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母にとらわれる

「元気にしてるし、家もなんともないから帰ってこなくていいよ」と母から連絡が来た。

これは、母の言語で翻訳するならば「そろそろわたしのことを心配して、家の様子を見に帰ってくればいいのに。おねえちゃんのくせして気が利かない」とでも訳せようか。

祖母も、そんな風に裏返しにものをはなす人だった。母も、自分の母と同じような話し方でしか、わたしに話ができない。

だったら、わたしはどうだろう。
ことばを裏返しにして、人に要望を押し付けていないか。

言葉を裏返しにして、はなす癖があると気づいてから、日常で自分のことばに気をつけていた。だいぶん、直って来たとは思っている。けれど、まだときどき。言葉の裏返しにきづいて、びっくりして言葉を直す。

母が裏返しにことばをつかうのは、母なりの気づかいだ。そのため、裏返しに言葉を使うのは、自分が頼りたい相手だけになる。そのため、母が裏返しの言葉を使うのは、長女である私に対してだ。妹や弟には、裏返しの言葉を使ってこなかったらしい。

けれど、それが最近変わってきたようだ。

先月、母から妹にあてて電話があった。
「もう、この夏は実家に帰ってこなくていいからね。世間も騒がしいし、子どもたちの夏休みも少ないのでしょう」と母が言う。

高齢になっている母のことだから、自分の健康も気になる。それに、他の県からわざわざ帰省してきたら、「他所から帰ってきた人たち」がいたと近所のうわさにもなる。近所の目も気になるのだろう。
妹は、そう思ってこの夏、帰省することをやめた。

そうしたら、今日になって母から妹に電話がかかってきたという。

「ねえ、子どもたち連れて、いつ帰ってくるの? 今年は〇〇へ行こうと思ってるんだけれど」
「え? 帰省しなくていいといったから、飛行機の予約しなかった」
「気が利かないね、それでも孫を連れて帰ってくるのが親孝行でしょうが」
そして、延々とたくさんの愚痴を聞かされたらしい。

よほど、妹は愚痴につかれたらしく、わたしあてに電話をかけてきた。

「もう、たまらんわ。でも、今年は帰るのは無理。お姉ちゃんは、帰れるの?」
「ううん、わたしも無理。帰らない」

帰ったら何が起こるか、目に見えるようだ。

世間の手前があるから「どうして帰ってきたの?」と毎日大声で責められることになる。外に聴こえるように、わたしを考え無しの人だと罵倒しつくす、はず。

あれだけ罵倒されるとわかっていて、帰るのはもうやめた。長女なおねえちゃんの役割は、もう終わりだ。母の子どもではあるけれど、母のミニチュアではない。祖母と母の親子関係と同じ形を、母とわたしのなかで再現する必要はないんだ。

祖母も母も。それなりに闊達で自由な人だ。面倒見もよく、周りから「よい人」だと思われている。けれど、祖母も母も。ほんとうにやりたかったことは、周りの目が気になってできなかった。

だからなのか、身内に甘えるときは、裏返しの言葉を使い始まる。裏返しの言葉を周りが気にかけて先回りして、やってあげないと機嫌を損ねる。

「おねえちゃん。これまで、かあさんはずっと、あんな風にはなしをしてきたの? やって欲しいのに、わざわざ『やらなくていい』という人だったの?」

妹は、聞く。

「そうだよ、あんな人だったんだよ。やっと、子どもたちに甘えるようになったんじゃない?」
「甘えだとわかっても、あの言われ方はつらいね」

母の甘えだとわかっていても、きつい言葉を浴びせられるのはかなりしんどい。

「子どもは親を嫌っていいんだよ」
今、おまじないみたいに、その言葉を自分にとなえている。

積極的に嫌ってはいないけれど、よその人くらい離れた位置でないと、母のことがしんどい。

母とのよい思い出も思い出せる。よい記憶しかないと思いたい。
けれど、時折、フラッシュバックのように、母から罵倒されたことや母に捨てられた時のこと、親は信じてはいけないと決意した5歳の頃のことを思い出す。

それだけ、嫌な記憶もあるはずなのに、それでも「親を嫌ってはいけない」規範が世間にも自分にもあって、自分のことを苦しめる。

いったん。親だということは忘れてみよう。「母」という名前のよそのひとだとおもえばやさしくできる、かもしれない。

久々に、母から電話がかかって、じぶんのこころが不安定なまま夜を迎える。どうやら、自分が思っているよりもかなりしんどいらしい。

おまじないみたいに「親を嫌っていい」と言い聞かせてみてるけれど、まだ。自分が思っているよりも強く、母にとらわれたままのようだ。



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