人種多様性の裏側

 アカデミー賞の授賞式で、アジア系関係者が、悪い意味で特別扱いされる様子を見て、たまたまだ気にしすぎだと言ってる人は、現実が見えていない鈍感な人と私は思う。もっとも差別が見えた、気づけたとしても、どうしようもないというのも、一理あって、どれだけビジネス的に世界に開かれている一大イベントであっても、それを主催する側、そしてその構成メンバーの人生で培われてきた、根強い、人種、容姿、見た目におけるカテゴライズは、彼らの意識下に、生まれてからずっと刷り込まれていて、一度作られた固定観念、自他を区別する物差しは、大人になってから、それは多くの場合無意味だとわかっても、いまさらどうにかできる問題ではないのだ。

 残念ながら、どれだけアジア人が、あるいは黒人が、人種差別を認めない、許さないと表明し、白人もその考え方に同意したとしても、それはもはや意識レベルに刷り込まれていて、ふと気を抜けば露見するということだ。

現実問題、私達は、つねに他者をカテゴライズして生きているし、その必要に迫られることは多いのだから、それは何も特別なことではないと思う。(もっというと、多くの場合は悪気すらないであろう。もちろん、愚かな差別、蔑視で、不必要に他者を攻撃し迫害し、それでくだらない自分が少しでも満たされた気になる、低俗な愚か者は、常に存在するのだが)

本来、これらの無意識下におけるカテゴライズ正当に対峙するには、差別される側(区別された側)も選択する、文化的ボイコットしか無い。

彼らがアジア系関係者に振る舞うように、ハリウッド映画あるいは、アカデミー賞に、そもそも人種的平等など本当は存在しない、白人中心のクローズな文化圏と賞イベントであると最初から考え、消費するのであれば、それを認めたうえで向き合うということだ。

つまり、ハリウッド、そしてアカデミー賞は世界の様々な人種が平等に扱われる娯楽、文化、それにまつわるイベントではなく、あくまで、白人中心世界(といってもそれは、あくまでハリウッドという白人中心で発展してきた限られた映画界と、アカデミー賞という著名な映画賞受賞式というイベントに限りであるが)である文化、イベントであり、それを認めたうえで楽しむべきであり、もしそれが受け入れられないなら自主的にボイコットするという考え方である。

白人中心世界の文化は気に食わないと思うなら、黄色人種、アジア系、あるいは日本人しか登場しない、いや、日本人以外は全部刺し身のつま扱いする娯楽作品を作り、その中で優劣を決め、あとはあくまで商業的目的におけるオプションとして付加する程度の多様性適当に取り込めばいいだけだ。

事実、それでいいと私は思う。それは差別ではない。単なる個人的選択、風習による文化、娯楽における、民族的、種別的カテゴライズなのである。

嘘にまみれた多様性よりも、最初から対象を区別した、選択的カテゴライズのほうが、ずっといい。それを差別だなどと私は思わないし、それを差別だと考えるなら、残念ながら、おそらく差別は永久になくならない



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