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今日も今日とて思うこと。

生きるって大変だ。

今日はそんなことを思う朝だ。
朝は、その日によって違うから、「今日は」なのだ。

生理3日め。某好きなアニメでは、マンスリーフクトゥーンって言い方をしていた。

起きて、お手洗いに行って、モーニングページを書いて、瞑想をして、ごはんを食べて。重たいからだと、重たい心。感情は壊死している。モーニングページと瞑想は日課になっていて、今日は「こんなことしてなんになるんだろう」って浮かぶようなテンションだったので、いつもの半分くらい書いて、ノートを閉じた。

細々とした生命維持と併せて、快適な、望む暮らし(暮らしのなかで体感したい理想の気持ちを味わう)のために、なんやらかんやら、やらなくても死なないことがいくつか。時にそれが義務だとか、それをやらないと「だめ」のレッテルが貼られそうに感じる時、負担だとか重荷になって、苦しく感じることがある。

暮らすということに、さらにああしなきゃ、こうしなきゃ、これはだめ、こう居ないと、みたいなものが、生きていくなかでくっついて。

ひとりの暮らし、の単位ですら色々あるし、細々とやることもあるというのに、そこに在り方やなにを選ぶかまで、頭が勝手にマイルールを決めて、これはよいけどこれはだめ、とか言う。

さらにだ。そこに、人だとか、世間だとか、好きなひとから通行人から苦手なひとまで、「他人」の要素が加わる。

ひとつひとつ、自分に寄り添って、心を感じながら生きるには、忙しない。情報が(五感から受けるものも含めて)あまりにも多い。

丁寧に自分を感じながら生きたかった。いっぽう、感じてたら、生きれなかった時代、環境だったと思う。それはわたしだけじゃなくて、みんな。学校に、会社に、コミュニティに。特に子どもの頃、学生時代なんて。大人になって、やっと離れることができた、もしくは、これから調整しながらやっていける、そんなところに来た。生きててよかった。

ひとり単位の「暮らす」「生きる」ということで精一杯。だからなるべく、重たくなるものは取り払いたい。生きているだけで150億点なのだ。

頭のなかの窮屈だったり重たかったりするいつのまにか作られたマイルールに気付いたとき、それを手放してみるイメージをする。

手放してもよいものを、たくさん持ってる。

目指すところが高くなくても、死なない。

「死ななければよい」で繋ぐ日や時間があっても、よい。そうして繋いだ先に、雲の晴れ間から光が差し込むタイミングが、そのうちやってくる。

繋げば勝ち。今日は、少なくとも今は。

生きている。
食べている。
排泄している。
呼吸している。
めんどくせーと思いながら。

ヤンキーごっこも楽しい。
めんどくせーと言いながら、ヤンキー座りして、心の中で「うっせぇな」みたいな感じでいると、不思議と気持ちもどっしりしてくるから不思議。いや、わたしが単純なのかもしれないけども。

おはよう。

ラーメン、タイミングがあったら食べるのトライしてみようかしら。お腹痛くなるのがいやで控えてたラーメン。気にするのも心配するのもめんどくさくて、気にしてやりたいことできないってなってる自分もいやになる。そんな時は、さっき書いたヤンキーを召喚してみる。ラーメン食べても死なない。フクトゥーンなっても死なない。でもやっぱり痛いのはいやだな。かわちいな、わたし。






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