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出会いと別れ、そして愛

プリンタが欲しいという願いをかれこれ2年以上我慢している。これまで、1枚でも400枚でも私はコンビニプリントに頼っていた。コンビニの在庫用紙を使い切り近隣をハシゴしたこともある。そのたびに居心地が悪く感じて、ネットでプリンタを検索し、これが欲しいあの機能は絶対に、などと夢を見て、想像の中でプリンタと戯れた。

もぐら本の最終原稿ができて、企画メンバーそれぞれがすべての原稿を血眼にしてチェックするという段階でも、私はMacBookの画面のなかで大きくしたり小さくしたりしながら作業をした。だが、ノンブル(ページ番号)が微妙にズレていると指摘があったとき、企画メンバーたちはそれぞれ手元の出力したものをみて、「確かに」「僅かにずれている」などとざわつき、そこから「これどうやって修正するよ」という討論をした。
しかし私は、自分の視点をガチガチに固定しても「ズレてるようなそうでないような」くらいにしか思えなかった。本当はみんなと一緒に「ほんとだ、ずれてますね!」と言いたかったし、もっといえば「左に1ミリ、上に0.5ミリ、63ページだけ上にずれていますね」みたいな的確な言葉を言いたかった。言いたかったのに私にはその道具がない。

これまで在宅ワークをはじめるために必要だと思っていても買えなかったプリンタ。子供のイラストを印刷したいと思っても買えなかったプリンタ。気軽にネットから印刷したいものがあってもコンビニまで行くのが億劫であきらめハァこんなときプリンタが空から降ってくればなぁとお祈りしたプリンタ。何年も欲しいものリストに入っているプリンタ。
不要不急の印刷を気軽にできる豊かな環境が私にあれば、「ほい試し刷りー」「はい訂正刷りー」「よし完成刷りー」と湯水のように印刷して、イノシシの如くアヘアヘ半狂乱になって最終チェックができたのに。
押し寄せるモーレツな悔しさが、とうとう私を家電量販店へと動かしたのだった。

プリンタは見慣れている。何度もチェックしたから私はほぼこれだなという機種もわかっていた。そこに販売員の方が話しかけてくれる。各メーカーの良さや価格帯の違いをしっかり勉強した販売員さんに感動して、写真や紹介文を眺めているだけではわからない部分まで質問したら、彼もよくぞ聞いてくれたとばかりに話をしてくれた。しかし私は寝不足であり、判断力の低下が目立つ。そのため販売員の方にお礼を言って一度売り場を離れた。

スマホに目をやるともぐら会のSlackは大賑わいだ。新月であることが関係しているのか、あちこちで新しいアイデアや意見が生まれて、それに歓声と拍手がおこっている。みんな平熱で生きながら、どこかしっかり燃やしたいハートを硬い甲羅のなかに押し込んでいる。
願わくば、冷ややかな視線は一切感じないようにして、温かい眼差しだけを燦々と受けて暮らしたい。誰もがそれを望むのに、なぜ人類はそこにまだ到達しないのだろう。

と思いながらヨロヨロ歩いていたらモノクロプリンタの前に来た。カラー印刷ができないというだけで1万円以上安い。私はモノクロが好きだ。家庭用プリンタのカラー印刷は、遅い割に細かなアラに目がいってしまい楽しめないのだ。Amazonの欲しいものリストにいれていたモノクロプリンタはレーザープリンタだったが、今は時代遅れになっているらしい。顔料インクで水にも強くコストも安い次世代のプリンタが、突如目の前に現れた。しかも在庫がある。これは急いでさっきの販売員の方に聞きたい。どこ、どこなの。と探し始めたが、なぜかどの販売員さんも同じ服を着ている。名前を見た気がするがもう忘れた。やばい、販売員さんを見失ってしまった。ダメ元でなんとなくこんな感じの人かな?と思う人にテキトーに声をかけてみたら、思ってたのと違う声が聞こえて、やってしまった……と知った。だが話しかけたのだから聞くしかない。このプリンタとあのプリンタはモノクロかカラーか以外に大きな差があるのか質問をした。すると彼は目が泳いだ。そして説明ではなく予想の「違いはないと思いますよ」と答えた。印刷の質も同じですか?と聞くと「そうですね…」、AirPrintは使えますかと聞くと「それは使えると思います」と答えた。そして販売価格をポチポチと探し始めてくれた。
私はAirPrintがしたい。どのApple製品でも気軽にたくさん印刷したい。さっきの販売員の方が教えてくれた私にぴったりの機種のモノクロ版というだけなら、私にはこっちで十分だ。心の中でさっきの販売員さんに感謝しながら、私はモノクロプリンタを買うことにした。

そのプリンタはADFといって、オフィスのプリンタみたいに用紙を差し込むと自動で吸い取ってくれ、コピーやらスキャナやらが働いてくれる機能がある。一枚ごとにバタンバタンと開け閉めして読み取らなくていい。最高である。さらにインクを直接タンクにドボドボいれるタイプなので、本当に湯水のようにホイホイ印刷ができる。最高の最高である。しかもそのドボドボインクは最初から予備がついており、向こう2年はなにも買わなくてもいい程度に行き届いている。もうそこには愛しかない。1万円あればプリンタが買えてしまう時代に3万円という高めの値段設定だが、決して高くないのである。あの販売員の方も言っていた。本体が安くてインクが高いか、本体が高くてインクが安いか、トータルではどっちがよいか、あの人はとても丁寧に教えてくれたのだ。

もう大好きである。このプリンタは最良の選択でしかない。これ以外を買う人がいたら全力でこっちにしなよといいたくなるくらいに大好きである。念願のおうちオフィスだ。寝転びオフィスとも言える。iPhoneやiPadでごろごろしながら仕事をして、起き上がらずに印刷信号を送って、寝転んだままでも印刷物が出てくるのだ。座り心地の良い最高級ゲーミングチェアが欲しかったけどもういい。臥位にまさる楽な姿勢など私は知らない。それで許される仕事があるかどうかも知らない。とにかく最高に愛しはじめていた。

メロメロな状態で念願のAirPrintを試すことにする。AirPrintとはApple製品についた印刷機能で、無線LANを通して簡単に印刷ができる機能である。

印刷。…プリンタがありません。
印刷。……プリンタがありません。

プリンタは動かないが私は動じない。こんなことは慣れている。私の適応能力はすごいのだ。適応障害になるまで過剰適応として数十年生きてきたのだ。平気さ。平気である。さあどうした、なぜなのだ。心穏やかなまま原因を探し、カタログの小さい文字を探す。私がみた「AirPrintを使用してください」は一体どこに書いてあっただろうか。あの小さな文字と販売員の方の言葉で私は今ここでこうやってワクワクしながらプリンタが動くのを待っている。
そして見つけた。私の買った機種にだけ見事に「AirPrint対応」のマークが入っていない。さらによくみるとこの機種だけ「Mac対応」の文字すらない。どうしてなのか。
私はなぜMacBookを持っているのか。私はなぜMacBook非対応のプリンタを買ったのか。全く意味がわからない。どちらかが少し違えば私は今すぐにでも寝転びオフィスを謳歌できたというのに。

しかしこれは家族の誰にも悟られてはならない。プリンタの登場を喜んでいる子供たちに私の悲願など無関係だ。息子がらくがきをもってきて「これをパソコンにいれたい!」という。お安い御用さ、と私はADF部分に彼のイラストを差込み「ではやってみるから待っててね」なんて余裕で笑う。機嫌よく自分の部屋に戻っていく息子を確認して、ひとまずプリンタ用スマホアプリをダウンロードした。スマホから操作をしてスキャン、それをAirDropでパソコンに送ってから息子を呼び戻し、笑顔をひとつ貰う。学校からのお知らせメールもiPhoneで開いてアプリを起動させ印刷する。つかえる。大丈夫である。問題ない。

だが納得がいかない。何に納得がいかないって、思ってたのと微妙に違うからだ。このプリンタ以外の候補どれを選んでも叶ったことが、私がよりによってこのプリンタを選んだことでひとり悶絶しているのだ。新しいことを始めるのにぴったりの新月明けらしいが、私は悔しさいっぱいである。今日はたまたま数人の心の叫びを聞いたり自分のことを振り返ったりしたことで涙が出た。そのときこの悔しさもこっそり流し出し、そうしているうちに別れの決心を固めることができた。

悔しさは簡単に消えないが、そこに立ち止まっている時間はない。私はどうにかする。この悔しさは、カリたりオクったりする所存である。

MG君へ。
大好き。その気持ちに今も嘘はない。ADFの便利さには私はもう虜だ。でも、Windowsの人々ならきっとあなたをもっと深く深く愛するはず。新しい持ち主の人にいっぱい可愛がってもらうんだよ。幸せになってね。グッバイ、マイ ラブ。輝け私のティアドロップス。

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