【１】
　これは､私が先週出会った子猫についてのお話｡ 三日前の土曜日に半同棲をお終いにしてこの部屋にあったささやかな荷物と一緒にいなくなった男についての話じゃあない｡

【２】
　仕事をしている間は､責任感とかいう得体の知れない重石が感情の蓋を動かないようにしてくれている｡ 自分と向き合うなんてまっぴらだ｡ 今日みたいな日は､特にそう｡
　だけど今､あいつの傘や普段使い用のスニーカーなんかの失せた小さな玄関が､私にすっと現実を突き付けてくる｡ こんなのおかしい｡　一方的にあいつを嫌いになって『じゃあね』､を言い渡したのは私のほうなのに｡ おい､いちいち悲しくなるな｡
　涙があふれる｡ 動くこと全てが面倒くさくなった私は､靴を脱ぐこともせず仕事カバンをその場にどすッと落とし､泣き続けた｡ 軽く声を出してしまってるのが分かる｡ 別にどうでもいい｡ 鍵は閉めた｡ 時間指定の宅配便が訪ねてくる予定はない｡ 月曜日からアポなしでやって来るような友達だってこの街にはいない｡だから､私は好きにさせてもらう｡ あいつと別れたのが嫌なんじゃない｡ そうじゃなくて､私は今､どうしようもなく寂しいっていうだけなんだ｡ じきに止まるよ､こんな涙｡
　そういえば､この前の子猫､連れて帰ってきてたらあの男と違ってまだ一緒にいてくれてたかな｡ ははっ｡ そんなご都合主義に巻き込まれてたりしたら､あの子も迷惑だったよね｡　そう｡ きっとそうだよ｡

【３】
　先週の木曜日､私は３時間と少しで残業を切り上げ､駅のホームから階段を下っていった｡自分の部屋があるマンション最寄り駅のここは､乗り降りする人が大勢いる割になんだか妙にみすぼらしい｡ 駅前にある数件の飲み屋もさびれている｡ 場違いに新しく見えるキャバクラの看板は､私が越してきてから一度もその灯りを点していない｡ いつもの夜｡ 退屈な夜｡
　午後から急に入った会議の場でいつも以上に気を遣って立ち振る舞った私の頭は､すっかり疲れ果てていた｡ 空いた余白ではつい､どうやってあいつに別れを切り出そうかなんて考えてしまっていた｡ うんざり｡ え､何が？ どうして？ うるさい｡ 静かにしてろ｡
　みゃあ｡ そのとき､意識の隅のほうでちいさな声が聞こえた｡ 足を止めそちらに目をやると､白くて小さな猫が､おっかなびっくり私に近づいてきていた｡ 生まれたばかりの野良､だろうな｡ 数はそれ程いないみたいだけど､この界隈ではよく決まった野良猫たちを見かける｡白猫を､誰も住んでいないだろう古いアパートの外階段から､いつもその場所にいる茶色猫が不機嫌そうに見詰めている｡
　こっち来んな､か｡ 猫の事はよく知らないけど､柄が違うしこの子の親ってわけじゃないんだろう｡ 近所で産み落とされ､あんた毛も生え揃ったからもういいでしょ､と育児放棄されちゃったかわいそうな子｡ きっと､そんなところだろう｡
　それじゃ､どうする？ 連れて帰って､そのあと､動物保護センターみたいな慈善団体に繋いであげる？ 手筈は知らないけど､きっと､そんな面倒な事ではないだろう｡ 色々と分かっている立派な誰かさんにお任せする｡ たったそれだけで私は無罪放免だ｡ 　　　　　　　    　あいつは週末まで自分の部屋に帰ってるし､後の用事は私からの､『もうほんと終わりにしよう』どうたらこうたらを聞くくらいのもの｡見慣れた部屋に小さな白猫がいたって何とも思わないだろう｡ 牛乳とかちょっとした野菜とか､猫の食べそうなものなら冷蔵庫に入ってる｡ だからいいよ｡ おいで｡
　その場にしゃがみ込んだところで私は動きを止めた｡ 表情を示さず手も差し出さない女に､猫はそれ以上近づこうとしない｡ みゃあ､と鳴いてみせるだけ｡ うん､やっぱり止そう｡ほら､私､いま､ぐしゃぐしゃだもん｡ 誰かや何かに注ぐ感情なんか余ってないよ｡ そうなんだよ｡
　自分の心が理解できた私は､そこでようやく白猫に笑顔を向けた｡ それでもその子は動こうとしない｡ みゃあ｡ うん､分かった｡
「悪いけどさ､あなたには私じゃないんだよ｡さようなら」
　私は､もうじき彼氏じゃなくなる男へは結局言えないんだろう言葉を言い ､そこから立ち去った｡ 声は､多分､聞こえなかった。

【４】
　きっとあの白猫は別の誰かに保護されたか､そうじゃなくても生きてく術を見付けられたんだろう｡ あれ以来見ていないのが証拠だ｡ そう｡ 私たちは､もう､大丈夫。
　泣き止んだ私は靴を脱ぎ､部屋の灯りを点ける｡ そして､ぐしゃぐしゃになってしまった目元の色々を含めたメイク一式を落とし､今朝　ベランダへ干していった洗濯物を取り込んでいく｡
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　      　　　　　　　　　　　　　　　　〔了〕