見出し画像

デジタル名刺プレーリーカードを作るまでの軌跡と込めた想い【友であり、ライバルとのアサヒ荘での出会いと葛藤と挑戦の先に】

今回小学校教員から鎌倉市の教育委員会に移るタイミングで、デジタル名刺の「プレーリーカード」を作った。
プレーリーカードについては下記のリンクを見て欲しい。


さて、このプレーリーカードなのだが、実はこのカードが作られたかなり初期の段階から、その存在を知っていた。それはこのカードを作った人が僕の友であるあかねと大地さんだからだ。2人とはアサヒ荘というクリエイターが集まるシェアハウスで出会った。アサヒ荘はそもそもあかねが発起人なり、大地さんやひろくんなど6人のクリエイターが集まって作ったシェアハウスで、ひろくんが海外に旅立つタイミングでアサヒ荘のメンバーが贈り物として作られたのがプレーリーカードだったのだ。僕の後輩がアサヒ荘のイベントでお世話になったこともあって、ひろくんが旅立つ直前くらいに遊びに行ってみたことがアサヒ荘と僕との始まりだった。


当時の僕は公立教員×起業家という特殊な生き方をしていたこともあって、正直教育者や起業家との繋がりが多く、仕事もうまく回せるほど経験もなかったからこそ我武者羅で動いていた。だからこそ、仕事以外でそういった人達と関わることが正直苦しかった。そんな僕にとってアサヒ荘は、少し不思議な居場所だったと今でも思う。月に1度のイベントに顔を出していて、教育者でもない、起業家でもない、ゆるゆるとした小泉志信として生きられる時間はありがたかったし、しーいばくんやとらさんともそこで出会った。アサヒ荘とそこに集うみんなと過ごすのが居心地が良かった。

そんな中で、僕は自然とアートに触れていった。アサヒ荘に関わる人に導かれ、人生で初めて個展というものに行ってヒロくんの絵を買ったり、色んな人の絵を見に行ったり、これまでにない出会いを楽しんでいた。そんな中で大きな転機はしーばくんの絵だった。2022年に見た「ハーブ&ドロシー」の映画の中で、生活の中に絵があり、絵と共に出来事や思い出を共有していくとい生き方を知り、しーばくんの個展に行ったときに「光」という作品と共に生活してみたいと思うようになった。初めての大きな買い物だったけど、そこから日常は面白いように変わり始めた。「光」という絵は光の当たり方によって見え方が変わる作品で、その日の太陽の入り方や自分の見る角度で見え方が変わっていて、そこからその日の自分の状態がわかるようになってきた。これまでにない感覚でワクワクした。


そんな生活を通して、たぶんクリエイターのみんなのことを尊敬していた。自分にはないものを形にできるみんなのことが羨ましかったけど、不思議と嫉妬はなくて、心から尊敬していた。たからこそ、なんとかして素敵なみんなの力になりたいと思った。

そこで始めたのが「居る画材(しゃべる画材)」だった。生み出すことを生業にしているアーティストが、生み出したいものを悩み過ぎて苦しんでしまうのが嫌だったんだと思う。そんな想いから、アーティストが製作活動する側にただ居るのだ。個人の感情や感想を伝えることはせず、ただ事実を伝え、問いを投げかけていく。そうして製作過程に寄り添い、作り手を孤独にせずに、1人では気づけない内容も相手がいることで気づける。誰かに見られながら作り、対話しながら作る絵の具でもない、キャンバスでもない新しい画材としてアーティストの表現にしたいに力を貸していく新しい形を考えていた。そして、作品が展示される時にアーティスト本人とは違う視点で製作過程を語り、新しい付加価値を生み出すことができないとかと考えた。アサヒ荘にいたあやかやしーばくんのそばで居させてもらった。アーティストが本気で製作に向き合う表情は本当にかっこよくて、なんて贅沢な時間なんだろうって思っていた。





そんな生活をしていったのだが、ある出来事が僕の中を一気にかき乱した。それがプレーリーカードがQWSチャレンジに合格したことだ。衝撃だった。もちろん、プレーリーカードがそれくらい価値があるのは知っていたし、できた経緯も知っているからこそ、あのカードに込められた願いを多少なりとも知っていたからこそ、ものすごく嬉しかった。嬉しかったんだけど、どこか引っかかっている自分がいた。その想いの正体に気づいたのはプレーリーカードがその3ヶ月後にあったQWSステージの最優秀賞を取った時だ。その時にはっきりとした。

ものすごく悔しかったんだと思う。これまで教育者でも起業家でもない小泉志信としてアサヒ荘にいられたからこそ、ある意味何も考えないで友としていられたんだけど、同い年のあかねと大地さんが自分のコミュニティマネージャーの師である翼さんのいるあのQWSステージで最優秀賞をとった。この事実は起業家の僕にとって嫉妬せざるを得ない内容だった。そばにいた友が急に負けたくないライバルのような存在に勝手になっていった。

僕の気持ちはぐっちゃぐちゃだった。その想いが「プレーリーカードを作らない」という行為に表れていた。その当時はわからなかったんだけど、たぶん僕の中で、ここでプレーリーカードを作ってしまうともう2度とあかねや大地さんとフラットに関われないかもしれないと感じていたんだ。サービスを作る人と受ける人になってしまって、そこから脱せないような気がしたんだと思う。それは嫌だった。友としても僕は2人の横に起業家としても立っていたかったんだと思う。

まあ、でもそこからすぐに上手くいくわけはなくてさ、そこから半年間くらいは空回りする時期が続いた。

それから学校が変わって、思いもよらないチャンスが回ってきた。それが学校としてQWSチャレンジに応募するというものだった。IKO(板橋第十小学校の研究を面白くする会)として、1年間探究学習に挑戦する上で、外部人材との繋がりを作るためにSHIBUYA  QWSを活用しようという動きだった。なんの運命のいたずらなのかQWSチャレンジに無事採択され、QWSでの挑戦の日々が始まった。

最初の3ヶ月間は職員会議をSHIBUYA QWSでやったり、学校に100人の大人を呼んだり、QWSのメンバーを学校に呼んで、人生について語ってもらったりと色んなことにトライした。むかえた10月のQWSステージ、2人が最優秀賞をとってからちょうど1年後、結果は優秀賞だった。めっちゃ悔しかった。本当に悔しかった。公立学校でよく頑張ったよ。ここでいいじゃないか。と満足して、歩みを止めることができたのに、そこで歩みを止めなかったのは、友の存在があったからだと思う。あかねや大地さんに胸はって横にいられない。もちろん頑張ったの理由は、それだけではないのだが、その側面も間違いなくあった。


そこから3ヶ月、僕が足踏みをしているうちに2人はまた一歩先に進んでいく。「未来の市場をつくる100社【2024年版】」に選ばれていて、その勢いは誰しもが認めるものだった。追いつけない。悔しい。僕自身競争社会の見方から脱せていなかったってことはわかっている。でも負けたくないという気持ちはどうしても湧いてくる。


そんな僕の捉え方を変えるきっかけをくれたのも、みんなが出会わせてくれたアートだった。とらさんの家で米を食う会があって、みんなでお米を食べる前に絵を描いた。実はちゃんと絵を描くのは高校生ぶりで、どんな感じになるのか自分でもイメージが付かなかった。いざ筆を動かしてみると本当に楽しかった。正解のない世界の中を歩いていくわくわくとこれまで出会ってきた友の生き方が自分の描き方に滲み出る瞬間があって不思議な感覚がした。

絵を描く中で正解はないけど、拘りたいラインはある。けど、その先は自由なんだと改めて体感した。僕の歩く道はあかねや大地さんとも違う。でも、たぶん出会いの新しい文化を作っていく2人と教育という枠組みの中で新しい文化を作っていく僕は文化を作るという意味ではやることは似ているのかもしれない。けれど、明文化されているものが多い分、僕のやりたいことを考えても急いでも急に変わることはない領域であり、焦ってそんな速さで行かない方がいいことだと思えた。でも僕は2人と友としてフラットに関わりたい。これは僕のエゴであり、ゆずれない拘りだ。だからこの感情に決着をつけたい。僕がこんな感情になるきっかけを作ったQWSステージで最優秀賞を取ることで、僕の中でのこの感情にケジメをつけたい。そこから先、きっと僕は僕のやり方で2人ともフラットに歩いていけると思えた。

そして、僕は僕のためにも、全力でもがいた。10個の企業とコラボして、プロジェクトに取り組んだり、他の学年にも企業を繋いだり、自分が経営している一般社団法人でも他の会社とコラボレーションし実証研究もして、我武者羅に走った。覚悟を決めた1月のQWSステージは緊張で言葉が飛んだ。初めて時間もオーバーした。正直めちゃくちゃやり直したかった。悔しかったけど祈るしかなかった。

最優秀賞で名前を呼ばれた時は心から救われた気持ちになった。


そうして僕は、2年間かけて気持ちの整理をつけて、ようやくプレーリーカードを作ることにした。
いざ、作るとなってみるとどんなデザインにするのか本当に難しくて、なかなかいいアイデアが出ないで頭を抱える日々が続いた。そんな中で、小泉志信史上最大の挑戦が訪れた。1年間で1000人の大人を呼んで人生設計を作る探究学習の授業をやっていたのだが、最後に現実的ではないと思って諦めていたことに挑戦することを決めたのだ。それがアートの授業だ。

1000人の大人と出会って子供たちが作った人生設計をアーティストと共にアート作品にするというものだ。この授業を実現するためには子供1人にも1人のアーティストを集めないといけない。その数100人。アーティストでもない僕がやるにはあまりにも過酷な企画だった。でも、この企画を支えてくれたのはひろくんやしーばくん、とらさんなど、アサヒ荘で僕と出会い、道は違ってもそれぞれの道で本気で向き合ってきた友とも仲間とも呼べる不思議な人たちだった。

この授業に向けて動いている中で、プレーリーカードを作るのであれば、プレーリーカードが生まれた場所で出会い、これまで僕に新しい世界を知るきっかけを与えてくれた友に作って欲しい。できれば、これまで誰もやったことがない小泉志信の集大成とも言える授業を一緒に形にした上で、僕のことを描いて欲しい。それを新天地にお守りのように持っていきたいし、プレーリーカードにして、そばで見守って欲しいという想いが芽生えてきた。

迎えた3月1日
学校に100人を超えるアート関係者が集まり、間違いなく僕の人生の中でも一番の授業ができた。


授業を終え、保護者会を終えて、退勤して教室に向かう。小泉志信が人生をかけて全てを捧げた教室でという場所で、最高の授業を共に形にした友とその日最期のセッションが始まった。
今回新居に飾ることも考えて、既にしーばくんの絵は僕の家で僕と共に過ごし、いつも励まし勇気づけてくれていたので、まだ大きな絵を描いてもらったことのない2人に描いてもらうことにした。人生で初めて絵を買ったひろくんには小泉志信のポジティブな面を、大人になって初めて絵を描くきっかけをくれたとらさんには小泉志信のネガティブな部分を描いてもらった。製作が始まる前に教室を見渡した時に心奥から込み上げてくるものがあった。人生をかけた場所で、僕が1番好きな本気な時のアーティストの顔をしている友がいる。嬉しかったな。
ひろくんとは対話しながら絵を描いてもらった。自然と言葉が溢れていって、不思議な感覚だった。ひろくんの筆が進む度に胸が高鳴っていった。とらさんは絵と向き合っていて、とらさんの周りだけどこか神聖な空間であるかのように感じた。楽しい時間はあっという間で、2つの作品が出来上がった時のワクワクする感じは今でも心の中に残っている。



ひろくんの描いた小泉志信のポジティブな面
小泉志信は一見すると熱過ぎて火傷しそうなんだけど、触ってみると意外と火傷するほどではなかった。小泉志信はアメーバみたいで、周りに熱を伝えていくんだけど、どこにも小泉志信はいなくて、でも熱は確かに伝わっていく。小泉志信という存在を広めるのではなく、自然と広がっている感じを表してくれた。なんか嬉しかったな。文化を作る人になりたいって思っていはいたけど、ひろくんに伝えたことはなくて、その在り方が滲み出ているのかもしれないと思うと自分もまんざらではないなと思えた。



とらさんの描いた小泉志信のネガティブな面
小泉志信は基本的に誰かに尽くそうとする想いが大きくて白が強いんだよね。なんでもやり遂げてししまうから、外から見ると真っ白に見えるんだけど、中ではちゃんと血肉を削っていて血反吐を吐きながら踏ん張っていて、それが茶色のようなものに表れている。残りの水色と緑は何かわからないけど、きっと小泉志信になくてはならないものなんだと思う。僕にとっての水色と緑が何かは正直まだわからない。たぶんそれを探して見つける旅でもあるのかなんて思えた。



これから小泉志信は教育実践家ではなく、行政の人間として教育現場を歩んでいくことになる。多くの人と出会い、出会いの中でプレーリーカードを使うことになるだろう。これまでは教育実践家として授業を語ることで関係性を築いてきた。でもこれからは、それだけではいけないだろう。時に、関係性を築くのが難しい人も少なくないだろう。だからこそ、このカードの存在が相手に自分のことを知ってもらうきっかけになって僕の背中を押してくれると信じている。



僕にとってこのカードは、ただのデジタル名刺ではない。小泉志信を小泉志信としていさせてくれたアサヒ荘という場で出会った友が開発し、アサヒ荘で出会った友が僕を表現してくれた1枚だ。小泉志信の内面の分身的な存在であり、時に背中を押してくれるような存在である。

このプレーリーカード1枚を作る軌跡は小泉志信が1つのコミュニティの中で、人と出会い、世界を広げ、高め合っていった足跡ではあるが、僕にとってもコミュニティにとってもサイドストーリーのようなものなんだと思う。

もちろん、小泉志信の歩みはこれだけではないし、様々な面の集合体であるので、こんなシンプルな道筋ではないわけだが、それでもこの軌跡はあまりにも僕にとって影響の大きい一面だったんだと思う。

今日もこの1枚と共に一歩踏み出していけばと思う。

この記事が参加している募集

この経験に学べ

仕事について話そう

サポートして頂いたもの、全て教材の作成費用等の子供たちのために使わせて頂きます。