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イスラム史の著名な女性8人

イスラムの歴史の中では正直なところあまり女性は登場してきません。
イスラムの社会秩序の中では女性は男性に守られるべき存在であり、公的なポジションに女性が就くことはまれであったからです。
その代わり家庭内では女性が完全に仕切っていて男は口出しできず、家庭内の教育は母親の役割であったので、女性の地位が低いというわけで全くなく、むしろ隠然たる力を持っていたのですが。

そんな社会秩序の中でも他の男性からも認められ、公的なポジションに就き歴史に名を残した女性もそれなりいます。今回はあまり馴染みのない、歴史に名を残したイスラムの女性たちを紹介します。


1. ハディージャ・ビント・フワイリド (555 or 567-620)

ハディージャは元々メッカの有力な商人の妻でしたが夫を早くになくしたため、亡き夫の代わりに商売を仕切って成功。富裕なキャラバン交易集団の女主人でした。
ムハンマドは25歳の時に、40歳になっていたハディージャと15歳の年の差婚をしました。15歳の歳の差婚、しかも女性の方が上ということで、現在でも心配されるのに当時はさぞ心配されたろうと思いますが、実際のところこの結婚は相当上手くいったらしく、お互い尊敬しあう理想の夫婦であったそうです。逆玉に乗ったムハンマドは金銭的な余裕ができたので、山に籠もって修行を始め、「天使の啓示」を得てイスラム教を拓くに至ります。
夫が怪しげな新興宗教を始めたら妻は全力で止めるのが普通ですが、夫を全幅で信頼していたハディージャはこう言います。

「私はあなたを信じるわ。自分の信ずる道を進んでください」

そして夫の興した教団の最初の信者になったのでした。
ハディージャの死後、ムハンマドは2人の妻を娶りますが、生涯彼女のことは特別視していたようで「人々が私を拒絶し嘲笑した時も、ハディージャはいつも私を支えてくれた」と言い残しています。

ハディージャがいい奥さんじゃなかったら、イスラム教はこの世に存在してなかったかもしれませんね。

2. ファーティマ・アッ=ズフラー  (605 or 612-632)

Work by Mhhossein

ムハンマドとハディージャの娘がファーティマ。
ムハンマドは娘ファーティマとその一家をことのほか愛したようです。ムハンマドが最も愛した妻ハディージャとの間に出来た可愛い娘ファーティマ。夫アリーは文武両道で男が尊敬する男。その2人の子ハサンとフセイン。

ムハンマドに愛されたという事実と、預言者の子であるという高貴な血筋、そしてイスラム圏では現在でもファーティマという名は「良妻賢母」の代名詞であるように、家のことをしっかり守り夫を影から支えるという、イスラム女性的美徳の全てを兼ね備えた人でありました。

夫アリーが戦いに集中できるように、全ての家事を1人でこなした。子育て、水汲み、掃除、パン焼き…。教育もしっかり行い、2人の子ハサンとフセインは聡明で立派な男に成長しました。

アリーは妻を心から愛しており、ファーティマはアリーが第4代カリフになる前に早死しにしてしまうのですが、一説によるとアリーは死ぬまでファーティマ以外の妻を娶ることはなかったそうです。

3. アイーシャ・ビント・アブー・バクル (613-184)

アイーシャはムハンマドが53歳の時に娶った3番目の妻で、初代カリフ、アブー・バクルの娘。ムハンマドとも遠い親戚に当たる血筋でした。9歳頃でムハンマドと結婚し、夫が亡くなった時は18歳頃。
その死を看取ったのはアイーシャで、遺体を埋めたり葬儀もアイーシャが取り仕切りました。それ故、アイーシャのイスラム教団内での地位は高まっていたのですが、ムハンマドの最愛の娘ファーティマと夫アリーとの敵対意識を強めていきます。教団内でイニシアチブを取ろうとする親戚同士の内ゲバです。初代カリフに就いたのは親父のアブー・バクルであったので、アイーシャも大手を振って影響力を行使できたでしょうが、第4代カリフに就いたのは宿敵のアリー。

アイーシャはこれに公然と反対し、アリーを倒すための軍を興して自らラクダに取り付けた輿に乗って戦いに赴きました(656年 ラクダの戦い)。相当気が強い女性だったのでしょうね。
ところが戦いに敗れ、共に反乱を起こしたズバイルとタルハは戦死。自身も叱責されメディナに追放されてしまい、その後は政治争いからは身を引きました。
彼女は記憶力が良く、生前のムハンマドの言動をよく覚えていたので、ムスリムが守るべき徳行(ハディース)などをまとめ伝える活動に専念しました。そのためスンニ派からはアイーシャは「理想の女性」とされて尊敬されていますが、シーア派からは「アリーを追放しようとした強欲な女」と非難の対象になっています。

4. ザイナブ・ビント・アリー (626-681)

ムハンマドとハディージャの娘ファーティマと夫のアリーは、ハサンとフサインという2人の男子を儲けますが、女子でザイナブという子も授かりました。
アリーとファーティマの一家はアフル・アル=バイト(御家)と言われ、預言者ムハンマドの血を唯一受け継ぐ高貴な家柄とされて尊敬を集めていました。ところがアフル・アル=バイトによるカリフ職の世襲に反発も根強く、第4代カリフ・アリーはクーファで暗殺されてしまう。ハサンとフサインはカリフ職の世襲を主張しますが、ムハンマドの初期の頃からの仲間で有力者のムアーウィヤが自身の息子ヤズィードをカリフに任命してしまいました。

支援者や賛同者が次々とムアーウィヤ側に寝返り、窮地に陥ったアフル・アル=バイト。その中で一家をよく取り仕切ったのがザイナブであったと言われています。

アフル・アル=バイトは現在のイラク・クーファの人々に向かい入れられ、ダマスカスを本拠とするヤズィード率いるウマイヤ朝軍と激突しました。680年のクーファの戦いです。

この戦いではフサインの軍は虐殺に近い殺され方をして、アフル・アル=バイトの軍は壊滅。第3代イマーム・フサインも死亡しました。女子供とわずかに残った軍はヤズィードのいるダマスカスに連行されるのですが、ザイナブはフサインの息子アリー・ザイヌルアービディーンを殺そうとするヤズィードを説得して、彼をメディナに逃がすことに成功しました。アリー・ザイヌルアービディーンはその後第4代イマームになったため、ムハンマドの血統を残したとしてシーア派の間では大変尊敬される女性です。

5. ルブナ・オブ・コルドバ(スペイン)

Work by José Luis Muñoz

ルブナ・オブ・コルドバは、アブド・アッラフマーン3世や息子のハカム2世の治世に後ウマイヤ朝の王宮に仕えた女性。
アブド・アッラフマーン3世の時代、イベリア半島のイスラム王朝は最盛期を迎えており、強大な軍事力でレコンキスタを壊滅状態に追い込み、南のファーティマ朝からも良く国を守り、また農業と商業を奨励して国を富ませました。
ルブナ・オブ・コルドバは詩作・文法にも優れていましたが、特に数学に天才的な才能があり、「ウマイヤの王宮で彼女ほどの秀才はいない」とまで称されました。
彼女は50万を超える蔵書を保有しており、当時の常識からすると信じられないほどの量の本を読み込んでいました。てか、現在でも驚異的ですね。

6. ラズィーヤ・スルターン 1205-1240(インド)

Image from "Women’s History Month: Razia Sultan" dot complicated

ラズィーヤ・スルターンは、デリー・スルターン朝の最初、奴隷王朝の第5代君主。奴隷王朝はトルコ系遊牧民の王朝なので、彼女もインド人というよりはトルコ系の血を引いています。
奴隷王朝を安定させた名君イルトゥトゥミシュは死に際し、無能な息子フィールーズより、自分の性格を濃く受け継ぎ苛烈で頭の良い娘ラズィーヤが後継になるべきだと考えました。
ところがその指名は部下によって隠され、フィールーズが王位を次ぐも、やはり無能な男だったため北インド各地で反乱が相次いぎました。ラズィーヤは金曜礼拝に訪れた人に訴え、悪政打倒を訴えて反乱を起こし、フィールーズを捕らえて殺し、王位に就きました。

ところが、彼女を傀儡としたいトルコ系貴族チェハルガーニーとラズィーヤーは常にぶつかります。ラズィーヤーは軍事の才能もあったため、自ら男装して軍を率いて北インド制圧に赴きヒンドゥー勢力を壊滅させるなど王国の安定に尽くしました。しかし彼女の存在を認めたがらない宰相や貴族によって反乱が相次ぎます。
1239年の反乱では、ラズィーヤは内部の裏切りに合い捕らえられ、デリーの貴族は弟のバフラーム・シャーを王位に立ててしまいました。
ラズィーヤは自分をとらえたマリク・アルトゥーニヤと結婚し、バフラーム・シャーと戦うために軍勢を興すも戦いに敗れて殺されました。

7. シャジャル・アッ=ドゥッル ?-1257(エジプト)

Image from:artsofphotos-mr.blogspot.jp

シャジャル・アッ=ドゥッルは元々、バクダッドのカリフがハレムに抱えていた女奴隷。カイロを本拠にするアイユーブ朝の王サーリフに「贈り物」として贈られたのが、その美貌がサーリフの目にとまり、やがて男児を産んだので后となりました。

時は1249年、フランス王ルイ9世が率いる第7回十字軍がエジプト制圧を目指して進軍を続けていました。サーリフ王が組織した精鋭部隊バハリー・マムルークはフランス軍に頑強に抵抗し、何とか戦線を維持します。
ところがこの緊急事態に国王サーリフが死去。后シャジャル・アッ=ドゥッルは、王の死亡が伝わると戦線が崩壊すると考えて王の死を徹底的に隠し、王がさも生きていて王宮の中から指示を出しているように振る舞いました。

シャジャル・アッ=ドゥッルは宮廷の動揺を最小限に抑えてよく軍をまとめ、とうとうフランス軍に決定的勝利を治めてルイ9世を捕虜にすることに成功。その後、軍の支持を集めた彼女は、バハリー・マムルークと結託して国王のトゥーラーン・シャーを殺害してマムルーク朝を廃し、新たに自身を君主とする新王朝マムルーク王朝を建てました

しかし女性が君主になるなど前代未聞で方々から反発が起き、結局バハリー・マムルーク司令官のアイバクとシャジャル・アッ=ドゥッルが結婚し、アイバクが2代目の君主に就くことになりました。

その後も政治的イニシアチブを握ろうとするシャジャル・アッ=ドゥッルと、夫アイバクの対立が深まり、とうとうアイバクを拉致して自ら「木のサンダル」で撲殺してしまう。激怒したアイバクの部下たちによってシャジャル・アッ=ドゥッルは拉致され、同じように「木のサンダル」で撲殺されてしまいました。

8. キョセム・スルタン (1590-1621)

キョセム・スルタンは第14代皇帝アフメト1世の后で、17代皇帝ムラト4世とイブラヒムの母。また、イブラヒムの息子で第19代皇帝メフメト4世の祖母でもあります。

彼女はギリシャ人で、ティノス島に住んでいたアナスタシアという名のごく普通の少女だったのですが、イスラム海賊に拉致されイスタンブールに送られ、アフメト1世のハレムに入ることになってしまいました。

ところがその美貌でアフメト1世に気に入られて寵愛を受け、10人の子どもを儲けました。それに頭もキレる上に野心もあったようで、何百人も愛妾を抱えるハレムを支配し、宰相や大臣、軍人にまで影響力を広げ、政治にまで介入するようになりました。

キョセムは「オスマン帝国で最も強力な女性」と評され、ハレムにいながら各所に隠然たる力を持ち、息子ムラト4世を皇帝に就けたし、孫のメフメト4世も皇帝にすることに成功しています。

キョセムに対抗したのが、メフメト4世の妻でクリミア出身のトゥルファンという名の女。ハレムにやって来た時はわずか12歳だったものの、成長するにつれその野心の高さはキョセムにも劣らなくなり、皇帝の后という立場を活かし、王宮に仕える高官で黒人奴隷出身のキズラール・アーシュの支援を得てキョセムの排除に乗り出しました。

キョセムは異母弟を王位に就けてトゥルファンの力を削ごうとしますが、自身の部下が寝返り陰謀は失敗に終わり、メフメト4世を排除しようとした罪で処刑されてしまいました。

まとめ

家でおとなしくしているイスラム女性のイメージとはかけ離れた、パワフルでアクティブで野心にあふれた女性の多いことか。 それに今のスンニ派やシーア派のいがみ合いに、ムハンマドを取り巻く女性たちが大きく関係していることがよく分かると思います。ファーティマやアイーシャ、ザイナブの執念深さというか、怨念の深さが現代にまで尾を引いているようで、彼女らのパワフルさがいろんな意味で世界を変えてしまったのだな、と思います。

 参考サイト

" 15 Important Muslim Women in History" BALLANDALUS CRESCAT SCIENTIA VITA EXCOLATUR

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