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病気、浪人 救いなきこれまでを

Twitterを始めて早3年、自分の想いや考えをまとめもせず、煩雑なまま放り投げる毎日。正確にはインスタで、友達相手に同じ事をし始めた4年前から、多少なりと文章力も上がったと思い、一念発起した

浪人生が、現役生や受験を終えた人の言葉を鬱陶しく感じるのと同様に「僕、私はこんなに苦しい思いをしてきましたが、乗り越えました!努力万歳!」という世の中に氾濫するサクセスストーリーに納得出来ない人も多く居ると思う

それが悪いとは言わないが、大半の人々が努力を重ねても報われない。人の意見を聞き入れるだけで上手く行くほど人生は簡単ではなく、成功者の言葉を素直に受け入れられるほど、人間はうまくできていないらしい

人に打ち明けられない悩みや症状を抱えながら、日々、世間に溢れる成功談に打ちひしがれ、そうはなれない自分に苦しむ人が多く居るだろう。悲しみや苦しみを元手に、涙と共感、好感度を得ようとする活動者たち。「私は乗り越えました、貴方も上手く行きますよ」とか無責任に言うんじゃねえ。お前ばかり楽になって、幸せになって、なんて馬鹿馬鹿しい

そんな捻くれた想いも打ち明けられず、悪いのは拗らせた自分と分かりつつも、素直に受け入れられない人は他にも居るんじゃないかと思う。おれはよく「浪人生にしか出来ないことなんてない」と自虐して話すが、この1番多感で色んなことを考える時期に、病気や浪人、親からのモラハラ等、そんな経験をしてる人は中々いない

おこがましいかもしれないが、そんな稀有な経験をして、苦しんでいる真っ最中のおれの言葉には、少なからず無責任な言葉を放つ成功者より、幾らかの説得力と信憑性を持たせられるのでは?と考えた。その上、文章を綴るのが得意ときた。「今、やらなくていつやるんだ」と

そんな経緯があり、齢19のリアルな苦しみ、これまでの人生を赤裸々に綴ることにした。以下、半生を振り返る

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卑屈で陰鬱な話をしているし、意外に思われるだろうが、実はおれの小中学生時代はバリバリ体育会系で、明るく見られる人間だった。小1からずっと続けてきた空手と、真面目に物事を続ける能力で、勉強もスポーツもそれなりに出来た。小学生というコミュニティで、しかも大阪の荒れた地域では、結局は足が速い奴、もっと言えば、不良も恐れない度胸のある奴じゃないと人前には立てなかった

そんな環境で、口も立ちスポーツもでき、割と楽しい学校生活を送れていたが、その少年時代は手放しに素晴らしいものだとは言えなかったし、その頃の仄暗い経験が、人格形成に大きな影響を及ぼしたのは言うまでもない

唐突だがおれは空手が嫌いだ。今年で空手歴は14年目にも関わらず、おれは空手が嫌いだ。正確には空手を通じて人と切磋琢磨し合い、人との繋がりが出来る点では素晴らしく、その一点だけで続けているとも言える。だが、幼少期に格闘技を経験した人なら分かると思うが、小中学生の空手の大会はまさに地獄絵図だ。そういう場所には親が来ているのが当たり前だが、子どもに空手をやらせる親というのは、厳しい親や子ども以上にのめり込んでいる人が多い。負けた子どもは親にビンタされ、暴言混じりの説教をされて、親のいない所でもう辞めたいと泣いている子どもを何人見てきただろうか

セコンドに入る師範と両親


それは大会だけでなく、普段の練習でもそうだ。おれもご多分に漏れず、父がおれ以上にのめり込み、厳しい練習をこなす様に強制してきた。毎日、グラウンドで吐きそうになるまで走り込みをさせられ、道場では自分より一回りも二回りも大きい先輩にボコボコにされながら夜まで練習させられた。終いには、普段の学生生活よりも空手が優先の生活になっていた。今思えば、小学生の頃から夜遅くまで無茶なハードワークをしていたことが、高校時代の病気にも繋がっていたのかもしれない

そんな生活を9年も続ければ多少なりと成績も残し、実力も付いたが、それは自分の力ではなく、父の力でしかなかった。説教をされる時は今でも「今までお前1人で何が出来た?何も出来なかったクズだろうが。」と罵られる

その通りだ。おれは父に怒られるのが怖くて、殴られるのが怖くて、ただ従っているに過ぎなかった。練習をサボり気味で大会に負けたある日、家で顔面を殴られ、頭を持って地面に叩きつけられ、木刀で殴られ、鼻血を出しながら謝り続けたあの日の記憶が、今でもトラウマとしてこびりついている

真剣に練習を頑張れば怒られずに済んだ。勉強を頑張れば殴られずに済んだ。怒られる事や殴られる事を恐れて、そこから逃れる為だけに努力していた。恐怖から逃れることだけが人生の重心だった9年間は実に空虚だった。父という恐怖の存在に従うだけだった俺には、いつの間にか「何かをしたい、何かをやりたい」という具体的な欲望が抜け落ちていた。当時、少しゲームはしていたものの、小中学生らしい趣味など一切なく、漫画も何も読んだことがない、音楽も何も聴かない、アニメも全く知らない、映画も全く観ない、そんな子どもだった

そんな俺でも勉強ができて、スポーツができただけで、学校では持て囃され、人に褒めてもらえた。それだけが当時の自分の唯一のアイデンティティだったし、それを必死に守ろうとした。おれが空手をやめなかったのは父が怖かったことと、そのアイデンティティがなくなるのが怖かっただけにすぎず、何も褒められたことではなかった

そんな空虚な自分が誰かにバレるのが怖くて、人と深く関わる事も、自分の本当の悩みを誰かに打ち明けることも出来ず、自分のアイデンティティを守ることだけに必死だった。見せかけの能力だけを誇りにしていた当時は、本当に性格の悪いガキで、今思えば色んな友達に嫌われていた気がする

人が一生懸命に頑張る姿を笑い、がむしゃらな姿を茶化した。人の努力を否定すれば、自分の無能を隠せる気がした。父に作られただけの何も持たないおれという存在を、隠し通せる気がした。不器用でも、自分なりに必死な人たちを否定してきた。自分では何も出来ない癖に、器用であるかの様に振る舞いたかったから

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そんな仄暗い少年期も過ぎ、俺は高校生になった。大阪で文理十校と呼ばれ、偏差値も70くらいで世間的には頭が良いと呼ばれる進学校に通うことになった

そこには、性根が腐った俺と違い、真に心根から明るく、自己肯定感の塊の様な人たちが沢山いた。本当の意味で素直で、俺なんかよりよっぽど能力が高い人間がたくさんいた。生まれつき環境にも才能にも恵まれた人間は、俺のような卑屈な人間と違って、ひたすらに優しい人格者が多い。性格の良さは容姿に比例するというのと同様に、環境に恵まれた人間は、素晴らしく優しい人格者になる。それが理不尽で、何より悔しかった。父に数えきれないほど怒られ、殴られはすれど、ほぼ1度も褒められたことがないおれにとって、その頃から流行り出した「自己肯定感」というワードは、おれの傷口を深く抉ることとなった

高校生になってからは、分かりやすく自分では何も出来ない無能力と怠惰を極め、中途半端で停滞した生活を続けていたが、その様々が「コロナ禍だから仕方ないね」と許容され、言いにくいが、コロナ禍に救われたし、コロナ禍のお陰で隠し通せていた部分が多くあった

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だが、そんなぬるま湯の様な生活は続かなかった。高校2年生に進級した直後、病気が発症した。おれの病名は「起立性調節障害」及び「自律神経失調症」だった。大阪市内に専門病院があり、全国各地から受診する人が居る事を聞き、おれもそこに受診した。が、診断結果は最悪だった。これまで長年、同じ病気を見てきた医者に「これまでの症例者の中でトップレベルに酷い」と診断された

上70下40の血圧、着席状態から起立した時の脳血圧は上10下0。つまり、検査してる最中、イスから立ち上がっただけでおれはその場で失神した

気絶する瞬間の血圧の測定値



医者には「卒業どころか、進級も出来ないよ。中退して通信制に行きなさい。5、6年は治らない」と忠告された。初めて自分の自由意志で仲良くなれた高校の友達。彼らと一緒に過ごしたい、卒業したいという想いだけが生きる理由だったおれには、中退という選択肢は選べなかった。起立性調節障害は何か薬を飲めば治ったり、根本的な治療法がある訳じゃなかったから、対処療法をやり尽くし、症状や血圧を事細かに記録して、自分でどうにかするしかなかった

当時、自分の症状を分析していたメモ



そこからのおれの闘病生活は地獄そのものだった。朝、体を起こすのに1、2時間かかったから、朝5時にアラームをかけ、少しずつ頭を起こし、体を起こし、ベッドから体を起こした。24時間365日、恒常的に続く頭痛、目眩、吐き気、倦怠感、頻脈性の不整脈に苦しみながらリハビリを続けた

父の監視もあり、どれだけ辛くても苦しくても、リハビリは1日も休めなかった。公園や道端で何度も嘔吐し、何度も失神して倒れた。それでも続けるしかなかった。高2から2年間はまともに学校の授業も受けられず、ずっと机に突っ伏して寝ていたし、保健室は顔パスで使わせてもらっていた。極めつけには、進級のため、耳鳴りでリスニングテストの音声が聞こえなくても、無理やりテストを受けていた

そんな地獄の闘病生活だったが、何より辛かったのはその症状以上に、俺の生活から「青春」の二文字が失われた事だった。皆が高校を卒業し、体育祭が楽しかっただの、文化祭が楽しかっただのと語るその記憶に、おれはいない。文化祭準備で皆が楽しそうにダンスや劇の練習をする中、その横をすり抜けて病院に向かい、市民プールでリハビリをしていた。文化祭マジックと言って恋愛をし、青春を楽しむ友達を傍目に見ながら、おれは老人とプールの歩行コースをずっと歩いていた

今でもおれは卒業アルバムを開けない。一度開いた時は、当時の記憶がフラッシュバックして嘔吐した

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そんな地獄も耐え抜き、おれは高校を無事に卒業できた。受験はできなかったが、病気を寛解させただけで十分だと思った。医者には奇跡だと言われ、自力で病気を寛解させた…というのは多少なりと自信になった。周りの友達にも褒められたし、認めてもらえた。空っぽな自分が少し何者かになれた気がした

が、そんなものは束の間の気休めでしかなかった。周りは立派な大学に進学し、楽しいキャンパスライフを送る人達や、将来の為に勉強やバイトをする立派な人間達で溢れかえった。小中学生時代の友達も、皆が立派になり、高卒で社会人として勤めるものも居たし、皆が何者かになっていた。立ち遅れているのは俺だけだったし、受験生にすらなれていなかった。煌びやかに彩られたインスタのストーリーを見るたび、おれの気分は灰色に沈んでいった

社会はマイナスから0へ戻す努力を一切認めてくれない事実に気付き、やるせない気持ちと、報われない理不尽さに打ちひしがれた。−100から0への努力と、0から100の努力は、同じ+100な筈なのに、おれは何も報われないし認められなかった

次第に周りで報われた人たちに嫉妬の目を向けるようになった。彼らを称賛する度に、そうはなれない可哀想な自分を愛でる卑しい気持ちがこちらを覗いた。人の真っ当な努力と成功を否定する癖に、何も成し遂げてない人間は当たり前に人から嫌われていった。卒業して疎遠になった人間関係は、より一層、人との関わりを薄くしていった

浪人生になったのに、夏休みまでそんな気持ちを引きずり、勉強にも集中出来ずに居ると、体調はみるみる悪くなり、再発の一途を辿った。全く伸びない成績に焦りを覚え、夏休み明けから、ケツに火が付いたかの様に勉強をし始めた。それがより孤独を深め、不健康を助長した。9月〜12月上旬まで、本当に誰にも会わなくなった。家でも食事の際以外は家族とも話さず、勉強だけに没頭した

そんな生活を続けていた10月頃、自分の異変に気付いた。まず文字が読めなくなった。いつもの様に開くシステム英単語帳、1単語目のfollowは何百回と読んだ単語なのに、なぜか「f」「o」「l」「l」…と、1文字ずつ無意味な図形の様に見えてきて、ゲシュタルト崩壊してるかの様に、まともに単語も文章も読めなくなっていた。拍車がかかる様に風呂に入れなくなり、食事が億劫になり、机に向かったまま5、6時間何もしない日が続いた

風呂に入るのが苦しくなってきた頃から
この遊びをし始めた



受験生なのに勉強も出来ない自分を責め、その罪悪感にも苦しむ様になった。病気も寛解した今なら、普通に勉強出来るよね?という目を家族からも周りからも向けられている気がして、恥ずかしさと申し訳なさから誰にも打ち明けられなかった

そして、極めつけに満員電車に乗って、予備校に向かう最中、胸が締め付けられる感覚と、早くなる動悸と吐き気に襲われ、途中下車して嘔吐した。今思えば典型的なパニック発作だろう。それ以来、恒常的に付きまとう嘔吐への恐怖感と、満員電車や対人への恐怖感が募り、電車に乗れなくなり、それに付随して予備校にも行けなくなった。以降は予備校をサボって家の周りを散歩して時間を潰す様になった。何か目的地があるわけでもなく、ただ現実からの逃避のために歩き回った

予備校をサボって見に行った海



他の受験生や浪人生は普通に勉強している中、俺は電車にすら乗れなくなり、誰にも話せないまま、ただ歩き回っているという罪悪感で一層精神を病ませた。結果的に、全く何も出来なくなっていった。後に精神科で診断を受けて、その時の症状を事細かに話した所、典型的な鬱病の症状だったらしい

色んな人に応援してもらい、家族にも多大なる迷惑や予備校の学費を払ってもらったにも関わらず、電車に乗るという誰にでも出来ることが出来なくなった。小中学生時代の見せかけの栄光から、見事な転落っぷりだ。完璧に壊れた自尊心の行き着く先は、自死という選択肢だった。もう、これ以上生き恥を晒す前に死ぬしかないと思っていた。その時は自分が鬱病だとも気付いてなかったから、もう生きていちゃダメなんだと本気で思っていた

浪人したにも関わらず、受験生のスタートラインにすら立てていない自分。電車に乗ることすらできない人間が、働くことも出来るわけがない。人と会うことすら怖い状態で、俺に何が出来るのだろうと

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だが、そんな状況に陥って尚、おれは死ななかったというか、死ねなかった。極限まで脳や身体の働きが悪くなった人間は、そもそも家からまともに出れない。ベットから体を起こすことすらままならない

そんな状態で首吊りの縄を用意できる訳もなく、どこか高い場所に向かう気力すら無かった。実際、死ぬ決断ができる勇気も、死ぬ行動を起こせるほどの体力もなかった。死ぬことすらままならない自分というレッテルは、おれをより一層苦しめた

そんな状態を露知らず、高校時代の友達が心配して連絡を取ってくれて、おれが電車に乗れないし、会いにいくこともできない旨を話すと、わざわざおれの家にまで会いにきてくれた。おれの人生で唯一、恵まれてたのは友達だろう。そこでようやく自分の状態を客観視できるようになり、病院での診断も受けた。軽度な状態であったから、少しずつまた自分で治療、リハビリしていくことになった

かといって、原因が分かっただけで現実は何も変わらない。行動を起こさなければ、ただ現実は、ただ何も起きずそのまま過ぎていくだけだった。リハビリも行いつつ、勉強出来るようになったのは1月だった、高2、3の頃に勉強出来なかった2年間のブランクを、たった2ヶ月で取り戻せる訳もなく、今年受験した大学は全落ち。そして今に至る

現実は嫌というほど現実で、何を知ろうが何を思おうが、残酷に目の前に存在する。ただ精神と身体に不安を抱えたまま二浪が確定した。おれが苦しみ抜いたこの3年間は何も報われることもなく、ただ人生に立ち遅れるという事実だけがおれの手元に残った。そんなドン底な人生は、結局はおれのもので、おれ以外の誰も興味を示さないし、誰も救ってはくれない。どんだけ自分が不幸だと、苦しんでいるんだと嘆いても、誰も評価はしてくれないし「君は苦しんでるし、特別に大学に入れてあげるよ」だなんて言ってくれる訳でもない。ただそんな人生が続いていくだけだ

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おれは、心の底で何か特別な人間なのだと、本当はもっとやれるんだと言い訳をしてきた。自分の今の終わりきってる人生にも、どこか自分のものじゃないかの様に、当事者意識が抜け落ちていた

父に言われて生きてきただけだから。病気になってしまったから仕方ない。と言い訳して、自分の現状を受け入れられず、何かにつけて全てを言い訳して、口先だけで自分を取り繕ってきた、本当は何もできない人間なのに。それはつまる所、自分のゴミみたいな人生や現状を、真剣に目の前からゴミと認めた上で、それでも尚、おれの人生だと引き受ける根性がなかったのだと思う

何百、何千回に渡って行ってきた、不幸自慢や自虐は、周りから自分の無能力や怠惰、不幸な現状を指摘されるのが怖かったからだ。周りに言われる前に、自分から不幸を先取りし、先に自分から傷を見せておけば、周りからの攻撃で致命傷を負うことはない。そうやって自分のささやかな自尊心を守ろうとした。守るような価値があるものなんて何も持っていないのに

そして何より不幸でいることをアイデンティティにすることで、「普通」のステージで戦わずに済んだ。今のままでも評価されると考えた。こんなにも病気や環境で苦しむ私、可哀想な私は、頑張れなくても仕方ないよね?怠惰でも仕方ないよね?と、自分の怠惰の隠れ蓑にしようとした

そうやって隠し続けた結果、おれの手元には何も残らなかった。自分のあるがままを見て、1歩ずつでも歩くしか方法は無かったのに、それをしてこなかった人間の末路だ

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おれは二浪生として、また1年生きていくことになった。何をどうしたらいいのだろうか。1歩ずつ、1歩ずつ出来ることを頑張ろう。過ちは繰り返さない様にしよう。その1歩目として、自分の半生を赤裸々に綴った。出来ることを、出来るだけでいい。目の前にあることを頑張ろう。もう「可哀想な自分」をアイデンティティにするのはやめよう。絶対に、自分の健康と幸せを諦めちゃいけない

本当はもう頑張れない程辛いのに「大丈夫」と気丈に振る舞って自分の弱さを隠すこと
本当はまだ頑張れるのに「もう無理」と、気弱に振舞って自分の怠惰を隠すこと

幸せなフリも不幸なフリも全部やめよう、プライドも見栄も恥も外聞も全部捨てて、自分なりに頑張ろう、恥ずかしくても惨めでも、あるがままを生きよう

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と、ここまで半生を赤裸々に綴った。ここまで読んでくれた方は、オチは?と思うだろうが、これはサクセスストーリーじゃない。そんなおれの人生は今も続いている。何も変えなければ、何も変わらない人生がただただ惰性で続いていく。だけど、変わっていくつもりだ。周りに比べりゃ惨めでも、おれはまず「朝起きる練習」からやり始めた。Twitterでよくツイートしてる朝型人間改造計画がそれだ。誰にでも出来ることを齢19にして今さら練習する惨めな生活。「朝起きる練習」に「電車に慣れる練習」。けど、それで良い。目の前にあることを1歩ずつ、1歩ずつこなすしかない

朝型人間改造βの様子



ここまで読んでくれた方が、この文章をどう思うかは分からない。分からないが、同様に苦しんでいる人も数多く居るだろうし、将来、これを読み返す自分も同じだろう

おれは今苦しんでいる誰かに「絶対に大丈夫だよ」とか無責任なことは言えないし、明確な対処法も示せない。そして、死にたいと思う誰かに「死なないで」とも言えない。貴方を救えるのは貴方だけだから

けど、だけど、それでも。こんなにもみっともなく、無様を晒してでも、1から再スタートして、朝起きる練習から人生をやり直してる人も居るんだと知って欲しい。電車に乗れない、朝起きれない人間でも生きてるんだったら、まぁまだ死ななくていいか…くらいに思ってくれたら、本当に、本当に、俺の救いなきこれまでも報われると思う

救いなきおれの人生を救えるのはおれだけだし、救いなき貴方の人生を救えるのは貴方だけです。1歩ずつ、たった1歩ずつ、お互いに歩いていけたらいいですね。ここまで読んでくださりありがとうございます。少しでも何か感じてくだされば幸いです

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