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匂いは記憶を直接、連れてくる

出張に出ていた春先のことを、最近、よく夢に見る。
目覚めかけたあたりから、敷布団の下を探りながら起床する。

はっきりと目が覚めるまで、かなり慌てている。

植物調査の標本をつくりながら寝てしまって、標本が不十分ではないか不安になる。早く、標本を確認しなくてはと慌てる。

場合によっては、リーダーを早くおこさなければならない。標本のメンテナンスも大事だけれど、今日の打合せ、たぶんまだ終わってない……

それなのに、はっきりと目が覚めたら、今、住んでいる家の寝室にいる。ぼんやりと、頭の中が動き始まる。出張にでているわけではなかった。

植物標本をつくる仕事も、もう3年はしていない。まして、標本をつくりながらの長期出張なんて、もう5年は出ていない。

それなのに、毎朝、布団の下に敷いたはずの植物標本を探りながら目覚める。

それは、敷布団のせいだ。この敷布団は、代布団。わたしがいつも使っていた敷布団の代わりにやって来た布団。わたしの敷布団は、先日、15年ぶりで打ち直しに出されたからだ。
(車が車検に出されたとき、代わりに借りる車を代車というのだから、布団をメンテナンスに出す代わりに借りる布団は代布団だと思う)

代布団は、柔らかだ。芯にウレタンが使われていて、まわりを綿で包み、布団の皮でまとめられてある。この、絶妙な柔らかさが、出張でよく使っていた民宿の布団の柔らかさを思い出させるみたい。

それだけなら、たぶん。あのよく眠れる民宿と、気のいいおばちゃんや春の山菜献立のことを思い出しただけだったかもしれない。

けれど、代布団は、ごくわずかにタバコのにおいが染みていた。あったまらないとわからない程度のかすかな匂い。

布団に入ってすぐは、ほとんどわからない。それなのに、体温で布団があったまっると、寝返りを打つたび、ごくわずかにタバコが香る。

その絶妙な匂いは、まるで、上着のポケットにタバコを入れっぱなししにしてある作業服が、同じ部屋に置き忘れられたときみたい。あるいは、テーブルの上に、ヘビースモーカーさんの調査ノートが置きっぱなしになっているみたい。


匂いは、思考を通らず直接、脳に情報を伝えるという。

わたしにとって、タバコのにおいは、植物調査班で出張に出ていた時の記憶と結びつくらしい。

わからないことが多すぎて、自分にがっかりしながら山を歩き、必死に物を覚えようとしていた。野外調査班に残る道を、必死に探りながら、資格の勉強を続けていた。睡眠時間は、いつも足りなかった。

あの必死さを思い出して、懐かしくなった。
今のわたしも、もうちょっとがんばろうかなと思った。

布団がふかふかになって、わたしのところに戻るのはまだ10日くらい先。

それまでは、あの頃の必死さを毎朝、確認する日が続きそうだ。

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