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無花果

「私は無花果を愛している」

などと言うけれど、愛ってなんでしょうか。ふとした時に無花果を食べたいな、と思うことでしょうか。スーパーで無花果を見かけては、美味しそう、可愛いと褒めそやすことでしょうか。無花果のケーキやら香水やらがあった時に、無意識に惹かれることでしょうか。それとも、無花果を丁寧に料理して、あるいは無花果酒みたいに手間暇かけて、美味しくいただくことでしょうか。

私はある本を読んで、ようやく答えに達しました。
それは、「いろんな果物がある中で、意図的に無花果を選択し続けること」です。
夏に無性にスイカが食べたくなっても、月日が経って正直オレンジのほうが今の私に合ってるかもと思うようになっても、それでも無花果を選ぶと約束したから選び続ける、ということです。

「愛するということ」/エーリッヒ・フロム

そこには、「愛とは基本的に感情でも欲でもなく、意思である」という趣旨のことが書かれていた。その考察は私にとってはあまりに意義深く、茫然としてしまった。

私は今まで、特定の他者に恋い焦がれるということは、その特定の相手だからこそ生じる気持ちであると、ずっと思っていた。だからこそ、ソウルメイトや運命の人のような、不変で普遍の感情、特別に結ばれる出会いも何処かにはあると、夢見ていた部分があった。非兌換性、普遍性のある恋愛もあるだろうと何処かで信じ、望んできた…が、それはいよいよ虚構であったようだ。
いや、少なくとも、主観的には存在する概念かもしれないが、客観的には存在しない。つまり、「この人は私の運命の人だ」と自分で思い込んでいる人はいるかもしれないが、実際それは価値観の合うその人を選択し続けているだけ。逆に言えば、運命の人占いなどというものが当たっていると感じる場合(私の友人の中にもいるが)、それは「当たっている」のではなく、そう診断されたが故に「この人があのとき言われた運命の人なのか!」と自己暗示がかかっているに過ぎない、とも考えられる。

永遠の愛などない、なぜなら人の感情は移ろうものだから。フロムがいうところの、「人間はみなアダムとイブだから」人間の根本はみな同じである。さらに、性欲が結びつくのは愛だけではなく、支配欲や寂しさや破壊欲や憎しみとも容易に結びつくどうしようもないもので、人間の3大欲求のひとつに過ぎないのだから。そんなことは頭では分かっていたつもりだったのだが、それを自覚するのはまた別の話だったようだ。

その人を選びその人に自分の残りの人生を賭けてその人と向き合い続け、選び続ける意思を持ち続けること、それが愛である。だから愛には、婚約や結婚のような「約束」が必要で、普遍性や不変性を有する責任が生じるのだ。
ということは、愛とは、ほんらい可変的で互換性のある恋心なるものを、ある意味理性で抑圧し制御する側面もあるのかもしれない。

さて、私には好きな人がいた。
自意識では、その人がその人であったから惹かれたのだと思っている。寂しさも、自己承認欲求も、コンプレックスの解消欲求のようなものも私にはあっただろうが、それはその人でなければならない理由にはならない。仮に全てのタイミングが合って、彼が私を選んでくれたならば、私は残りの人生を捧げる意思決定をしたと思う。つまり私は彼を愛していたと思う。

だが彼にとっては違った。
彼の私に対する感情は、同族への慰めや孤独感の解消、現実逃避欲求や庇護欲みたいな類だったと推測している。それが性欲と結びついたから彼は私を求めたのだと思う。

なるほどな、とこの本を読んで腑に落ちた。
私は彼をクズだと思うし、私の友人も口を揃えてそう評価したが、ある意味で彼は誠実だったのかもしれない。
何故なら、彼はいちども私を好きとは言わなかった。愛してるなどとは到底言わなかった。私が別れ際に渡したラブレターに対して彼は、ありがとうと、嬉しさと、申し訳なさでいっぱいだと泣いた。
彼は、好きだとか愛してるとかいう安っぽいようで本当はあまりにも重い枷を持つ言葉を、嘘やその場限りの常套句として軽率に使うことはしなかった。それによって私のことを愛してはいないこと、愛することはできないことを示していたのかもしれない…と今ならば思える。それだって仮説に過ぎず、真相はもう確かめようがないけれど。

幸せになれよとか、元気でいろよとか、夢を叶えてほしいとか、私のことを案じ幸せを願ってくれている言動ばかりが伝わった。もっと知りたい、もっと知ってほしいとあの手この手で話す時間をつくってくれていたことばかりが伝わった。私のさまざまな悩みや迷いを和らげようという気持ちばかりが伝わった。だがそれは恋ではあり得ても愛ではなかったのだ。何故なら、私との未来を選択する意思も、自由も、彼は持たなかった(持てなかった)。

リピドーの昇華が愛だとフロイトは言ったがそれは綺麗事だ。証明は簡単で、愛のない、愛に至らない性欲は現代社会にはありふれているから。以上だ。
愛は恋と違って、相手をただ好きとか、ただ愛しいとか、そんな優しくて美しいだけのものではないんだな。その他大勢のアダムの中から、覚悟と意思に基づいて、継続的にひとりを選択し続けるということなのだ。それは夢物語では一途で美しいロマンスに見えるけれど、実際、なかなかの苦行にもなり得る。人の感情は容易に変化し、性欲は愛以外とも容易に結びつくことを鑑みれば、相当骨が折れ、面倒なことだろう。

結ばれてハッピーエンドのラブストーリーではなく、その先に作り上げていくエンドロールこそが、たとえば結婚生活なるものなのかもしれない。世の中のすべての夫婦を私は尊敬する。

作った無花果サンドは美味しく、やはり無花果が好きだと思った。でもこれは黄桃でもシャインマスカットでも間違いなく美味しいだろうし、次はそれを悪気なく選ぶだろうと思った。
それはつまり、私が自由であることの証明であり、私は無花果を愛しているわけではないことの証明でもある。
無花果の香水をつけているし、無花果の味も色もスイーツも大好きだが、愛しているわけではないのだ

いつかだれかを、なにかを愛することができるだろうか?性懲りもなく真摯にそれを選び続ける人間に、私はなれるだろうか。



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