山道の怪
やばい。
薄暗い森の中。私はオートキャンプ場への帰路を急いでいた。
午後3時にはキャンプ場に戻るはずだったのに。どうしてこうなってしまったんだろう。
雨の後で、思ったよりも道がぬかるんでいたのが原因か。なんにしても、暗くなる前にキャンプ場へと戻りたい。
山の日暮れは早い。薄暗くなったと思ったらあっという間に周囲が見渡せなくなる。幸い、もうかなり降りてきているので、後1時間くらいで到着するだろう。
そう思いながらも、段々と薄暗くなる周囲と、人気のない山道に心細くなる。早く、早く。
ついつい、焦ってしまっていた。しかし、体はもうかなり疲れているため、足が自分で思っているよりも上がっていなかった。そのことに、気付いていなかったのだ。
あっ、と思ったときにはもう遅かった。足元の木の根に足をとられ、体が前につんのめる。やばい!と思いもう片方の足を出すが、足をついた場所が悪かった。ぬかるんだ土にもう片方の足もとられ、体が藪の方へと傾く。
そのまま。
私は、藪の中に落ちた。
坂になっているので、横になったまま体が滑り落ちる。叫びながらずざざざ…としばらく下った後、急に背中に衝撃が来てようやく、体が止まった。
「いった……」
思わず呻く。
後ろを振り向くと、そこには大きな木の幹が見える。どうやら、この木に救われたらしい。
打ち付けた腰を擦りながら、まずは自分の状況を確認。背中を打ち付けたくらいで、どこも大きな怪我はしていないようだ。藪の中を滑り降りてきたので、若干の擦り傷はできているようだが。
まずは落ち着こう。
ばくばくと鳴る心臓を、深呼吸することでおちつける。そして、体勢を整えるため、地面に手をついた。
手に触れたのは、柔らかい土の感触ではなかった。何やらつるりとした固く平たいもの。
おや、と思って手元を見るとそこにあったのは一昔前の携帯電話。
灰色の丸みを帯びたボディ。ぱかっと開いた上部分はヒビの入った画面。下部分は操作のためのボード。脇にはもうボロボロになってしまい原型をほとんどとどめていない、テディベアと思われるストラップがついていた。
昔、登山客が落としていったものだろうか。
この様子では、持ち主はもう既に新しいものに変更しているだろう。持っていくのも変な話なので、そのまま捨て置くことにする。
そして、リュックを背負い直し、落ちてきた斜面をほとんど四つん這いになりながら登ってゆく。
ぜえ、はあ、と息を切らしながらなんとか登山道に這い上がることができた。逸る心臓をおちつけ、ゆっくりと歩き始める。
もう、こんなことはこりごりだ。
しばらく歩いていた時だった。
"ちりん" "ちりん"
と、そんな音がどこからともなく聞こえてきた。耳をすませてみると、どうやら自分よりも後ろの方から聞こえてくる。
おそらく、熊避けの鈴だろう。ということは、自分の後ろにも人がいるのだ。
今までひとりだったのもあり、安堵が一気に押し寄せる。
よかった。私だけではなかったんだ。
しかし、しばらく歩いておかしな事に気がついた。
後ろを見ても、登山客の姿が一向に見えない。なのに、鈴の音だけはやけにはっきりと聞こえる。
それも、だんだんと近く、よりはっきりと聞こえてくるのだ。
私は、だんだんと薄気味悪くなってきた。
また、足が少しずつ、少しずつ早くなる。
とにかく、薄気味悪さを払うように無心で歩いた。幸い、登山道は歩きやすい木道へと移っている。
"ちりん" "ちりん"
と、熊避けの鈴は鳴り続ける。
ふと気がつくと、また、妙な感覚におちいった。
あれ?私、1人だよね?
ふと、人の気配を感じて振り返る。勿論、そこには誰の姿も見えない。前に向き直りまた歩き始めるが、後ろの気配は消えない。それどころか、なにやら自分の周囲がざわざわとしているように錯覚し始めた。
まるで、人の集団のど真ん中を歩いているかのような
思わず走り始めた。しかし、周囲の人の気配は消えない。熊避けの鈴の音も、私につきまとうかのように鮮明に鳴り響く。
"ちりん" "ちりん"
木道をしばらく走ったが、周囲のざわざわとした感じは消えなかった。
息を切らしてしまい、木道の真ん中でへたりこむ。
息を整えてから。また進む道を見据えた。その時だった。
やっと、人の姿をその目にとらえたのは。
藍色の登山リュックを背負った人。背丈や体型から見て恐らく男性だろう。
よかった、やっと、人に会えた。
だんだんと暗くなる山道。いまだに聞こえている熊避けの鈴の音。心細さと気味の悪さを抱えたなかで、人を見つけた喜びはひとしおだった。
しかし。
またもや、奇妙なことに気がつく。
その男性は、木道から外れた場所に立っているのだ。
リュックを下ろし、休憩するでもなく、木道から外れた腐葉土の上にまっすぐ立ち、微動だにせずにじい、と道の先を見つめている。
登山者が木道を降りるときは、大抵立ったまま休憩をするか、何か興味を引く動植物や景色があったか、あるいは後ろの人に道を譲るときだ。
しかし、男性の行動は、それのどれにも当てはまっているとは思えない。
休憩しているようにも見えないし、何かに興味を引かれたようにも見えない。ましてや、その男性の先に道行く人影もない。
足を挫いてしまったのだろうか。しかし、まっすぐ、微動だにせずに立っている姿からは、とても怪我をしている人にも見えなかった。
まるで、店頭に置いてあるマネキンのよう
嫌な想像を追い払うようにかぶりをふり、もう一度立ち上がる。なんにせよ、迂回ルートもない以上ここを通らなければ話しにならない。
その登山客に迫った。登山では、道を譲ってくれた人に挨拶をするのが暗黙のルールのようになっている。だから私は、その人を横切るときに挨拶を返す。
『すみません。ありがとうございます』
その言葉に、なぜか男はぎょっとしたように自分を振り返った。その目は丸く見開かれ、驚愕が顔に浮かんでいる。
そして。
『うわっ』
急に、その男性に手を引かれた。
当然、自分の足は木道から外れ前につんのめる。
『な、急に何するんですか!』
当然のごとく男性に怒りの声を浴びせたが、男性はこちらを見てすらいなかった。
じい、と、木道を、しいてはその道の先を見据えている。
まるで、何かを見ているような
"ちりん"
またあの音が、はっきりと聞こえた。
"ちりん" "ちりん"
それと同時に、あのざわざわとした感じが迫ってくる。
『あ、あの、離してください。もう暗くなるし、早く帰らないと』
そう訴えかけるが、男性は答えない。
そういってる間にも、音が迫ってくる。
"ちりん" "ちりん"
恐怖に震えながら音が迫ってくるのを感じていた。が、気がつくとそれが、段々と遠退いていく。
それと同時に、あのざわざわした感じも遠退いていくのがわかった。
『あんた、危ないところだったな』
唐突に、その男性が喋りかけてきた。
『えっ、何?どういうことですか』
確かに時間は遅くなっているが、危ないとは。
『あんた、帰る途中で死者の持ち物にふれただろ』
死者の持ち物。死んだ人の持ち物。
思い浮かんだのはあの携帯電話だ。テディベアと思われるストラップのついた。
『そんなもの……』
『あんた、死者の列のど真ん中にいたんだぞ』
ぞっ、と総毛立った。死者の列?じゃあ、あの、ざわざわとした感じも、あの鈴の音も……。
いや、そんなことはない。気のせいに決まってる。
『どこかで、変なものに触らなかったか』
『えっと、実は途中でぬかるみに足をとられて重美に落ちちゃって。そこで古い携帯電話を見つけたけれど…でも、持ってきてないし、第一死んだ人のものかは…』
すると男性は、すたすたと木道を進み、その先の木道から外れ獣道に入るところから何かを持ってきた。
『こんなのか』
男性の持ってきたものを見て息を飲んだ。
それは、あのとき、私がふれた携帯電話そのものだった。灰色の丸みを帯びたボディ。ボロボロのテディベアのストラップ。
『なんで、こんなところに…』
『あんたが落ちたってのは平沢曲がりから少し行ったところか?』
『な、なんでそんなことがわかるの!?』
確かに、私が落ちたところは平沢曲がりからほんの少し進んだところだ。
『あそこでは昔から事故が多いんだ。藪に隠れてわからないが、あの坂を下るとその下は崖になっている』
ぞっとした。じゃあ、あの木からほんの少し外れた場所に落ちていたら私は……
『これも、そこから落ちて亡くなった人のものだろうな』
『ねえ、教えて。あなたは何をしていたの?なんで、私は、』
『ここではこの時間帯になると山で死んだ人が列をなして降りてくる。毎日、毎日。ほとんどこの時間帯になると人がいることはないけど、本当に稀に、あんたみたいな人が混ざりこむんだ。そうすると、その人は大抵行方不明になる』
『ゆ、行方不明って、』
『実際、何人もの人が消えてる。まあ、山では人が行方不明になったりは有り得ない話じゃない。心霊云々を抜きにしてもな』
じゃあ、私は、あのまま進んでいたら……
『だから俺は、ここの登山道が解禁される時期にここにいるようにしてる。あんたのように、うっかり迷いこんだアホを連れ戻すために』
『あなたは、その、私の回りに、見えてたの?その、……………死んだ人間が』
『さあ?どうだかな。あんたの好きに解釈してくれていいよ』
そう言うと、男性は歩きだした。
『登山出口はもうすぐだ。さっさと帰りな。気を付けろよ』
そう言うと、さっさと道を降りて行く。
あれから、なんの音もなく、なんの気配もなくなった。あの携帯電話を落としてしまった人は、まだこの山をさまよっているのだろうか。そして、それからも、私のような人が死者の列に迷い込み、いなくなってしまうのだろうか。
私は今回、無事に帰ることができた。だけれど、この先はわからない。
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