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ルシファーとアーリマンの間②

今日もシュタイナーのキリスト論集の事。昨日ルシファーとアーリマンについて聖書にある「荒れ野の誘惑」を引き合いに出して考察しました。
今日はルシファーとアーリマンをカバラの生命の木にあてはめて考えていこうと思います。

カバラの生命の木では右の柱が振動密度が下がり物質密度が上がる下降のエネルギーで、左は振動密度が上がり物質密度が下がる上昇のエネルギーだと思います。
右の柱があらわすのは空間的で粒子的、左の柱は時間や波動的な流動する力だと考えます。物質化する力、現実に具現するエネルギーをアーリマンやイザナギ、顕みたいに例えることができると思います。
逆に物質から波動へ、事物性から象徴性へ解放するエネルギーをルシファーやイザナミ、幽みたいに例えることができると思います。

左右のエネルギーをつなぐ役割が中央の柱で、これがキリストとして表現されていると思います。
物質の象徴の間、空間と時間をつなぐ役割がキリスト意識として生命の木の中央の柱を担っているのだと思います。
キリストは物質的な誘惑や流動的に自我を拡大する誘惑を経験しながら顕から幽へ、幽から顕へ聖杯の水を左右に入れ替えながら魂を結晶化させていったのだと思います。

アーリマンやルシファーが私たちのこころの中に住んでいるように、キリストもまた私たち一人ひとりのこころの中に住んでいるのだと思います。
イエス・キリストが十字架に磔にされ肉体を去る「ゴルゴタの秘蹟」では、物質的な身体を離れることで、時代や場所を超えて多くの人のこころの中にキリストの魂が分割されたのだと思います。
時空を超えて、国境や人種、言葉の壁を越えてキリストの善の意識というか、愛というロゴスっていうか、光というか、そういうものが私たちの中心にあることを教えてくれた出来事なのだと思います。
私のこころの中に、あなたのこころの中に、すべてのいのちの中心にキリストの意識があるよ!みたいなことを思い出させてくれた出来事だと思うのです。

「ゴルゴタの秘蹟」は私たちが持っている欲=罪の十字架をキリスト一人が背負うことになっています。でも、本当は私たち一人一人が自分の十字架を背負って、はりつけの痛みを分け合った方が健全なのではないかな?と思います。
地上の作物を食べることは植物や動物のいのちを奪うことだし、生きていると嘘をついたり、ごまかしたり、良くないことをしてしまう、過ちを犯してしまうものだと思います。

この地上にいる限り、肉体を持つ限り、生きるため自分らしくあるために欲はついて回るし、過ちも犯してしまうと思います。欲を持つことで罪とかカルマを作ってしまうかもしれません、でも欲や罪を否定しないでちゃんと向き合わないと、第二第三の犠牲の神殿ゴルゴタが生まれてしまうと思うのです。

自分の欲の後始末は自分で背負わないと、っていうのが人類の課題なのかも?と思いました。ちょっと拡大解釈しすぎて偉そうになってしまいました。
1人で磔よりもみんなで磔になって痛みを分かち合うのも悪くないのでは?と考えてみました。