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音楽的嗜好とアイデンティティの相関関係について。

「で、pairsで出会った男が、またしてもとにかくつまんなくてさ。案の定、ミスチル信者だったんだよね」

鉄板焼きの店で肩を並べている時に、彼女は言った。「また?」と相槌を打つと、彼女が説明し始める。

「まただよ。バクナンファンよりはいいけど。バクナンファンは大概女々しいメンヘラが多いでしょ。それに比べたら、髭男は大人ぶった拗らせ方をした隠れヘラくらいで、まだましなんだけど…とにかくひとついえるのは、この3つのファンの男はつまんないんだ。よくいえば安定とか、純愛?なんだろうけど。だからpairsに多いのかって納得したの。だってさ、Tinderでミスチルファンの男に出会ったことある?レアすぎでしょ」

「まあ。私はHANABI、好きだけどね」

「いいよね。タガタメとかめっちゃ聴いてた」

割とコアなとこ聴いてんじゃん、と笑いそうになったが、「タガタメ」というチョイスは彼女らしかったので、「なるほどね」と相槌をうつ。

彼女のカテゴライズ観は多くのミスチルファンを敵に回しそうなものだが、それはあくまで私見なので、ここでは置いておきたい。
ただ、「好きなアーティストや好きな音楽が、その人のメンタリティやアイデンティティをある程度反映(もしくは創出)している」という点は、私も常々感じている。

音楽の文献を読んでいた時に、スタンフォード大学の研究で、興味深いものを見つけた。結論からいうと、「好む音楽と性格には相関関係がある」というものだ。50タイプのサンプル音源について、被験者9500人が、それぞれの好き嫌いを答え、性格テストも同時に実施してたという。その結果、様々な相関関係が見えてきたらしい。
わかりやすいところで言えば、外交的な人はポジティブな感情を持つ曲を好む…みたいな。この説を読んで、ミスチルファンは、安定を好む…とかいう説も、一概にステレオタイプとは言い切れないと思った。厳密には因果関係が逆だけど。

この研究を主導した音楽心理学者のDavid Greenberg氏は、私たちの音楽的嗜好は「音の鏡」である、と評価する。音楽は、私たちの「本音」や深層心理、信念や価値観といった核への理解を深めているというわけだ。

だからといって、好きなミュージシャンだけでその人が「分かる」わけではもちろんない。アーティストを好きな理由は、メロディや曲調だけでなく、歌声や外見や、その人のスタンスだったりもするだろう。まあそれらも含めて、ある程度の嗜好を証明する「鏡」になり得るのだが。

(ちなみに、以下のサイトから、自分の性格と音楽的嗜好の関係を調べることができるので、興味のある方は試してみてほしい。)

What's your brain like on music? https://musicaluniverse.io/

私にはずっと敬愛しているアーティストがいる。
『凛として時雨』というロックバンド、特にそのボーカルのTKだ。
”unravel”という曲が『東京喰種』のアニメ主題歌になったことで一躍有名になった。
私は高校時代に彼の音楽に出会った。それまでクラシック、洋楽、ロック、ポップス、インスト、ジャズ…とにかく雑食だった私だが、TKの音楽を初めて聴いた時に、衝撃を受けた。
こんなアーティストもいるんだ、と。

私は未だに、雑食に音楽を聴き続けている。Kpopやアニソン、EDMにオルタナティブ。恋愛をしていればaikoや宇多田ヒカルにお世話になるし、イギリス留学中はひたすらEd SheeranやQueen、Beatlesばかり聴いていた。
だがずっと、コンスタントにTKの音楽は追ってきた。出演していたラジオはリアタイし、ライブはいつもひとりで行った。
偶像崇拝のような盲目的なファンではなくて、彼がどのようにこの音楽を生み出しているのか、が気になった。そんな時、あるラジオでTKはこんな趣旨のことを話しているのを耳にした。

「強制的に『感じる』ことを重視している。自分をゼロよりマイナスに削りたい」

私はこの言葉を聞いた時、私は彼の音楽というよりも、厳密には彼のこのマインドに惹かれるのだ、と思った。彼の音楽は、耳障りのいい言葉やメロディの羅列ではない、あるいは大衆への迎合を図らない。自分の核心に潜む狂気や混沌を、マイナスまで掘り下げてそのまま閉じ込めるような、極めて内省的で異質な表現だとずっと感じてきた。
それが彼の音楽を唯一無二にしている…と私は思った。好きな音楽は沢山、沢山あるが、彼の音楽が私にとって何故これほどに特別かは、この言葉に集約される。「私は彼のような表現者になりたい」。
その意味で、彼の音楽は私の核の一部を構成している。


ちなみに、ミスチルファンの男とは合わない、と言う彼女は、ゴリゴリの女王蜂ファンだ。
自由奔放で、個を何より重んじる。凡庸に甘んじたり「フツー」に埋没することを何より恐れる。アグレッシブで危うくて、そこが私からすれば大変魅力的な彼女が、奇しくも女王蜂の大ファンなのは納得だ。彼女にとっては、アヴちゃんのような生き方が目標なのかもしれない。

私たちは音楽の大量消費社会に生きる。

ストリーミングサービスが普及して、サブスクで世界中の音楽が聴き放題だ。その指標はお茶の間の音楽番組や街中のBGMだけじゃない。
ビルボードランキングやストリーミングランキングは、リアルタイムで「大衆の嗜好」「ネクストヒット」を一目瞭然にしている。何が持て囃される社会か、何が価値ある概念だとされる社会か、は明瞭に表れている。
逆に、David氏の研究を踏まえれば、持て囃される音楽が「現代人のマインドの鏡」であるということになる。それに寄せた音楽やジャンルは加速度的に増え、再生産され、私たちはある程度共通のマインドを創り上げる。
だが昔ほど画一的なそれではない、複雑性に富んだアイデンティティを持っている。私たちの「いいね」は細分化され、オーディエンスとしてのスタンスも多種多様になった。かつてお茶の間で、同じマインドで同じ音楽に耳を傾けた時代とは違い、電車では皆、往々にして全く違う音楽を聴いている。

ドラマとの連動や広告などの大手メディアで勝負する音楽業界は、私たちの好みを調査し煽動する。それに対して個人はyoutubeなどで貪欲に自己表現をし、ニュースタンダードを先導し対峙する。
2020年度の紅白では、今やCDを出さなくても紅白に出れる時代だということが証明された。
音楽はさらに身近で、多様で、流動的で、だからこそ掴みづらい…向き合いづらいものとなってきた。

私は彼女との話の中で、またこのDavid氏の研究や私自身の音楽的嗜好を振り返る中で、アイデンティティと音楽の特質をもっと肯定的に、能動的に評価したいと思うようになった。

何となくBGMとして音楽を聴き流す日々。作業中も、移動中も、風呂場でも、音楽を聞き流す。私は自覚済みの「ミュージック・ホリック」である。
そのスタンスは、浮遊する個人である、現代人としての私。何も気に留めない。深入りはしない。流行を「聞いたことあるな」程度に履修するだけ。サビは鼻歌で歌える。たまたまチケットが当たれば行く。カラオケでそれなりに盛り上がれる。だがその根っこは何者にも属さない、無個性的なアイデンティティである。

だが私にはかつて、放課後にひとり、家族にも友人にも秘密で小さなハコのライブに赴いて、彼の曲を聴いてなぜか分からないほどに号泣した日があった。ラジオに耳を澄ませて、録音の仕方もよくわからずに、新曲が流れるのをリアタイするのだと、心待ちにしていた時間があった。必死に歌詞カードを見ては、繰り返しCDを聴いていた時期があった。雑踏の中でひとり大音量で同じ曲ばかり聴いては束の間の安心を得た自分がいた。
今、ふとその時代のプレイリストを耳にすると、泣けるバラードでなくても泣けてくる。(iTunesでは、年単位で自分が沢山再生した曲を勝手にプレイリストにしてくれている…自分の好きだった音楽のアルバムなので最高だ。)

学生時代、あの青空、電車の中で聴き続けたBUMPの「66号線」。心酔したハイフェッツの、Vitaliの「シャコンヌ」。社畜だった時、虚無感に襲われた帰宅時にいつも聴いたamazarashiの「フィロソフィー」。叶わない恋をして思い詰めた時に聴き続けた、米津玄師の「カナリヤ」。彼の部屋、深夜4時に聴いた「ラ・カンパネラ」。

沢山、沢山ある心象風景。私のここ数年の生と共にあった音楽を久方振りに反芻していると、私はこう在った、の証明に感じられる。私の目指したもの。憧れたもの。なりたいと切望したもの。そのイメージや具現、マインドごと、道標となって今の私を奮い立たせてくれる。好きな音楽の流れる方へ行こう。きっと間違いない。

「でもさ、結婚式じゃ『しるし』しか勝たんよなあ」

彼女は、長々と続いた独自の見解を、しんみりとそう締め括った。
クリープハイプの信者であった元彼に三股されて別れたばかりの彼女の言葉は、やけに切実に響いた。

私は今度こそ、声を出して笑ってしまった。
彼女がミスチルファンの「安定した」旦那と幸せになるのを想像した。そんなんも悪くないよな、と楽しみに思ったのは内緒だ。

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