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この先瓦解し絶望の淵に立ったとしても心が騒ついて狂いそうな瞬間が来たとしても、この人のショパンがあれば私は正気でいられるだろう。

そう思えるピアニストと出会った。
今年のショパン国際コンクール2021、結果から言えば4位だった、ポーランドのピアニスト、Jakub Kuszlikさん。

彼のピアノが予選の段階から心に残り、密かに期待していたファイナル。曲は、ピアノ協奏曲第1番。

私はその演奏を聴いて、リアタイ深夜、全てに感謝したい気になった。
オタクあるあるの現象だが、本当に感極まると語彙力は欠乏する。


数日経って、その間も何度もファイナルのパフォーマンスを聴いて、ようやく興奮が落ち着いたところで、なぜこんなに響くのかを言語化したいと思い今、臨んでいる。

ファイナルは同じ曲を弾くので比較がしやすい。彼の第1番は、明らかにテンポが速かった。この曲は14の時に出会い何度も聴いてきた曲だが、今まで聴いた中で一番速かった。
YouTubeのリアタイコメント欄には、"too fast''のコメントがずらずらと並ぶ。

そもそもショパンといえば、ロマン派の代名詞のようなクラシック界の大御所。情緒的でロマンチック、ピアノの繊細さにここまで全振りする旋律で、時代を問わない、まさに人類の感性に響く音楽だ。
だからこそショパンコンクールというものがこれほど価値があり、ピアニストにとってひとつの大きな「箔」になるのだと思う。
今年のショパコンでも、いろんな演奏を聴くことができた。弾き手によって情緒性のテイストが変わって、泣いているようにも、泣くのを堪えているようにも聴こえたし、黄昏ているようにも、暗闇に安堵しているようにも聴こえた。切なくてナイーブになってくるショパンもあれば、底抜けに聴き手を笑顔にするショパンもあった。

解釈と表現の融合で、ここまで多様なショパンがあるのか、と驚いた。

そのなかで彼の演奏について、「上手いけど、会場の反応はいまいちだ」という指摘を聞いた。おそらくショパンで皆が求めるのはその情緒性の表現と解釈。だからロマンティックさを全押しする「the ショパン」な演奏や、逆にちょっと異質で新鮮な解釈が、ウケたりする。それはそうだろう。だが彼のショパンは、ある意味で私にとってもっとも新鮮ですらあった。

風のようにすっと抜けていくのだ。

かろやかで、さらりとしている。その分彼のピアノは、たしかに、そつがない、ともいえるのかもしれない。シンプルにうまく、「情緒振り切ってます」感が出ないからだ。

でもそれが心地よい。
オルゴールのようだ、というコメントがあり、確かにと思った。巻けばそのフェーズで奏でられ、不安さがない。
あるいは爽やかで甘やかな風のような自然さで、さあっと通り抜け、だが何かがたしかに感じられた、という心の揺らぎだけがのこるのだ。

私にとってこの協奏曲第一番は、思い入れがある。
CDが擦り切れるくらい繰り返し聴いてきた(当時はCD文化だった)。何度も何度も聴いてきた。その実、ショパンの生涯やこの曲の背景、蘊蓄なんかはほとんど知らなかった頃から。故郷ワルシャワへの告別や、若き日の片想いの高鳴りや夢想が投影された曲、くらいしかわかっていなかった。
その音楽性だけで心奪われた曲だった。なので、弾き手が誰だったのか、も当然問題ではなかった。

だがいま、Jakub Kuszlikさんの第1番が好きだ、と言える。
新たな土地へ踏み出し、振り返れば愛する故郷の見慣れた心象風景。胸の高鳴りや、走り出しそうな感じ、昼間の世界がきらきらと輝いて見えて、夜中の世界がひとりぼっちの哀愁に染まったり、そういうひとつひとつの無形の追憶が、さらさらと流れていく。

情緒の振り幅を大きくすることが「ロマンティック」なのだろうか。心の乱れや揺れが、その実感や影響力の大きさが、「ロマン派の表現」なのだろうか。
そうではないらしいと思った。

寂しい時に、もっと寂しがる音ではなく、明るく励ます音でもなく、ただ枯渇した心に吹く風のような音。語らず沈黙に還る音。そんな音が、これからも私を救ってくれるのだろう。

具体的に愛を注ぐ思い出や人が今あるわけではない。失恋後でもないし、絶望のなかにいるわけでもない。
むしろ無感動で疲れがちなこの日々に、ここまで共感性にはたらきかけ、そうだった、忘れてた、こんな感覚があった、と気づかせてくれた。

遠くから、こんなピアノの音を聴ける。この時代に生まれてよかった。素敵な演奏に拍手と感謝を伝えたい。


いつかショパンの聖地、ポーランドの月明かりの下に行ける日を夢見ている。







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