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オール・アイ・トーチ [5]

【2・➆】
 あの挑戦以来行くようになった明璃ちゃんの部屋は、自分のとこが大分ましに思えちゃうくらい荒んでいた。ほんと、メンヘラかくあるべし、なんていう表現がぴったりの散らかり具合で。きっと、『これでも週1でゴミ出して掃除機かけてるんだよ』っていうのが彼女なりの意地なんだろう。実際、カビた食べ物が落ちてたり体臭が充満してたりすることはない。とにかく、なんだかんだ居心地はいいんだ。私はもともとの綺麗好きが災いして、自分の部屋をしっちゃかめっちゃかにする勇気が持てずにいた。それも明璃ちゃんの部屋が好きな理由なんだろうな。
 あ。ひとつ訂正。明璃ちゃんの部屋、あの子が言うところの血の匂いはよくしている。とはいえ、私の知ってる嫌な感じのあれとは違ってるから、特に気にはならない。本人はよく『まだちょっと血の匂いしちゃってゴメンね』、って謝ってくるけど、実際どうなんだか。私にとっては明璃ちゃんの部屋の匂いっていうだけだ。あの子だって別に、 医療系ドラマによくあるみたいな大量出血してるわけじゃないんだろうしさ。

 もしかして私、明璃ちゃんのこと軽く見下してるのかな。実際のリスカ痕みたいな、分かりやすいうつ病の証がくっきり見られて喜んでるのかな。こういうこと考えちゃうのサイテーだけど、いいよね。私とあの子、友達  じゃあないんだしさ。あ。明璃ちゃんがトイレから帰ってきた。相変わらずロングの髪はばっさばさだ。今日は結んでもいない。お似合いだよ。おっと、ヤバいこと考えるのはここまでにしておこうか。
「明璃ちゃん、おかえり。なんか時間かかってたね」
「おかえりって、ここ、あたしの家なんですけど」
「あ、そっか。ゴメン」
「いいけど。時間長かったのはほんとだし。今日、生理来てるからナプキン替えてたんだ。で、なんかそれ見たら手首もしたくなっちゃってさ。洗面所のハサミで切ってきたの。ほら、ここ」
 明璃はそう言うと、朱莉にも見えるように左腕を挙げた。肌の赤味がかったところの中心に、その周囲よりも生々しい赤色をした小さな横線が引かれていた。『まだ新しいから』と、明璃がそこへ爪を立ててみせる。左腕を真新しい血が一直線に伝ってゆく。その線が肘へ到達してしまうよりも早く、朱莉が数枚重ねたティッシュを腕へ添える。行き着いた血がみるみるうちに紙へと吸収されていく。

 これは私の役目だ。明璃ちゃんの役目は眉間に皺を寄せて涙まで流しつつ、顔のそれ以外の部分ではすっごく幸せそうな笑顔を作ること。私はそれを間近で見ながら毎回ものすごく幸せを感じる。部屋とかお風呂でそういうことするよりよっぽど気持ちいい。もちろん身体は反応しないけどね。こう、明璃ちゃんが傷付いてるっていうのがたまんないの。最っ低だし歪んでる。知ってる。構うもんか。2人とも幸せになれるんだから、誰にも文句を言われる筋合いなんかない。
「ありがと、朱莉。もう止まったから離していいよ」
 私は素直に手を放し真っ赤な染みのついたティッシュをゴミ箱へと投げ込む。明璃ちゃんは何だか物足りなそうな表情をしている。「その顔、もう一回同じことしたいと思ってるんでしょ?」
「そうだけど、いいよ、止めとく。同じとこ連続でやるとさ、なんかおっきい痕になって嫌なんだよね」
 明璃ちゃんは言いながらもう少し肘に近いところにある傷痕を指差した。今さら線の大小なんか気にしたって無駄でしょ。どうせまともなひと達からしたらあんたの腕、もう充分グロいんだし。朱莉はそう思ったけど口には出さなかった。江藤明璃は友達でも仲間でもないけど敵じゃあないから。
「そっか。私はリスカやんないから分かんないけど、いいよね。2人してリスカ始めちゃったら、今みたいなことも出来なくなって何か本格的にヤバそうだし」
「ははっ、そうだよねえ。あたし、ほんとは切り合いっことか憧れるんだけどさ。朱莉とは止めとく。あなたはOD担当、あたしはリスカ担当。それでいいよ」
 本当にそう思ってて。巻き込まないで。「了解しました。それでは私、今から睡剤のODをさせていただきます。ちょっとさ、今ほんとに心臓のドキドキ感がヤバいの。飲んでも爆睡したりとかしないから、いい?」
 明璃ちゃんは頷くとすぐに水の入ったカップを持ってきてくれた。そして、私が持って来ていた3日分の眠剤を流し込むと、自分の痕に絆創膏を貼ってから私をぎゅっと抱え込んだ。それは彼女の役割だ。いつも私の震えや寒気が収まるまで何も言わずそうしてくれている。

 明璃ちゃんがいなかったら、大袈裟じゃなく私はとっくに病院か火葬場に担ぎ込まれているだろう。そしてきっと、ううん、絶対に、明璃ちゃんだって私と一緒にいなかったなら同じ結果になっているだろう。もしかするとそういう展開になっちゃったほうがシンプルでよかったりしてね。よくある若者の不幸な最期としてパッと処理されてめでたし、めでたし。家族以外のひと達はすぐに忘れちゃう小さな悲劇の出来上がりだ。明璃ちゃん、どう思う? ありきたりなバッドエンドじゃ駄目なのかな? このままいくと私たち、そこからはどんどん遠ざかっていきそうだよ。別にどこにも行きたくなんかないのに、変なの。「ふっ、あははははっ」
「どうしたの朱莉?あんたってハイにはなれない手の鬱持ちでしょう?」
「あ、ゴメンね。うちら何やってるんだろうなあ、とか真面目に考えてたらおかしくなっちゃってさ。うん。大丈夫。元気じゃあない  から」
「なにそれ?馬鹿みたい」
「え。明璃ちゃん、ひっどーい」
「ひどくないですぅ。こうやって一緒にいてあげてるでしょー?」
 明璃ちゃんはそう言うと、私を改めてぎゅっと抱きしめた。今度は私のほうからも強く抱き返す。
「これからもよろしくね」
「うん。よくわかんないけど、よろしくね」
 ほんと、わかんない。あはは。

【2・❽】
 今日、楽しい気分にも独りよりましな気分にもなれなそう。そんなことなら、明璃は朱莉へメールしたときからよく分かっていた。『行く』、『来て』、『うん』
 言葉が雑で短いのは、お互いに鬱で落ちてるときのしるしだ。こんな日は一緒にいても仕方ない。知ってる。だけど、『ゴメン止めた』と打つよりか、階段下って玄関出て1分もしないで着く須坂家へ行くほうが簡単に思えた。だから明璃はケータイと鍵だけ持ってすぐに家を出た。ああ、さすがにキャミソールだけじゃ寒いな。確かもう来週から12月になるんだっけ。ま、いいや。季節も日付も私たちには関係ない。傷だらけの両手首だって朱莉にはもうお馴染みのものだ。今日の私は憂鬱でどうでもいい気分だから、行き返りで誰かに出くわしたって何とも思わないだろう。好きにしろ。 どうせ私なんて登校拒否組のリスカ女だ。 何の価値もない。はい、着きました、と。

 チャイムを押すとすぐに鍵の外れる音がして、朱莉が私を中へ引き入れた。
「なんかお互いひっどい恰好してるね」
「いいじゃん。どうせ朱莉しか見る人いないんだし。それにあんたも、もし来たのがあたしじゃなかったらどうしてたのよー」
 上こそフリース姿だったけど、朱莉はそのとき、下にはパンツを着けてるだけだった。「そのときはちゃんと履くよ。来たのが明璃ちゃんだって分かったからこのまま降りてきたんじゃん。そんなのより早く上行こ。私、今日はろくに喋れる元気ないから」
 朱莉はそう言い、そそくさと自分の部屋へ上っていった。だったらあたしのこと呼ぶなよ。ま、口聞く元気がないのは私も同じか。お邪魔します。

 部屋の中はいつも通りにすっきり片付いていた。机の上には市販の頭痛薬が箱から出た状態でたくさん散らばっていたけど、見慣れてるから何とも思わない。ま、一応聞いとこうか。
「ねえ朱莉、そのクスリまた増えてない?」「ああ、うん。月末でお小遣い出たし、あと、リビングのクスリ入れからもバレない程度の数くすねてきたし」
 ベッドの上でクッションを抱える姿勢になってた朱莉が言った。私の切り癖のように、この子の身体にはすっかりOD癖が染みついていた。病院の精神科で出してもらったクスリを初めて飲んだとき以来、そのクラクラ感だかグラグラ感だかに『ハマっちゃった』、らしい。外へ出られるようになった朱莉は、学校に行ってたときと同じように貰えてるお小遣いの大半を市販の『効く』クスリ、最近は何とかっていう成人用の頭痛薬へと代えるようになった。私のと違って家族にはっきりとはバレないところも気に入ってるんだとさ。

 あたしたちはどちらも鍵付きの部屋に閉じこもってる1人娘。そして、お互いメンタルの病気の診断書が付いてる。だから親も誰も今更何をどうしてるのかなんておっかなくて聞けやしない、と。最っ高だね。
 私がリスカにハマったきっかけも、朱莉にはとっくに話してある。もう軽く半年以上も前、私が登校拒否や朱莉とは別の精神科通いを始めた頃のことだ。娘について知ろうとしてたらしい父母が手に入れてきた「青少年の精神疾患について」っていう本が、ある日の昼間リビングに行ったら置いてあった。そのとき私はハイだったから、その手の小難しそうな本でも内容を追っていくことができた。そして、自傷行為の章を読んだときに、何故だか『これだっ』、と思っちゃったんだ。
 明璃ちゃんはバレー部の練習で肉体の辛さを感じることに慣れてるから。いつだったか朱莉にそんな分析みたいなことをされたっけ。自分ではよく分からない。とにかく、指をカッターで小さく小さく切ってみたら、血の流れが見えるとこも含めてすごくしっくりきた。髪を引き抜くだけの自傷とは比べものにならなかった。実際、そっちはもうあんまりしなくなってる。
 それから何日もしないうちに初の手首をやって、翌日には親にバレた。だけど、
「あんまり深くやり過ぎないようにね」
 と言われただけで済んだ。注意っていう感じじゃなかったな。きっと、あの本に書いてあった『あまり本人を刺激しないようにしましょう』、とかいう部分を素直に実践してくれてたんだろう。それでいい、とも、ほんとにいいの、とも思う。何かのきっかけで抑えが効かなくなったとき、こんな私が何をしでかすのかは分からない。もうどうにでもなれ、と、死んじゃうのとか嫌だしつまんない。どっちの思考も最低。だけど本心だ、多分。あー、面倒くさい。こういう危なっかしいのじゃなくて前の朱莉みたいに全然動けなくなるだけのがよかったな。いかにも可哀想で分かりやすいじゃん。

 ああ、そっか。この子のそんな平和そうな世界を台無ししちゃったのが私なんだ。ゴメンね。ほんとはいつまでもこの部屋の中でうずくまってたかったんでしょ、須坂さん?「ん? どうしたの、明璃ちゃん?」
「なんでもない。それより朱莉、あたし本当に帰ったほうがいいんじゃない?」
「どうして?うちらしょっちゅうこんな感じで2人してダルそうにしてるじゃん? なんで今日に限ってそういうこと聞くの?」
「なんででもないよ」

 朱莉の目つきが変わる。ヤバいと思うのと同時にクッションが勢いよく飛んで、私の顔に命中した。避けようとわずかに後方へ反っていた私は、そのまま床へ倒れていった。「なんでもないことないでしょっ‼ 私のことなんかほんとはどうでもいいくせにやたら優しくしちゃってさあ、このリスカ女っ‼」「ふーん。私のこと、そんな風に思ってたんだ、あんた。やっぱ帰るわ」
 床から起き上がろうとした私を、朱莉がもう一回押し倒した。
「なんでも勝手に決めようとすんなっ‼ ここにいろっっ‼」
 朱莉は私の肩を掴んだまま、ぜえぜえと自分の肩を上下させている。沈黙。また沈黙。そうして、彼女の目から勢いよくあふれ出した涙がそのまま私の顔に落ちてきた。私は身体を起こし朱莉をベッドに寄り掛からせてから、机の上のティッシュを取って彼女の涙を拭いていった。
「全く、もう。いきなりそんなして暴れたら疲れちゃうよ、あんた」
「ゴメン。私、ごめんね」
「あたしこそゴメン。だけど、そうだな。どうせならいっそのこと、あのまま首絞めたりハサミでおもいきり突き刺したりとかして欲しかったなあ」
「あはははっ‼なにそれ。笑えるわー‼」「え。今の結構本気で言ったんだけどな」

 もう一回、沈黙。そして真顔に戻った朱莉は、静かに明璃の目を見て話しはじめた。「うん、知ってる。私もあんたに殺してもらえたら楽なのにとか考えることあるから。でも、今日くらいのイカレ方じゃあ全然足りないみたい。また今度ね。明璃ちゃんもさ、そういうの出来そうなくらい壊れたテンションになった時は、よろしくね」
「うん、分かった。それにしてもさ、私たちってやっぱり友達じゃないよね」
「そうだね。もっと面倒くさい、こんがらがったやつだよね。どうする? 一応キスでもしとく?」
「嫌だ。したくない。そんなのより、今の気分でリスカするとすっごい気持ちよくなれそうだからさ、今度こそほんとに帰るね、私」「そっか。そうだね。正直、私もキスよりはODがしたい。あ。テンション普通じゃないからって、お互いやり過ぎないように」
「はーい。それじゃ朱莉、またねー」
「うん、また明日ねー」

 自分の部屋に帰った私は、血管のとこを避けつつ狭い感覚で横に3つ、新しい痕を作った。死に損なってきた気分でいたはずなのに、本気なところを切るつもりにはなれなかった。痛みと血があれば満足。そう思えちゃったんだ。ちぇっ。つまんないの。朱莉とした約束なんかパッと破っちゃえばいいじゃん。あの子、もうとっくに死ねるくらいのクスリ飲んじゃってるかもよ? ううん、大丈夫。うちらどっちもそんなことしない。
 血がすっかり止まった後、明璃は朱莉に向けて『切った。でもちゃんと生きてるよ』、とメールした。朱莉からはすぐに『飲んだ。でもちゃんと生きてるよ。窓開けて』、という返信が届いた。明璃が部屋の窓を開けると、朱莉が彼女の部屋の窓から手を振ってきた。明璃も振り返す。『なにこれ? うちら大親友でも何でもないよねえ?』、なんて思いながら。朱莉は朱莉でおんなじこと考えてるんだろうなあ、と思いながら。



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