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人工林の科学/調査紀行編1(紀南の崩壊地、那智川源流をを歩く—— 2013.5.23〜25)

古座川のスギ林を計測してみた

紀伊半島豪雨から1年9カ月後の5月、森林調査を目的に旅をした。まずは那智の滝へ向かった。途中「稲積島」や「江須崎」の天然林を見、そのあと古座川近くで人工林の山に入ってみた。地図上で赤点のあたりである。

山の外観は青々としているけれど、中に入れば写真のような感じで、超過密なスギ人工林だ。林内に他の雑木はほとんどなく、道際はわずかにシダなどが生えている。樹高はどのくらいだろうか? 根倒れした木を見つけたので、巻き尺で正確な樹高と胸高直径を測ってみる。結果は……

・樹高/23 m
・胸高直径/26 cm
・形状比/88
・生き枝高/16.4 m

4mの釣り竿を剣道の竹刀を振る要領でかざしながら1周させ、円内の本数を数える。その数を200倍すると1ha当りの本数になるが、その数が13本もある。1haに換算すると2,600本だ(!)。このときの中心木の胸高直径は26.5㎝だった。

「鋸谷式間伐」の早見表でいくとこの場合半径四m内に残す本数は4.2本となる。なんと13本のうち8〜9本伐る必要があるわけだ。

いくつか直径を測ってみたが小は17㎝、大は34㎝といった感じで、平均は25㎝〜26㎝のようである。樹齢は解らない。最近間伐した切り株でもあれば年輪を数えるのだが……。

魚梁瀬より限界成立本数が高い!

樹間を測ってみたら1.3mだ。本州の平均的な植え方はha当たり3,000本で、これをグリッドに換算すると約1.8m間隔植えということになる(下図)。では、1.3m間隔だといったいha当たり何本になるのか? というと、6,000本になる。

根倒れした木の根っこは石を抱かえているがその樹高に対してごく小さい。しかも直根がない。

鋸谷式間伐では「限界成立本数」と「樹冠占有率」という概念から間伐密度を導いている。

木は常に成長し続ける。植林した木は枝を張り、背を伸ばして幹を太らせる。間伐を怠れば、四方の枝が触れ合い成長が阻まれ、やがて枯死するものもでてくる。しかし大きく間伐したとしても、いずれは成長して樹冠が密閉し、同じように成長が減衰する。

興味深い数値がある。1haの広さの中で、そのぎゅうぎゅう詰めに達した森林を、人の胸の高さで全部伐ったとする。その断面積(細かい雑木も含める)をすべて合計すると、生育条件で多少の誤差はあるものの、どんな森林でもおよそ80㎡くらいだという。最高でも100㎡を超えること滅多になく、わずかに四国高知県馬路村の魚梁瀬スギ天然林のごく一部がこれに該当する。

(鋸谷茂「間伐講」2001.6.16から要約 http://www.shizuku.or.tv/ogaya.html)
  

ところが、ここ古座川の流域のこの地点では、平均直径25㎝とした場合の胸高断面積合計は127.6㎡もあるのだ(0.125×0.125×π×2,600=127.6㎡)。なんと、魚梁瀬よりも多い……。

取材のしょっぱなから、紀伊半島という特異な生育環境に尋常ならざるものを感じた。

那智の滝へ、10年ぶりに

写真は今から10年前の2003年11月8日に「那智の滝」を訪れたとき、私が撮影したものである。

(那智の滝 2003.11.8)

初めての熊野への旅であった。
まだ群馬の山暮らしを始める前で、鋸谷さんとの共著、私の2冊目の著書になる『図解 これならできる山づくり〜人工林再生の新しいやり方』(農文協)の最終原稿を書き上げた直後だった。

その文章(鋸谷さんとの連文の「まえがき」)を出版社に送り、ゲラ刷りやイラストのコピーを車に積んでいった。単行本脱稿の記念という意味を込め、この旅の間に本のタイトルを考えねばならない──そんな思いを込めて敢行した、初めての熊野行きであった。

五条から十津川街道へ入り、天河弁財天に立ち寄ってから十津川村に入り、歴史民俗資料館を見た。玉置神社の天然の巨杉群に圧倒され、瀞峡から熊野本宮に行こうとすると通行止めになっていた。私はそのときの日記にこう書いている。

ここは崖崩れがとても多いようだ。ここまでに何ケ所も崩れたところを見かけたし、復旧工事の対向車待ちで10分ほど待たされたこともあった。これだけ急峻な山に大量に人工林をつくり、そのほとんどが間伐遅れの山なのだから、今後はますます崖崩れが頻発することだろう。考えてみれば、恐ろしいことである。

(日の出日記/274.吉野・熊野・南紀の旅(1)/天川弁財天、玉置山へ★'03.11/6~7)

しかたなく東に進んで熊野の海岸線に出、七里御浜の海岸でキャンプした。翌日、新宮で「浮島の森」や「神倉神社」を観て、那智の滝に向かった。

あれから何度か熊野を巡ったが、那智の滝はそのとき以来、実に10年ぶりだったのである。しかし、このようなかたちで再訪しようとは……。

金山集落の崩壊跡地

多くの家々が水に浸かったという那智の滝の下流の集落。那智川の氾濫と土石流の発生で死者28人、行方不明1人という痛ましい被害を出した。今は土砂が寄せられ、復帰・改修した家では元の暮らしが営まれている。

那智の滝にあの10年前の震えるような感動はもはや全くない。この上流に広大な人工林地があることを知っているからだ。遠景から滝の景色を見た後、支流の山の上にある金山集落の崩壊地へ向かった。
棚田を持ち、海が望める、雲上の山岳集落。魂をわしづかみにされるようなすばらしい集落であったが、今は誰もいない。今回の災害を期に全民離村するという。

那智勝浦町金山集落の崩壊地
金山集落の破壊された棚田

原生林はわずかに残るだけ、明治期からの濫伐で山林荒廃

途中の道々に荒廃林がそのままに土木工事が進められている。那智の滝の水源林を見渡せる場所に行ってみる。スギとヒノキの人工林だらけなのであった。

崩れているところが多数ある。ここは堆積岩と火成岩が接している場所で、那智滝の源流はすべて火成岩(花崗班岩)である。つまり、硬いから崩れずに残っている所が滝になっている。台風12号で大きく崩れた──「深層崩壊」と表現された所とは趣きがちがう。みな表層崩壊である。

那智川本流になだれ込んだ崩壊跡。崩壊部の中央に広葉樹が残っているのが印象的である

だが、その破壊力は凄まじい。崩れ始めは小規模でも、下折り重なった木々が一時的な堰をつくり、そこに溜め込まれた泥水が一気に崩壊することで、土石流が牙となって下流域を襲うからである。台風12号当時、那智川の本流筋でその土石流は那智の大滝を越え、133m下の滝壺に落下し、那智四十八滝の一つ「文覚の滝」や、大正時代につくられた堰堤などを跡形もなく破壊したのである。

巻き尺で樹高を測ったり、釣り竿でいくつか密度を調査した。昨日の古座川の山ほどではないにしろ、荒廃度はかなりのものである。

それにしても……。

このような荒廃人工林と痛ましい崩壊地が那智の滝の水源にあるとは、誰も思うまい。那智の滝のすぐ横に「那智原始林」という国指定の天然記念物があり、一帯はユネスコ世界遺産の一部なのであるから。

(文末に取材時のYouTube動画あり)
* 29:那智四十八滝……那智の大滝とその近辺・上流部にある滝を巡る修験者の行場。 明治期に途絶えたが平成四年に復活。滝毎に勤行し碑伝と呼ばれる板札を供える。


実はその原始林の一部も崩れているのだが、そんな場所でさえ崩れているのだから「スギ・ヒノキ人工林が原因ではない」という人がいるそうだ。しかし、それはちがう。この原始林でさえ実は戦前から手が入っており、終戦直後の米軍が撮った航空写真では禿げた部分がかなりあったという(現在でも谷沿いに上流部までスギが植えられている場所がある)。
1911 年(明治44年)南方熊楠が那智山について、

「霊山の滝水を蓄うるための山林は、永く伐り尽くされ、滝は涸れ、山は崩れ、ついに禿げ山となり、地のものが地に住めぬこととなるに候」

(神社合祀に反対して植物学者村松任三に訴える『南方二書』)

と書いている。既に明治期に山林荒廃の引き金が引かれていたのだ。この上流部の広大な人工林は、明治期の富国強兵政策から社寺林を国有化したことに始まり、下げ戻し訴訟で村と神社に所有権がすったもんだし、村も神社も裁判費用捻出のために乱伐、かくして熊楠の激怒文となったらしい。

拡大造林の追い打ちで人工林率85パーセント、変わらぬ林業政策

さらに追い打ちをかけたのは戦後の拡大造林である。昭和47年から53年にかけて水源域に林道が張り巡らされ、自然林が皆伐されて広大なスギ・ヒノキ人工林がつくられた。

かくして現在、那智川源流域の人工林率はなんと85%にもなっている。その面積約500haの内訳だが、国有林が広葉樹2次林をわずか70ha所有し、その他の大部分の人工林は民間の造林会社「松本林業」が220ha、そして民間の「木原造林」から寄贈を受けた「明治神宮」が社寺林として200haを所有している(他に那智大社が10ha所有)。残念ながら、今のところ所有者には、この災害を期に環境林へ改変するという考えは見られないようである。

県もおよび腰である。「山林所有者は多くの投資をしている。いきなり自然林に戻せということは生業を奪うこと」「これまで林業が山村の基盤になってきたのだから、林業を否定することはできない」と、県の森林林業局長は新宮市のミニコミ紙のインタビューで答えている。崩壊現場を視察した上で「那智山再生策」を語る紙面の一コマだが、そのタイトルは「まず間伐、息長く取り組もう」となっている(『くまの文化通信』2012年3月発行/第12号)。「尾根から3分は自然林に戻してもらう」と言ってはくれているが、人工林に関しては従来の弱い間伐を今後も続けるということなのだろう。これでは山は変わりようがない。

水害でダメになった新建材の家、建具を変えて使える在来工法の家

沢を挟んで国有林の広葉樹二次林と荒廃人工林が対峙している場所を下っていった。両者の林床の状態は際立ってちがっていた。荒廃人工林は表土が流れ、石が浮き、苔が乾燥している所もある。一方、広葉樹二次林地は表土が厚くフワフワ。しっとりとして苔が生き生きしている。

ところで、熊野川で水をかぶった(天井近くまで水に浸かった)家々のことだが、新建材の新しい家は接着剤の木が膨らんですべて使い物にならなかったが、在来工法の家は建具を替えるだけでよかったというのだ。

これは今回、崩壊地を案内して下さったOさん(那智勝浦町在住)が、実際に建具の建て替えに携わった腕の良い職人さんから直接聞いた話だ。

「100年、200年と長持ちする伝統的な木造家屋を建ててきた腕の良い職人に仕事がなく、技術が途切れようとしている。紀州は『木のくに』で昔からいい材木を出してきた。それが需要がなくヒノキの値段が今ではスギの値段より安いのです。腕の良い職人はまだ残っているのですからセンスのある設計士と組んで仕事をすればよいだけだと思っています」と、後にOさんからメールをいただいた。

(調査紀行編2に続く)

※本文で紹介した拙著(鋸谷茂さんとの共著)のリンクです。

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