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「なんのためにお前はいるんだ」

昼過ぎ、たまたま寄った街角のマクドナルド。年配の男性が、まだ未成年にも見えるバイトの店員を叱咤していた。

オーダーを間違えたのだろうか。お釣りを間違えたのだろうか。私はチーズバーガーが提供されるのを待ちながら、ヒヤヒヤとその様子を横目に見ていた。他の客もなんとなしに気にしていた。なにしろすごい剣幕の叱咤だった。

様子を伺っていてわかったのは、ミスへの叱咤ではなく、店の隅でたむろする柄の悪いグループについて、なぜ注意しないのか、という内容であった。そのグループは確かにうるさく、マナーが悪かった。外国語でひたすら騒ぎ立て、4人で3テーブル半くらいを占拠していた。ヒッピーな雰囲気でガタイもいい。周辺にはポテトなどが飛び散っている。同じ場にいた客は、私含め、誰も良い気はしていなかったと思う(実際、私も店内で食べる選択肢は諦めた)。

バイトの少年は、すみません、を繰り返し、縮こまっていた。泣く一歩手前まできているのが目に見えてわかった。しばらく経って騒ぎを聞きつけたのか、奥の社員か店長かが出てきて、男性客に謝って、グループに注意をした。彼らは不満そうに舌打ちをして何かしら吐き捨てたが、食べ終わったタイミングだったからか、ズカズカと店から出ていった。

私は泣きそうな少年からチーズバーガーを受け取りながら、自身のバイト時代のある記憶を思い出して、なんとも苦い気持ちでいっぱいになった。

大学時代のバイトで、私も全く同じ台詞を客に言われたことがあった。

「なんのためにお前はいるんだ」

私は当時、美術館の展覧会を巡回するスタッフのバイトをしていた。元々アートが好きで、その美術館だけでなく、国内外問わず美術館に行くのが好きだった。その当時は、注目されたコレクションでバイトができるということで、私は浮き足立っていたし、やる気満々だった。まさかバイト中に泣く手前になるとは思っていなかった。

その展覧会では、最後の展覧室にクロード=モネの『睡蓮』の一枚があった。オランジュリー美術館の目玉でもある、睡蓮の部屋にあるうちの一枚だ。当然ながら人気の展示物で、その展覧会で唯一、写真撮影が認められていた。だが、「フラッシュは禁止」という条件付きで。

知っている方もいると思うけれど、フラッシュを焚くことで、絵画が劣化する懸念がある。だから、フラッシュ禁止には、文化物を守るという正当な理由がある。問題は、フラッシュ禁止のフラグがいくら置いてあったって、それを読んできちんと守ってくれる客ばかりではない、という点だ。気づかない人もいるし、スマホの設定上、暗所ではオートフラッシュを焚いてしまうという場合もある。普段写真を撮らなければ、フラッシュオフのやり方がわからない人もいる。つまり、意図的でなくたって、そういう行為はひっきりなしにおこわれる。全てを阻止することはできない。

とはいえスタッフは「フラッシュは無しでお願いいたします」という呼びかけを、セルフでひたすら、部屋中に伝え続ける必要がある。だから睡蓮の部屋では何度も呼びかけを行なった。だが、ごった返した部屋ではなかなか届かない。絵画についての質問に答えるなど、他の対応もする必要がある。否応なしにフラッシュが焚かれ続けるので埒が明かない。もっと館内放送とかマイクとか、注意のためにワンクッションおくスペースを設けるとか、別の工夫がいるのでは…とずっと思っていた。

そんな時に、徐に近づいてきた一人のお客さんに、室内中に響き渡る声で叱咤された。

「なんのためにお前はいるんだ」

突然の激昂に、私は睡蓮も顔負けの注目を浴びた。ああ、私もこれくらい大声を出さなきゃ、呼びかけも届かないのだ、と、妙に客観的な自分もいたけれど、とにかくショックだった。

「お前、バイトか?バイトだとしても、禁止なものを禁止するのは、やり切らないといかんことだろう。どれだけ価値のある絵か、わかっているのか?責任感が足りない!この展覧会を楽しみにしていたが、本当にがっかりだ!」

一言一句はこの通りではないと思うけれど、ほぼ原文ママである。私は呆気に取られて、だが「申し訳ありません」と頭を下げることしかできなかった。その場にいた他の客は、そそくさと写真を撮って、退出していった。何年も前の話だが、私はその時ものすごく悔しかったのを今でも覚えている。

確かに私が悪かった。きちんと伝えられていなかったし、伝えることに諦めも生まれていた。フラッシュが絵画を痛める影響が大きいのであれば、このようなシステムであること自体が問題であるが、それも含めて、私にはもっとできることがあった。バイトの身ではあれど、もっと良い方法で伝えられないかと、考えて相談することもできただろう。でも、少し諦めつつ、惰性で注意を促し続けることしか私にはできていなかったし、実際の結果として、その仕事の効果はあまりなかった。だから、私は仕事を十分に果たしていたとは言えないだろう。一方で、謎の理不尽さも感じざるを得なくて、当時はそれが悔しかったのだ。あと一言でも何かを言われたら涙を堪えられなかった。苦い思い出だ。

そんな昔の記憶を、バイト少年に重ねてしまった。今回のバイト少年を叱った年配の男性も、苦情の内容は間違っていないのだが、対処ができなかったバイトの子の気持ちも私はとても分かった。

仕事ってなんだろう。

私は社会人4年目に入ろうとしていて、転職も経験し、興味のある内容の仕事をしている。だがふとした時に、「なんのためにお前はいるんだ」という問いを思い出すのだ。

なんのために仕事をするのか?の答えならつらつらと答えられる。生きていくお金を稼ぐため。自身のスキルアップをするため。誰かに「ありがとう」と言われたいため。色々な人と出会ったり、人生経験をしたいため。いつかやりたいことを成し遂げるため。今の仕事が楽しいため。などなど、色々ある。

だがそれらは自己実現的な回答であり、自己満足の視線である…実際、働かないと生活できないし、スキルアップできたら嬉しいし、ありがとうと言われるのも嬉しいし、出会いや経験が欲しいし、夢を叶えたいし、好きなことをしたいというのは、全て私の個人的な目標だ。そのツールがたまたま仕事なのだ。

自己実現上等、自己満足上等。だが、「なんのためにおまえはいるんだ」というあの問いは、より具体的で、本質的で、他己的な「仕事」なるものを見つめる視点であると感じる。それは、今している仕事を、極めて客観的に評価した時に初めて出てくる視点である。

仕事は当然楽しいばかりではない。苦労する業務や、本音ではやりたくない業務もある。だが、私に求められる「仕事」があり、仕事をする私に求められている「成果」があるとき、その内容が自分で納得できるものである限り、それをやるべきだ。そういう類の視点は、いま私が仕事をする自発的な理由とは異なっているが、仕事として与えられた私の存在意義になっている。

その視点に立つと、具体的な気づきが出てくる。「他にできることがあるのではないか」「この内容で本当に十分だろうか」「次は何をすべきか」など、仕事を俯瞰的に顧みることができる。今となっては、私にとっては忘れたくない視点となった。

とはいえ。

少年バイトくん、悔しさもあるだろうに、泣かずに頑張っていた。言っている内容が間違っていなくても、指摘の仕方というものはあるよね。私たちは同じ社会に生きる人間なのだから、まずやさしさをもって生きたいね、仕事論をうんぬん語る以前にね。

理不尽さを感じたとしても、そこから生まれる問いを考えていけたら、それはまた教訓になっていくのかもしれない。お互い頑張ろう。

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