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強さと弱さ

強いとか、弱いとかにこだわってる自分がいる。

もう十分強いよとある人は言ってくれた。

わたしも、そう思う。よく考えれば。
たぶん強いからいろいろできたのだ。
いま生きているのだ。

強いとはひとりで出来ることだと思っていたし、強かったら辛い想いをしなくても済む気がしていた。

でも実際は、小さくなる自分の姿をたくさん見た。人のなかで、場所のなかで、空間のなかで。

なにも出来なくて、言葉が出ないまま、ただ涙が溢れた。

強くなくちゃいけない、とも思っていた。
そうしないと、自由がなくなるようで。
でも強かったら、居場所がなくなりそうで。

強さと弱さはどちらもわたしのなかにあって、きっとそれは、どちらも自然なものだ。
持っているから人に従わなきゃいけないなんてこともないし、ひとりで生きていけと言われることもない。

そう、どちらもあってよくて。どちらもわたしのなかにあって、溶け込んでいて。それは「存在」というひとつのなかに在って。だから、ほんとはたぶん、もう強くいなくちゃも、弱くいなくちゃも、いらないのだ。

そうしないでも、わたしは自由で、そして受け入れてくれる居場所がある。
こだわっていたのは、最初からわたしのほうだったのかもしれない。

いまやっていることを認めてくれよと思う。まだ足りないとか、まだ弱いとか、言ってくる。自分が。
成長したり、変化したり、それを頭が上書きしている。身体や心が体験として体感している。いまはその途中で、だからもどかしかったり、昔の癖だとかも、不安定な時は特に出やすかったりもするのだと思う。

今出会っている人たちは、等身大で見てくれる人たちだなあと感じる。だから、こだわってたのは自分か、って思う。強くいなきゃ、弱くいなきゃ。相手に、期待されたり求められたものを返さないと、繋がりは続かない気もしていた。それも、いまここには、無い。感じない。期待も、なにかを求められている感じも、無い。ただわたしで居ることがゆるされている。守られている。それは弱いからじゃなくて。お互い守り合ってるような。

ふわふわと、それまで絡まってたものがほどかれていく。

強さだけじゃなく弱さもあるから、夕焼けが綺麗だとか思ったりするのかもしれない。そして、どことなく弱さや儚さとは、強さと隣り合わせのものな気もする。凛とした、という表現が好きだけど、それはカチカチのコンクリートというよりは、しなやかに伸びた花のようなイメージで、そこには人間味を感じる。

たくさんの人に依存することが自立だよ、と、ある人が言っていた。だからわたしは、いま自立できているね、と。そうか、わたしはいま、自立できているんだ。

なんでもそつなくこなせる、かっこいい人になりたかったわたしもいるなあ。かっこわるい姿も、弱い姿も見せたくない。それでトラブルになったことも、想定外の起きてほしくないことが起きたりもしたし。サラッと生きてたかったわーーー。でも前より、物事や起こること、人の言動をコントロールしようと思わなくなった。ありのまま受け入れて、委ねる、みたいな。

見えない存在にも、見える存在にも、たくさん助けられてる。まだまだ、ぐらぐらしてる。強い自分と弱い自分のなかで、うおおおおってなっている。どうあってもいいよ、って自分に言えたら楽なのに。なにが起きても大丈夫、どんなあなたも嫌わないよ、って。

久しぶりにnote書いた。
次はいつになるやら。まあ、心向くままに。



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