見出し画像

能登半島地震から3日後【正直な不安と何もできないということを知る】


衝撃的な1月1日を終え、新幹線に揺られながら仕事に向かおうとする今日この頃なのだが、胸の中があまりにもモヤモヤしているので、吐き出しておきたいと思う

小泉志信という共感性の塊みたいな人間にとって、この3日間は相当な負荷がかかっていたことを駅のホームに向かう途中に自覚した。

よくよく考えてみるとこの3日間は、実家なのに熟睡できていない。目の下にはくまができて、震度3以上の余震が来るたびに、目が覚めてしまう。朝まで地震が来ないなんてことはなかった。

僕の家は能登半島から100キロくらいのところにある。現段階で最大震度は5強で、僕の家でこれだけ揺れているのだから、ど真ん中にいる人達の震度7の世界は絶望的なんだと思う。我が家が震度3で揺れる度に、能登半島は震度5強の地震が来てことが感じられるのがツラい。自宅でないところで余震が頻繁にくる中で過ごす人達の気持ちを考えると僕の寝不足なんて大したことはないように思えてくる。

16時ごろ、昼寝をしていたのだが自然と目が覚めた。その数秒後、揺れている気がした。急いで2階から1階に降りていくと親戚が集まっていたんだが、それどころじゃなかった。2度と聞きたくないと思っていた地震速報のアラートが鳴り響く。我が家は医療従事者と公務員がいるので、こういう時の安全確保に向けた動きは適格だった。火を止め、窓をあけて避難経路を確保し、安全を確保した。小学生の従弟が不安で叔母さんの足にしがみつく。そうしたらもう一度大きな揺れが来た。2度目来た時に不安が絶望に変わった。テレビをつけると、震度7という数字と津波の文字が見えた。テレビの先の街は土煙が舞い、何軒か崩れていくのが見えた。自分の街では地震と避難指示を伝えるサイレンが至る所から鳴り響く。鳴り響き過ぎて、もう何言っているかは正直わからない。ただその大きな音が異常事態であることを教えてくれている。



揺れが一旦収まって、家に集まっていた親戚がそれぞれの家を見に帰ろうとする。こういう時に安全なところにいなよと心から思ったが、いざ当事者になると自分の家が心配でしかない気持ちがよくわかる。家が大丈夫だという確信を得られないと心から安心なんてできないのだ。幸い海からかなり離れた平野部の人が多いので、津波の心配が少ない地域ではあった。石川県から来ていた親戚もいたが、家に行くのが無理そうならいつでも引き返すように父が伝える。

動揺はあった。だけど、やるべきことを整理する。こういう時に避難訓練を日頃をしている価値を認識する。親戚の中にも危機感のないことを言う人もいた。そう思いたい気持ちもわかるが、事の重大さを感じていた僕はできることから動くことにする。この危機察知能力ばかりは日頃の訓練の差なんだと思う。

我が家は幸いなことに電気は止まらなかった。また正月ということもあり、食料はたくさんあった。ただ水はどうやらダメそうだった。水が出てこない。理由はいくつも考えられたが、最悪の場合を想定して、街に水の確保に向かった。コンビニから水や飲料水は消えて、皮肉なことにお酒だけがたくさん残っていた。一番近くのスーパーは棚から商品が崩れ落ちて、営業を停止していた。元日ということもあってそもそもしまっている店も多かった。街を回ってたまたまやっていた大型スーパーで親戚分の水を確保した。最悪のパターンも考えて、石川県の親戚が水が持っていける分くらいの水を確保した。しかし、これ以上買うと我が家以外の家が困るかもしれないと思って、どれだけ買っていいのかもわからなくて、正直苦しかったが、とりあえず最低限必要な分だけ買って家に戻った。

家に戻ると、親戚が帰ってきていた。近場の親戚は大きな被害がなかった。石川県の親戚は家に帰ることができず帰ってきていた。家から石川県までの道が崩落していたのだ。崩落に巻き込まれず無事帰ってこれてよかった。

地元の友達は被害がなんとなくわかったので、どちらかというと心配だったのは、遠方の友達だった。石川県や新潟県の友達の安否確認が取れるまでは本当に不安だった。特に能登半島の友達が心配で気が気でなかった。連絡が無事に取れたのは、19時ごろだった。友達は家族含めて引っ越していたようでよかったが、元の家だった場所は地獄絵図だったのを教えてくれた。なんだこれ、下は津波で上は火事って、なんだこれ。生きた心地なんてしない。



知り合いの家はいくつか断水していた。避難所に避難した人も多かった。なんとかしたい気持ちはありつつも、人の家の心配ができる状況ではなかった。井戸水が使えるようになるまで、それから丸1日かかるような状況だったので、まずは自分のことを優先するしかなかった。

家族は勤務先が近隣なこともあって、医療関係者の家族には病院から緊急招集がかかった。こういう時に公務員という立場は複雑だと思った。これが東京都で起きたら僕も家族よりも地域を優先しなければいけないのだと思うと、素直に苦しくなった。正直こんな時ぐらい家族にそばにいて欲しいし、いたいと思う自分もいた。

元旦を祝うために、たくさんのご馳走が用意されていたが、みんな箸が進まない。従業員の安否確認に追われている人、安否確認の連絡をしないといけない人、施設が壊れていないか不安にかられる人、新居が壊れていないか不安になる人、こんなにも喉の通りが悪いのはいつぶりだろうか。

テレビからは地震の情報が溢れ、最新の情報に更新されていく、火事が起きたことを知り、被害が広がっていく未来が見えて、両腕が震えていることに気付いた。数分後に応援に駆けつけるためにたくさんの消防車が高速道路を通っていくのが見えた。何台も何台も向かっている。能登半島とどれだけ距離があるかわかっているからこそ、あの消防車が現地に着くまでの時間が現地の人にとってどれだけの大変なのか想像できてしまうのが、また僕を苦しくする。

僕は無力だった。そして、たくさんの連絡が来るたびに自覚する。僕は助けられる側だということを。その日の夜は余震の度に目が覚めて、生きた心地がしなかったことだけ覚えている。

1月2日は皮肉なくらいの快晴だった。日本海側で冬場で青空が見れるのが、よりよってこのタイミングなのかよと少し神様を呪った。朝になると被害の全貌が少しずつ見えてきた。津波の被害、火災がまだ鎮火していないこと、倒壊した建物と安否確認出来てない人が多くいること。でも、自分には何もできないこと。

石川県の親戚は通れる道から家に戻ることになった。最悪の場合を考え、夜が遅くなる前の17時には無理そうなら帰って来るように伝えた。幸いガス・水道・電気が大丈夫だったようで、必要な食料だけ買い込んで帰っていった。

我が家は我が家で、井戸水の問題を解決するために設備の確認が始まった。こういう時、土木関係の仕事をしていた父は有能だ。その働きをそばで見ることしかできない自分の無力さがまた自分を苦しめる。これを機に、我が家の電気・ガス・水について非常時にどうするか教えてもらった。それくらいしかできないのだ。夜には水は元通り使えるようになっていた。

さて、そこからは被害が大きい能登半島に何かしようかと考えだしたのだが、結論何もできなかった。能登半島にいける道はほとんど封鎖されており、石川県に行ける道もほとんどが封鎖されている。行ける道も救助に向かう方がスムーズに行けるようにすることが優先順位が高い。民間人の僕が現場に向かったところで、崩落に巻き込まれると逆に迷惑になってしまう。物資の支援に関しては、そもそもこちらも何があるかわからない状態で、何かあったときにこちらが物資が足りないことも想定される。

何もできないのである。
何もできないことだけがわかった。

無力さを感じる一方で、別の感情が湧き出てきた。それがいつでも会える人に会いに行きたい、大切にしたいという感情だ。コロナになったことで、地元の人とはかなり疎遠になっていた。東京から来た自分がコロナを移そうものなら村八分も覚悟しないと行けなかったこともあって、一度疎遠になり、それ以来顔を出していないところが多々あった。

しかし、今回の件があって、いつでも会えるは簡単に崩れてしまって、いつでも会える訳じゃないということを強く感じた。だから、ちゃんと会いに行こうと思った。

そう思えたので、1月3日は久しぶりに色んな人に会いに行った。被害が比較的に少ない地域なので、色々とやるみたいだった。中学校の柔道の初稽古に数年ぶりに顔を出し、高校のラグビー部のOB会にも顔を出してみた。久しぶりで戸惑いもあったが、こういう何気ないことが大切なんだなって思えた。

そして、1月4日になり仕事のために帰宅の途についているわけなのだが、本当に怖かったよ。正直実家を離れることに躊躇いがあった。もっと家族のそばにいたい気持ちもあった。離れているから今後何かあった時に物資を運ぶことができたり、やれることが増えることもわかっている。自分が助けられる立場になって、助けられる側の人の限界も感じた。だからこそ、スキルがない僕は一度離れて、いつでも何かあったときに物資や必要なものを運ぶ方が役に立てるかもしれない。そんなことはわかっている。だけど、ただ苦しい時に家族のそばにいたいんだ。見えないところで不安になるくらいなら見えるところで一緒に不安を乗り切りたいと思うんだよ。

でも、たぶんできなかった。たぶん僕はこれ以上地震がいつでも起きて、揺れが続く中で生活していくと少しずつ自我が壊れていく気もしていた。誰かが苦しんでいるのが体感知としてわかるのは僕にとっては拷問なのだ。

無力な自分が憎い。悔しい。そして今この文章を書きながら、雨が振り始めた地元を離れてしまったことに罪悪感も感じている。自分や多くの人が緊急時に言っていた「こうしたらいいじゃん」がいかに薄っぺらいのか痛感した。

何が正解かわからない。
何ができるかもわからない。
好きに俺のことを叩いてくれ、何も出来なかった俺を、それなのに地元を離れた俺を。

多くの方々から心配の連絡を頂きました。
本当にありがとうございました。
現実的なアドバイス助かりました。特に東日本大震災を経験した友の言葉は重たく、本当に助けになりました。
何ができる訳でもないですが、いつか恩返しはさせてもらえればと思いますし、これから僕の地元も何があるかわかりません。その時は力を貸してください。

以上、無力な27歳からでした。

この記事が参加している募集

この経験に学べ

サポートして頂いたもの、全て教材の作成費用等の子供たちのために使わせて頂きます。