのは緑色の楓だ。

楓の木洩れ日を星に見立てられる川ノ森さんのまなざしに憧れる。

一人遊びが好きだった子供時代。ひとりで感じる世界を懐かしく思いながら、集団になれていったことその後で獲得した「ひとり」の時間を大人になった今、記憶をたどる。

こどもだったすべての人に贈るそんな時間を川ノ森さんのnoteは表現している。

ひとりずきなのにひとりよがりじゃない。

その眼差しの行方はいつも誰かを想っている。

そんな川ノ森さんのnoteにわたしは訪れると憩いをもらい、去るときには必ず背中を押されてる。



🥈銀賞🥈「僕が僕という理由」

「僕」ってだれかが言ったら、それはみんなのなかのそれぞれの「僕」を思うんだろうけど。

「俺」ではなくて「僕」。

「私」ではなくて「僕」だと。

ツボくんの詩に触れた時、この短い言葉の中にめぐらされたツボくんの思考の宇宙を感じた。

「数ある選択肢の中から、この一人称を身に着けたことに固い意志などなかった」

冒頭の言葉に読者もみずからの無自覚さに気づかされる。ちょっとどきりとする。

なんで「わたし」って言ってるんだろうって。

「変化に指をさされるのが怖くて、物心のついた頃には羽織っていた」と続く。

この詩には想いの変遷の中に、意識していたじぶんが見え隠れしている。

そして、冒頭の<身に着ける>と<羽織る>が呼応するように表現されている。


人称が身体にまとわりついているものとして捉えられている。

「肌触りの滑らかな衣をおざなりに引き摺っているだけ」と。

人称は、服のようなものなのだと気づく。

あの服が好きだから着るのか、好きでも嫌いでもなくみんなと歩調を合わせるようにして着るのか。

そんな思いもほのみえるけど、「中性的な響きが好きとあの子が言ったから」と結ばれて、固いつぼみがほころんだような柔らかさに包まれていた。


🥈銀賞🥈「noteは大切な人への手紙」

今この感想を書かせてもらっている今日、5月31日はわたしがよろよろっとnoteにたどり着いた日だった。

SNSで日記を書くってどんな感じなんだろうって、SNSを遠ざけて生きて来たわたしはずっとそんなことを想っていた。

でも、noteで言葉を記すということって、必ず宛先は自分であり言葉の行く先があなたであったりする。

このエッセイには保険会社に新規に入り直したエピソードが綴られている。

担当の方が「どうぞご家族への手紙を書いてください」と便箋を渡されたらしい。

保険とかに疎いわたしはそういうことあるんだなって初めて知ったけど、石元さんは、その場で2分ぐらいで家族への感謝などをしたためたという。

そしてそのことを悔やんでいるという。手紙って書きたい気持ちが募らないと書けないし、まして誰かの前では書けないものだ。

noteにいるとコメントやスキなどを贈ってもらうたびに「今のあなたで大丈夫ですよ」と言われてる気がするという。石元さんわたしもです!

そしてnoteやっていることを知っているお嬢さんたちが

「お母さんが死んだらお母さんのnote読むわ」

と仰ったそうだ。


わたしがnoteを書いている理由はまったくもってこれだった。


母ではないけれど、今のじぶんはここにあるって想いを新たに、させてくれたこと感謝しています。手紙が書きたくなりました。


🥈銀賞🥈【どうしてあなたは】~Re:音楽×読書コンテスト

まつおさんのnoteを想う時、その後ろ側にはかならず最愛の「りえさん」がいらっしゃって。画家のゆめのさんも一緒にまつおさんの輪郭を形作っているように思える。

まつおさんが「りえさん」にいつも言葉を贈っていることの意味のようなものが痛いほどわかった。

最愛だった人を亡くした時の心の動きがそっくりとは言わないまでも、どこかでわたしも同志のように思ってきていたので、どうしてもこの作品を推したかった。


「りえさん」はまつおさんの詩の中で結実していた。

でもこの作品ではまつおさんが当時を振り返る詩をしたためつつ、最後には「りえさん」の声がここに収められている。

まつおさんが「りえさん」のすべてを記録したいという想いに心打たれる。

そして人はこんなにまでも誰かのことを愛せるのだと勇気を教えてくれる。

noteは、きっとまつおさんにとって、かけがえのない宝箱なのだと思う。

いつもそこに来ればまつおさんと「りえさん」は一緒にいる。

わたしはまつおさんだけじゃなくて、「りえさん」にも会いに来たくてまつおさんのnoteに訪れているのかもしれない。

まつおさんは今日も「りえさん」そしてゆめのさんと生きてるね。



🥈銀賞🥈「真夏の死角」

甲子園を舞台にした高校球児のこの物語をわたしは何度も読んで、不思議に思う。目の前で砂嵐が舞うあの乾いた土の中に彼ら球児たちのやるせなさが、襲ってくる。

正直に打ち明けるとわたしは、野球に詳しくない。それほど野球に明るくないわたしが最後まで読み終えた時に、今目撃したこの世界について確かな印象の輪郭を持ったことに驚きを覚えている。

さわやかな青春小説と名付けられる奥行きのない物語ではない、いわばわたしたちがみえていなかった「らしさ」への反撃だったのかもしれないと感じたからだ。

「高校生らしさ」のらしさって何だということも含めて。

みこちゃんの文章は一行読み終えた途端に映像が立ち上がってくる。ほとんど知識のないわたしでも、あのテレビ中継では知り得なかった彼らの内面のドラマを覗き見たことで、心中おだやかでない気持ちに駆られる。

みこちゃんの小説はストレートで勝負している。

そして「小説」を書くってどういうことだとつきつけてくる。

コメントでもあるように誰かがこの球児たちの気持ちを「供養しなければ」と。

そう、「小説」は自己実現とかじゃない。小説に登場する誰もに心血を注いで書く行為なのだといことを私たち読者に教えてくれている。

みこちゃんありがとう!野球が好きになりそうです。



🥈銀賞🥈「桜のさくころ~ピスタチオさんへ捧ぐ」

「最後のたまごまる杯」に選ばせていただく基準って自分の中で、なんだろうって思った時に浮かんだのは、noteならではの記事を選びたいなってことだった。

noteってひとり淡々と、誰ともかかわらないで記事を黙々とあげることもひとつのあり方ではあるけれど。コメントやスキで交流を深めることもひとつのスタイルだと思う。

山口敦子さんのnoteを訪れると必ず誰かを応援している言葉に会える。

人の悲しみや痛みをじぶんのことのように感じられる人それが山口さんなのかもしれない。

詩を書く彼女はいつも自分の心に正直で。

このエッセイも彼女が大切にしてきた人たちすべてに温かい視線が注がれている。

noteを去って行った方へのバースデーソングを作って贈る。

それもとびきり好きな友達と一緒に。

これはいわばメイキングオブバースデーソング。

そして去って行った彼へのエールでもある。

そのエールは、読んでいる人にも届くにちがいない。

noteにいるということ交流することのすばらしさを教えてくれた山口さんにゼロの紙賞を贈りたいです。

🥈🥈🥈🥈🥈🥈🥈

ゼロの紙さんが選出した、たまごまる杯受賞作品は以上となります。

っとここで速報です!!ゼロの紙さんが6月1日の夜に新たな受賞者を発表されました。

選出された受賞者様と、ゼロの紙さんに敬意を評して、賞を新設したいと思います。

賞の名は、たまごまる杯ゼロの紙編 きらり賞

ゼロの紙さんの心に風を吹かせた受賞作も金賞、銀賞とともに、正式な受賞作品としてここに評します。

✨きらり賞✨8作品


✨きらり賞✨『小鳥の食卓』

詩の中で自然を詠う時のまなざしまでもが、
こちらに伝わってくるようなヒトシさんの詩。

鳥と言葉にした時、記憶している映像の鳥では
なくてヒトシさんの鳥は、裸眼で観ている鳥。

コガラ、ヤマガラ、スズメ、ヒヨドリ。

ヒトシさんの庭に広がる宇宙を見たようなそんな
気持ちにさせてくれる。自然の営みはあたりまえ
ではなくていつも奇跡のような変化に満ち溢れてる。

ヒトシさんの詩にいつもすがすがしい風を感じています。


✨きらり賞✨『120歳のお祝いに赤いオープンカーを買ってあげるよママ』

うわの空さんはこのエッセイで単刀直入に
「人生とは夏休みである」という謎かけをする。

一度きりの人生悔いのないように生きよう!とか、
人生楽しんだもの勝ち!とか、ひとつだけでも自分の
生きた証を残そう!とか、言うじゃないですか。
悔いのないように楽しく生きようっていう、プレッシャー、
いらないんじゃないかなって思うんです。
そして生きているだけでいいんだと言う。
ありがとうという気持ちでわたしは読む。

渡會将士さんの、「新千歳空想」の歌詞をとり
あげて希望だけの未来なんて苦しいだけじゃ
ないかって空さんは綴る。

空さんわたしはどこか同じ星から来た人のように
空さんを感じてしまうのはこういうエッセイを
読んだ時で、もう言葉失うほどうれしくなって
しまいます。


✨きらり賞✨『派手な傘』

寝癖さんの小説はいつ読んでも、はじまりが
何気ない日常なので油断してしまう。

駅で待っているお兄さんが雨に濡れるといけないので
傘を持って行く、ちょっとめんどいなって思っている
妹が生き生きと描写されている。

家族ってなんだろうって。

同じ傘の下で生きているってことかもしれないと
寝癖さんの小説を読みながらそんなことを想う。

この小説のもうひとつの主人公、虹色の傘ははじめ
冴えない傘として登場したのに、終盤でその虹色さえも
鮮やかにクローズアップされてゆく。

油断してるとエンディングでじわじわと涙が押し寄せる
寝癖さんマジックにまたノックアウトされちゃいました。


✨きらり賞✨『笑いの二つの意味』

洋介さんの詩に触れる度に、わたしのなかにあった
頑なな思いがほどかれてゆくのがわかる。

4月1日に投稿された詩。

嘘をついてだます日ではないんだよと言う。

人は笑いもするけど。嘲り笑うこともあると。

でも花はどうだろう。咲うんだよ。ただ咲うんだ
よって。

最後の1行でわたしたち読者が、ないがしろにして
きたあんなことやこんなことが、胸のすきまを
駆け抜けてゆく。

洋介さんの詩は読んだそばから、なにか心が
整ってゆくようでわたしにとっての処方箋です。



✨きらり賞✨『もしあなたがもう一人いたら、その人のことどう思う?』

このタイトルは、ドラマ『大豆田とわ子と3人の元夫』から。

八作(松田龍平)にすべてじぶんのベクトルで向かっていく
八作に片恋している早良のセリフ。

このセリフを畳みかけた彼女は、自分が問いかけた言葉に
自分で強気に答える。

「想像してみて、自分とつきあってる自分を」と。

このセリフを聴いた川中さんは、恋愛ドラマとしての
言葉ではなくて、自分自身を振り返り誰しもが

じぶんとつきあっているのじゃないかと疑問を投げかける。

そして最後の1行を放つ。ここに記すのはもったいないぐらいの、

じぶんのことが愛おしくなるようなそんな1行を。



✨きらり賞✨『冷蔵庫の中から愛を込めて』

はじめ読んだ時、この言葉の凝縮された
短さのなかに、なにかみてはいけない誘惑の
光をみたようなそんな気持ちになりました。

『冷蔵庫の中から愛を込めて』シリーズの一篇です。

ビジュアルのセレクションが秀逸で。
日常であるはずの冷蔵庫の中には、ほんとうは
わたしたちが知らないだけで、違う時間を生きている
そんな冷蔵庫もあるんじゃないかと夢想して
しまいそうでした。

このシリーズずっと読んでいたいです。
そしていろいろな冷蔵庫を夢見ていたいです。


✨きらり賞✨『水溜り』

kesun4さんの詩の魅力についてはいつも
言葉がうまくでてこない。

水溜まりの描写からはじまるのだけれど
水溜まりに映る水の表がまるでスクリーンに
なっているかのように、詩の時間が流れてゆく。

はしゃぐ子供が目の前にいる。

子供を子供のまま描写しない。
子供をみつめるまなざしに時の流れを委ねる。

桜を美しいと褒めるその日まで
桜に哀しさを感じるその日まで
そのまなざしの持ち主は桜なのだと気づいた時に
読者は、きっと溜息をもらしてしまうのだろう。

kesun4さん、コメントは面白いのにいつも
詩はすこぶるずるいです、だから好きです。



✨きらり賞✨『なぐなぐー味の旅』

なぐなぐさんの家族旅行の歴史が写真と共に
語られている。

家族旅行って、家族だからいいのだと思わされる。

縁あって家族の一員、なぐなぐさん風に言うと
一味になって共に暮らしてゆくことの安堵感が
写真となぐなぐさんの言葉から伝わってくる。

ご子息が小さかった頃から大きくなって成人されて
就職されるまでの記憶がなぐなぐさんのnoteに
込められている。

ご家族の背中を写された写真をみながら、背中を
撮るって、家族ならでは。

そこには許している背中が写っている。

家族だけに見せる背中、そして背中をみまもる
なぐなぐさんの視線。

みてくれているお父さんのまなざしはそのまま
それだけでエールになるのだなって思いながら
拝見していました。

家族への愛おしさを改めてきづかせてくれた
なぐなぐさんにありがとうを伝えさせてください。

✨✨✨✨✨✨✨

以上で本当に以上です。

どの受賞作品もとっても素晴らしい作品ばかりですね。僕も改めて、それぞれの作品を読んで、心温かくなり、目からは涙が何度も何度も溢れ落ちてきました。

本当に輝きに満ちている作品ばかりですので、お時間許す限り受賞作品をご堪能くださいませ。

↑受賞作品へ戻る

そして明日は僕、たまごまるが選ぶ受賞者発表となります。

明日も会場でお待ちしております。

新しい日々も 拙い過去も 全てがきらり(歌詞より)










ここまで読んでいただきありがとうございます。