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オール・アイ・トーチ [2]

【2・➀】
 午前4時57分。 朱莉は時刻を確認すると時計から目を離し、小さくため息を吐いた。 はぁ。

 カーテンの隙間から見えるのは、黄色がかって幾重にも重なった分厚い雲。そして、その下を何の疑問も持たないで飛んでく沢山のカラスたち。嫌だな。嘘っぽくて、息が詰まる景色の朝だな。朱莉は目を閉じた。眠ったふり。安らかに旅立ってったふり。そうしているのにうんざりしてくると、私は、また目を開く。

 あーあ。ぜーんぶ眼の前から消えていいのにな。眠剤の効きが切れて目を覚ます毎度の明け方、私は決まってそう考えるようになった。どうして私は眠らないんだろう。ほんと『あんた馬鹿じゃないの?』、だ。消えちゃえ消えちゃえ。私なんかもう完全に消えてなくなっちゃえ。お前なんかいなければいないほうがよっぽどましだったんだよ。

 はい。どうぞ。いなければって一体どこの場所にですか? あのクラスにですか? あの 中学校にですか? それともこの世界にですか? 朱莉さん、どうぞお応え下さい。
 知るか。そんなのあたしも分かんねえよっ!私は枕をつかんで部屋の壁に投げつける。ぼふっ。枕は情けない音をたてて床に転がってった。近頃はもう、明るい朝になるのがだんだん遅くなってきてる。だからまだしばらくの間は冗談みたいに静かな夜明けが続く。嫌いだ。

 徐々に夜が明け、部屋の床に映る窓枠のかたちがはっきりしていく。私はベッドの上で体育座りの姿勢をしたまま、ぴくりとも動かない。どう思う? これ、他の人に言わせればよくある光景で、『あなた普通の中2女子にしか見えない。だから今日は支度してちゃんと学校に行こう。簡単だよ』なんて言ってくれちゃうのかな? 
 無理だよ。無理なんだってば。私はもう、中学に行くどころか自分の家の玄関より先にだって踏み出せない人間なんだよ。壊れてるの。今更なんにも期待しないで。残念な子供その1の見本として資料室の隅っこにでも除けておいて。名前も苗字も燃えるゴミに出せばいい。そうなればもう金輪際、行くべきなのに行けないままの精神科からも中学校からも解放される。あたしはがらくただ。がらくただから死んでも殺されても悲しまれずにふっと消えちゃうだけ。簡単な幕引きだよ。皆さま、長らくご視聴いただき誠にありがとうございました。パチパチパチパチ。拍手喝采だ。よし、せめて閉めはとっておきの笑顔と笑い声で。あれ?

 あれ? 笑い声ってどう出すんだったっけ?こんなにおかしいのに喉からは乾いた空気が出てくるだけ。もしかして耳のほうがおかしくなってる?ううん。だってお母さんもお父さんもドアを叩いてこないもん。やっぱり声が声になってないんだよ、これ。もうどうしようもないや、あたし。おかしいおかしい。笑え笑えー。ぎゃははははははははは―

 朱莉は涙をぼろぼろこぼしながら無声で笑い続けた。なにがこんなにおかしかったんだっけ? わーすれたっ。どうでもいいよ。私なんてどうでもいいんだよ。そうしている間にも、朝は押し寄せどんどん部屋の中を埋めていった。午前5時半。新聞か何かを配るオートバイが、エンジンを響かせ走り去っていく音がした。

【2・❷】
 じりりりりり。明璃は素早く目覚まし時計を止め、元通りベッドの上にうずくまった。あたしならどうせ起きてる。 だから放っといて。

 またこの部屋に朝が来た。私が望んでるのとは違う朝。あいつ等が望んでるのとも違う朝。ねえ神様、こんなの時間の無駄ですよ。恨みも憎しみもお気に召さないんでしょう、あなた方って? 復讐なんかもっての外なんでしょう? おい、何か言えよ。無視すんなよ。答えろよ。なあッ‼

 明璃の右手には、むしり取られた髪の毛の小さな束が握られていた。ああ、またやっちゃったな。いいけどさ。私の髪の毛は直毛なのに剛毛気味で、だから、髪はいつだって過剰にあるし。それに、あたしなんてどうせ不登校の引きこもりだよ。こうして分かりやすく病んでたほうが都合いいでしょ。え、まだぜんぜん足りない? それじゃあさ、いじめを仕切ってたあの子に包丁突き刺して少年院送りにでもなってこようか? ねえ? 聞いてんでしょ、じゃあなんか言えよ? 無視すんなッ!

 明璃はさっきと違い左手で左側の髪をむしった。手を代えた理由なんかない。たまたまだ。今朝はなんだか気が立っている。2時半頃から眠れてないせい? それとも予定通りなら生理が間近なせい? 自分がサイテーにつまんない人間の模範例だって気がついちゃったせい? どれでもいい。むしゃくしゃする。我慢できない。もういい。明璃は教科書やら参考書やらが雑に並んでいるその手前に転がるカッターナイフをギッと睨み付けた。

 一筋の血が手と腕の境より少し下から腕を流れていく。今日のは浅く済んだから、思わず顔を歪めてしまう程の痛みはない。だからくらくらなんかもしてこない。涙も浮かんでこない。つまり失敗だ。畜生、もう止まっちゃう。つまんないの。これなら絆創膏で充分かな。あ。それよりかは― 明璃は自分の腕を伝う血をすらっと舐めていった。そうしたからって血液がもとあったところへ戻っていくわけじゃないのは知っている。だけど、理由なんてちっとも大切じゃない。いじめと同じだよ。あたしもあいつもどいつもこいつも、私たちはみんな自分が満足がしたいだけ。こんな風にね。

 気分の落ち着いてきた明璃は、通りに面した窓ガラスへと近付いた。まだ明るさの薄いそこには、自分の無表情な顔がよく映る。あれ、おかしいな。私、いま、すっごく幸せな気持ちなのに。笑ってよ。ちがう。そんな作り笑いじゃなくて本当に笑って。『笑えよ』。
 頭の中で自分の声とクラスの仕切り連中の声が重なった。なにこれ。やだ。むりだよ。たすけて。お願いだから、たすけてっ…

 窓を開け身を乗り出し真っ暗な空間に向けて助けを求める寸前で明璃の動作は止まった。視界の中にひとつ、ぼんやりと灯りの点いた窓を見付けたのだ。向かいの通りの2軒先の2階。そこは、同級生、須坂さんのほうの『あかり』の部屋だ。

 須坂朱莉は自分よりもほんの少しだけ早く学校に行くのを止めていた。そのことは友達、違う、元・友達から聞いて知っていた。正直どうだってよかった。須坂さんとは中学に入ってからクラスが被っていなかったし、それ以前に、私たち2人は小さい頃から友達同士じゃあなかった。すごく近所に住んでいる同い年の子、というだけだ。よく遊ぶ友達も、同クラスになったとき入るグループも別々だった。嫌いなんじゃあない。冷たい言い方をすれば彼女がどうなろうとそんなの私にはどうでもよかったんだ。うん。今だってそう。たとえば、あの明りの下についさっきまで須坂さんだったご遺体が転がっていたとして私には何にも関係がない。『ああ、そう』、っていうだけ。私が私で忙しいように、彼女は彼女で忙しいに決まってる。そういう意味じゃないけど、さよなら。

 私たちが仲良しじゃない理由として大きいのは、家がすぐ近くで同い年だったけれど通っていた保育園も幼稚園も別々だったことだろう。それに、どちらの母親もよその県からやって来た者同士という話だ。誰だって自分や自分の家族のことで忙しい。ともだち百人できるかな思考で生きている幸せ者でないなら、ゴミ出しやたまの町内会で顔を合わすと挨拶するだけのご近所さま同士という関係で充分。いがみ合う理由を探すのなんて面倒なだけ。おはようございます。おはようございます。だから、偶然名前の被った娘同士も、「おはよう」、「おはよう」でお終い。何にも変じゃないよ。

 さっき切ったところの血は、もうとっくに絆創膏の小さな円形として残るだけになっている。匂いも味も消えた。つまんない。もっと深く深くそれこそ取り返しがつかないくらいに深く。やだよ。そんなのする気ないよ。この頭がまともに消えちゃう事を考えられるなら、もうとっくの昔に飛び降りるとこ飛び込むとこに目星つけて実行してるだろう。
 ぱっと自分を消すのが大して特別なことじゃないのは知っている。あれは、私が1日中ずっと教室にいるのがきつくなってきてた頃だったかな。市内の少し離れた地区にあるコンビニの駐車場で、自分よりはずっと大人な年齢のひと達3人が煙を吸う方法で自殺するなんていう事があった。そんなの軽く流せちゃう他人事だ。嫌だとさえ思わない。同じだよ。私や須坂さんが学校から消えようとこの世界から消えようと、そんなのどうってこともない。悲しむ数人がいるっていうだけだ。その何人かの事までどうでもいいとか思えてきちゃってるなら、さっさと実行しちゃえばいいのに。ねえ、何でしないのかな。

 須坂さん、聞いてる? 私たちってどうしてまだ生きてひきこもりとかやってんのかな。わかんないよね。わかんなくなっちゃってるよね。そもそも、あなたってどうして学校行くのを止めにしちゃったの? きっと、他人からしたらどうってことないいじめを食らったとか? きっとそれだよね。私もそう。

 私、ちゃんとしたきっかけがあったのかどうかさえ、もうよくわかんないんだ。ある月曜の朝、私は仲良しグループの子から『あんたもういいよ。消えてよ』、と言われた。あれは命令だった。その前日の席替えで自分のすぐ近くに私が来たことがよっぽど気に入らなかったんだろうね。あのとき私が『うんっ』、とか明るい返事してそのまま帰ってたら、どうなってたのかなあ?
 無駄だよ。そんなことしてたらあいつもあいつの仲間も調子に乗って、あたしの机を近くの空き教室にでも持ってって棚の物もぜんぶ捨てたり壊したりして、先生に呼び出されたって堂々と『江藤さんはもういなくなっちゃったので片付けときました』、とか笑顔で言い放つんだ。それで先生も納得させちゃうんだよ。あいつは声も大きくてはっきりしてるし、クラスでの立場だって私より上だし、だから、私を消すことなんか楽勝で出来ちゃうんだよ。決まってる。須坂さん、あなたもそう思うでしょう?

 実際はどうだったかって?私はどうしていいのか分かんなかったから何も言わずにうつむいて座ってた。その日はそれきり何もなかったし、次の日の朝も『あ、いるんだ』、って言われて大きなため息吐かれただけ。次の朝も、次の朝も、その週はずっとそうだった。仲良くしてた子たちもクラスの他の人たちも一応は私を避けずにいてくれた。あいつに何か言ってくれる人は一人もいなかったけどね。そうして、次の月曜日になった。

 私はいつも通り、いつもの時間にいつもの道を登校していた。もうすぐ学校が見えてくるくらいの場所にある信号のところに誰かが立っていた。あいつだった。あいつは私に向けて『どうぞ』、と言いながら一枚の紙を突き出してきた。それはちゃんとパソコンで作って印刷されたプリントだった。「江藤明璃さんに消えてほしい人は○を付けてください」、と一番上に横書きしてあって、その下にクラスの名簿が続いていた。名前の右脇には○を書くための空欄があって、もちろん私を除く全員がきちんと○を付けていた。私がひととおり目を通したのを見計らって、あいつは、「そういうことだから。もう学校来ないで」と冷たい声で言った。

 私に出来るのはもう『うん』、と返事して元来た道を家へ引き返すことだけだった。プリントは道のどこかにあったゴミ箱へ丸めて捨てた。私はその朝の出来事は誰にも話していない。親にも訪ねてくる担任の先生にも『もう学校には行けない・行けないです』、と繰り返し言ってるだけだ。理由の説明なんか出来ないよ。だって分かんないもん。あんなプリントはあいつやあいつらの作ったニセモノだったのかも知れない。そもそももうほんとにプリントがあったのか渡されたのかにも自信が持てない。もしかしたら私なんて最初からぶっ壊れてて、あいつもあの中学も自分で妄想しただけだったりしてね。それだってぜんぜんありえるよ。だってあたし、自分で自分の髪むしったりわけわかんなくなってリスカしちゃう様な種類の人間なんだよ? そんなヤバい子供の言うことなんて誰が信用する? そうでしょ? あはは。負けー。

 ねえねえ、須坂さんもあたしの言ってることなんか信じられないでしょ?完全にいかれてるとか思ってるんでしょ?ね、そうなんだよねぇ?
 いつの間にか私は、須坂朱莉がいるだろう窓の灯りに向けて自分語りをしていた。反応なんて何にも期待してなかった。そりゃそうだよね。あたし、須坂さんのことなんてろくに知らないもん。学校の廊下とかですれ違っても、せいぜい目を合わせるだけ。ちゃんと『おはよ』って挨拶することのほうが少ない。ただの知ってる同士、お互いのことに興味ない同士だ。それなのに、なんであたし、こんなして須坂さんの反応を期待しちゃってるんだろ? おかしいよね。わけわかんないよね。須坂さんもそう思うでしょ?

 明璃はそんな風にしてひたすら視線の先の窓に向け語りかけていた。少しだけ紫がかった濃い目のピンク色をしたカーテン。自分の部屋に架かる薄い黄緑色のそれよりはずっと女の子の部屋らしい色をしたカーテンに向けて。そうして辺りがほんの少しだけ明るくなってきた頃、突然そのカーテンが大きく広げられた。窓ガラスの向こうにいる須坂朱莉が、明璃の眼にもはっきりと映った。あ、ほんとに須坂さんだ。久しぶり。

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