見出し画像

オール・アイ・トーチ [3]

【2・➂】
 朱莉は閉め切ったカーテン越しで窓ガラスに右頬をつけ、ぼんやりしていた。ちゃんと冷たい。それはどうでもいい感覚だった。だって私はもう、どこにも連れていってもらえないままこの部屋で朽ちて干上がっていくんだからさ。冷たいとか痛いとか苦しいとか、 あと嬉しいとか、どれもこれも関係ないよね。

 そんな空想を膨らませながら、私は、笑い泣きしたせいで赤くなっちゃってるだろう目で世界を眺めていた。カアッ。カアッ。窓のすぐ外をまたカラスの声が飛んでいった。行ってらっしゃい、それとも、お帰りなさい。私がかけるべき言葉はどちらだった? 今さら手遅れか。どうしたら私を学校へ連れ戻せるのか考えてももう遅いのと一緒で。どんな提案をされたって、私は、『そんなの無理だよ』と跳ね除けちゃうだろう。私は本当にもう、どうもしたくないから。

 あれは、もうすぐ梅雨入りが発表されそうなむっとした空気の6月初めのある日だった。私は2限と3限の間の少しだけ長いその休み時間も、机の木目を見ながら時計が早く進んでくれますようにと祈っていた。

 その前の週からグループ内で無視されるようになっていた私には、自分の席以外の居場所なんてなかった。2年2組には、ずっと独りで席に座ってるのが自然だと皆からみなしてもらえている人は1人もいなかった。だから皆なんとなく分かってたんだ。誰かがいじめのターゲットにされたらおもいきり浮いちゃうだろなって。
 別に大した問題じゃないよね。だって誰も自分にその番が回ってくる日なんか想像しないもん。いざそれが始まっちゃったら他所の組よりずっと簡単にクラス中を巻き込むひどいのになってく。それだって大半の人は分かってたはずだ。だけど、何にもできるわけないよ。いじめなんて始まってからじゃないと手が打てないもんなの。そうして、毎年最初にターゲットにされちゃった子は帰らぬ人、つまり登校拒否組の新メンバーになるのが恒例イベントなんだよ。分かる? 助かんないの。道徳とか平等とかどうでもいいの。役立たずはあっち行ってて。ほら、消えて。
 そうして、須坂朱莉さんが正式な1人目のターゲットにめでたく選ばれました、と。始まっちゃった。嫌だな。どうしよう。

 休み時間終了まで残り5分というタイミングで、別グループの子が私に近付いてきた。その手にはぼろぼろにへし折られた傘。もちろん私のだ。彼女は私の目の前に傘を投げ捨て、最後に思い切り踏みつけた。おしまい。
 私がそう感じたんじゃない。傘が踏まれるのと同時に、黒板に大きくそう書かれたんだ。そうして、それを書いた男子は私の瞳をギッと見詰め、『お・し・ま・い』を綺麗に消していった。だから私は、急いで荷物をカバンに入れ、教室から、学校から、校門から出て  いった。雨は、降っていなかったと思う。

 夕方、部活が終わって皆が帰るタイミングで一斉に私の携帯へ、『お願いだからもう来ないでね』というメールが送られてきた。2組全員分は無かったと思うけど、クラスで私といちばん仲良しだった子からもそれはちゃーんと届いた。
 私は自分の部屋のベッドにうずくまり、もう学校には行かないと決めた。バイバイ。

 あれからもう3ヶ月くらい経つ。夏休みも2学期の始まりも中間テストも私には関係なかった。そもそも家から出られなくなってたから。理由なんか知らない。とにかく無理なんだってば。それよりか、ひきこもりなのに毎日ちゃんとお風呂に入って毎日きちんとお父さんお母さんと夕ごはん食べてるってだけで褒めてもらいたいくらいだ。他のことはほんと、さっぱりなんだけどさ。私ね、一日中ベッドの上か机のところの椅子に座ってぼんやりしてるんだ。部屋には携帯もテレビもパソコンもあるけど、どれもあるっていうだけ。用事なんか何にもない。
 机の上の電気スタンドだけは、起きている間ずっと点けてある。どうやら私は、自分の存在がすっかり誰からも気付いてもらえなくなるのが怖いみたいだ。ああ、それとも、せめてもの抵抗をしてるつもりなのかな。よくわかんない。どうせカーテンも窓も、あの日からずーっと閉まりっ放しだっていうのに。

 あーあ。私、もうお終いだよ。こんなぶっ壊れてんのに病院にも行けないし、だから学校の保健室とかその隣の特別教室とか絶対に無理だし。いっそ自傷でもした挙句に救急車に積まれて強制入院とかなったほうがよっぽどいいね。そんなのする力どこにもないからここでこうしてるんだけど。みっともない。ぐず女。クズ女。

 朱莉はいつの間にか、窓ガラスの少し先にあるはずの色落ちしたみたいな黄緑色のカーテンを思い浮かべて話をしていた。そこは、仲良しでもなんでもない江藤のほうの『あかり』ちゃんが、きっと自分と大差ないだろう夜明けの時間を過ごしている場所だ。あれ?あの子が私よりちょっと後から学校行かなくなったのって、お母さんから聞いた? それとも意外にお父さん? どっちでもいいか。関係ない。それに、明璃ちゃんならきっと、9月から何でもなく学校に戻れてるよ。何かそんな気がする。
 朱莉は、自分よりも10センチくらい背の高い江藤明璃が部活の朝練で元気に周りの部員と笑い合っているところを想像した。バレー部所属の彼女がアップで学校の外周を走っていく様子を、朱莉ははっきりと想い描くことが出来た。

 うん、そうだ。これはきっと本当の事だ。ちっとも動き出せないでいるのは私だけ。後のみんなは痛いのにも苦しいのにも負けずに前進していってる。私はやせっぽちでちっぽけな負け犬だからもうお終いでいい。よし。せっかくだから窓を開けて、みんなにお別れの挨拶をしよう。だって今まですごくお世話になってきたんだから、私。うん、そうしよう。バイバイ、みんな。
 朱莉はカーテンと窓ガラスを一気に開け放った。部屋の窓際に溜まっていた綿ぼこりがまだ弱い朝の日に散っていく。朱莉は一呼吸置いてから窓の外へと身を乗り出した。これで終わり。あれ?

 目を向けた先、路地の向かいの通りにある江藤家の黄緑色カーテンはもう開かれていた。そしてそこの窓辺では、誰かが頬杖をついていた。こちらには気付いている様にもいない様にも見える。あれ、 明璃ちゃん、で合ってるよね? 自分の中のイメージと比べるとずいぶん髪が伸びているし、身体つきも弱々しく見える。そして、腕にはいくつか、この位置からでもかすかに横方向に伸びた線があるのが見える。それでもあれは、江藤明璃だ。
 そっか。明璃ちゃん、ぜんぜん元気になんかなってなかったのか。それどころか何よ、そのメンヘラ女の鏡みたいな見た目は。ま、私だってどうせ似たようなもんなんだろうけどさ。そうだ。せっかく会えたんだし、ご挨拶しとこうか。

 朱莉は机の上からろくに使われていないノートと極太のマジックを持ってきた。そうして、咄嗟に思いついたメッセージを2つそれぞれ開いたノートのページ丸ごと使ってでかでかと書いていった。準備が出来ると、朱莉は明璃がさっきまでと同じ姿勢でぼんやりし続けているのを確認し、彼女が分かるようこつこつと窓ガラスを叩いてから大きく手を振った。明璃は朱莉に気付き、顔をこちらへ向けてきた。うわ、なんか面倒くさそうな表情。あんまり歓迎されてないな、 これ。ま、 どうでもいっか。あたしの久々にハイな気分をあんたに押し付けてやる。
 朱莉は明璃に向けてノートを広げた。

『須坂さん おはよう』
 明璃が目を丸くする様子を見た朱莉は、すぐにページをめくった。
『おたがい ひっどい顔 してるねえ』
 それを読んだ明璃ちゃんが思い切り吹き出してるのが見える。よし。これ成功だよね。自分でもどんなのを期待してたのかはっきりしないけど、楽しいからいいや。おっ。明璃が朱莉に向け、ちょっと待ってて、と手のひらを示すジェスチャーをしてきた。そして、ほんの少しだけ窓辺から消えた彼女は、ノートと極太マジックを持って戻ってきた。急いで返事を書いているのが分かる。そして、あちら側の窓も開いた。お。なにかな?
『あんたに 言われたく ないっての!!』
 それを読んだ朱莉は、さっき明璃がしたのと同じように勢いよく吹き出してしまった。ほんと楽しいな。2人とも、マジで人様に見せられる様な顔面してないっていうのに。 ああ、そうだから余計に楽しいのか。お。新しいの来た。
『うちら アドも番号も 知らない?』 『うん 知らないよー』
 朱莉と明璃は互いにもう一回爆笑してから連絡先を大きく書いて見せ合った。朱莉のケータイが反応する。
『これでうちら、やっと話できるね。よろしく朱莉ちゃん』
 うん、そうだね。友達とか仲間とかっていうんじゃなくて、やっと話せる同士だ。よろしくね、明璃ちゃん。


この記事が参加している募集

私の作品紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?