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【百線一抄】058■ありなし振らず丹波路の歩みー福知山線

尼崎から最初にめざしたのは、日本海側の海の拠点、舞鶴だった。
利用客を確保しながら少しずつ路線を延ばし、福知山へは19世紀
末に到達した。少しして官設の鉄道が福知山ー舞鶴間を開通させ、
やがて大阪と舞鶴が鉄道でつながる。鉄道国有化を経て京都からも
舞鶴へつながるようになり、1912年に福知山線へ改称された。

池田や宝塚、三田という街を結ぶ路線であったものの、現在のよう
な通勤通学路線に発展するまでには時間がかかっている。陰陽連絡
の機能は果たしていながらも、貧弱な線形が他のルートと役割を分
散させる流れを生み、特急列車が2本走り抜ける以外は丹波地区を
支える短距離急行列車が中心となり、鈍行列車は旧型の客車列車が
幅を効かせる状況が続いた。分岐する支線も次第に廃止へと追いや
られ、最初の開業区間であった尼崎港を結ぶ路線も役目を終えた。

課題であった路線の改良は、70年代後半にようやく着手される。
全線電化に向けての障壁が宝塚以北の渓谷沿いの区間にあったが、
複線化を合わせて推進するべく、トンネルによって災害を回避し、
経路も短縮できるようになった。営業キロも2km近く短縮され、
抜本的な改良が実現したのは国鉄末期のダイヤ改正の時となった。

勢いに乗った福知山線は、JRに移行してから増発や増結を相次い
で行い、並行して新三田以北の複線化を篠山口まで推進していく。
そしてJR東西線と直通運転するようになった1997年を迎え、
ようやく現在の形態にたどりついた。2005年4月の脱線事故は
皮肉にも路線の成長を抑制する転換点となってしまったが、車両の
取替も進み、ICカードで全線乗れるようになった。大阪と北近畿
を結ぶ重要幹線としての地位を現在は揺るがないものとしている。

分け入る渓谷をたどり北を目指した線路は、線形改良の旗が振られ
姿を変えた。残された廃線の一部はハイキングコースとなって、ト
レッキング仲間に親しまれている。複線区間の北端となっている篠
山口ではおよそ40年の歴史を誇るマラソン大会が有名だ。谷川で
は阪神淡路大震災のときにバイパスとして活躍した加古川線が接続
する。北端の福知山駅は、天橋立や豊岡・城崎温泉、そして初期の
ルートであった舞鶴方面へも接続している重要拠点となっている。

それでは次回の投稿まで、ごきげんよう。

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