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オール・アイ・トーチ [8]

【3・➇】
 明璃ちゃんは、今もお姉さんたちとは仲良くしている。彼女たちは卒業するタイミングで工場の正職員に昇格したりどこかの会社の事務員さんに転職したりしていた。そんなだったから、正直、うちら2人が何もしてない事はよく思ってもらえないかと不安だった。だけど、『あんたららしいわ』とかって感じで大目に見てもらえているみたい。ま、そもそも彼女たちとの間で何かあったとして私が心配するのは違うよね。お互いにいい加減、 自分のことは自分でどうにかしていかなきゃ。

 ここ最近、私たちがどちらかの部屋を訪ねていくペースは多くて3日に1度くらいだ。私は塾にも通わず部屋で勉強してるだけだし明璃ちゃんにしたって不定期で読モのバイト続けてるだけ。だから、中学の頃みたく毎日お互いの部屋に入り浸ることだって出来ないわけじゃない。お姉さんたちは仕事が忙しくて前みたいに直接会える日は激減してるっていう話だし。それでも、そこまでしょっちゅう会おうとは思えない。明璃ちゃんもきっと同じだ。私たち相変わらず仲はいいよ。だけどさ、共有してるものはどんどん減っていってる。
 私が今してることは、ここからずっと離れた場所にある大学へと進むための準備だ。そして、彼女は彼女で来年、もしかしたらもっと早く、どこかで何かの仕事に就くかも知れない。いまいち想像がつかないけど、明璃ちゃん、進学するつもりはないみたいだし―「おーい朱莉ぃー。今から部屋行っても大丈夫ぅー?」
 窓越しではなく、うちの玄関のほうから明璃ちゃんの声がしてきた。私は急いで下へ降りていく。

「ゴメンね、いきなり来ちゃって」
「ううん、いいよ。入って」
「ありがとう。お邪魔しまーす」
 明璃ちゃんはすっかり慣れた足取りで須坂家の階段を上がっていく。髪は相変わらずプラチナブロンドのロングだ。ああ、もしかするとこの子―
「ねえ明璃ちゃん。明璃ちゃんってどっか会社とかに就職するつもりはない感じなの?それとも学生志望になった?」
 私たちはベッドの上で話しはじめた。
「ああ。丁度いいや。あたし、進路の話したかったんだよね、今日は」
 明璃ちゃんは私の机に乗ってる問題集や参考書に目をやって続けた。
「朱莉って、志望校どこにするかまではまだ決めてないの?」
「うん。まだ具体的には。親は国立でも私立でも、何なら短大とか専門でもいいから好きに選びなさいって言ってくれてる。なんか、未だに遠慮されてるんだよね、私」
「そっか。ま、うちも同じ雰囲気だけどさ。ひきこもりに戻んないなら何でもどうぞっていう。気持ちは分かるけど」
「ふふっ。うちら、一回はほんとヤバいとこまで落ちちゃってるもんねえ。それで、明璃ちゃんはどうするの?」
 聞かせて。それからじゃないと、私、どこにも行けないから。
「朱莉のほうから聞かせてよ。じゃないとあたし、喋れる気がしない」
 明璃ちゃんはそう言って話から逃げた。卑怯者。そんなんじゃ私だって話できないじゃない。ねえ。私の眉間にしわが寄ってるのを見付けた明璃が提案してきた。
「ねえ。このまま喧嘩っぽくなっちゃうの嫌だからさ、ちょっと外出て歩きながら話しない?なんなら服ももうちょっとまともなのに替えて、軽くメイクもしてさ」
「うん、いいよ。そうしよっか」
 ちゃんと責任取ってよね、明璃。

 私たちは20分後に須坂家の前で落ち合い、取りあえず駅前を目指して歩き出した。行く当てはない。お互いが大切なことを話して、聞いて、はっきり決めるタイミングを伺っている。

 この『今』が続いて欲しいなんて、私も明璃ちゃんも思っていない。だけどさ、変えてもいいなんていつどこで誰から言ってもらった? うちらにそんな権利あるのかな? この、登校拒否組出身で鬱持ちで相変わらずヤバい癖持ちのうちらが、ここからどこへ行けるっていうの? なんで変われるって思うの?
「―でさあ、クミさんが言うにはさあ―」
 ここのところ愛用してるらしい、くすんだ赤系リップを塗った唇が動く。明璃ちゃんは中学への通学路へ入る道の横断歩道を渡る辺りからずっと、お姉さんの1人から聞いたうわさのことを喋っている。なんでも、明璃ちゃんをいじめて不登校へ追いやった諜報人の子が最近テレビに出てたらしい。
 その子は私にとっても同じ中学の同じ学年の生徒だったはずだ。でも、携帯の画面を見せられても何の印象も浮かんでこなかった。きっと、江藤明璃と同じくらい背の高い別クラの誰かさんでしかない彼女は、私にとって背景でしかなかったんだろう。それこそ明璃ちゃんですら当時は他人だったんだから。
「あたしとその子、今思うと思いっ切りキャラ被りしててね。だから邪魔だったんだと思う。そんなのがあたしを消してもいい真っ当な理由になったのかって言えば、そりゃ違うけどさ」
 ともかく、その子は何がどうしたのか、今では川口だか池袋だかその辺りで歳を軽く誤魔化して売れっ子のキャバ嬢をしているらしい。それこそ、テレビの深夜番組が目を付けるくらいの。私の感想? どうでもいいじゃない。その誰かさんはわりと美人で、この度めでたく勝ち組の一員になりました。それだけ。中学の頃から上手くやれてた子なんだし、当然の結果だ。私たちと差がついてなかったとしたらそっちのほうがよっぽど気持ち悪いよ。ねえ明璃、そうじゃない?
「ん?朱莉、この話あんまり興味ない?」「うん。あたしはその子のこと覚えてないし。他人のシンデレラストーリーとかどうでもいいんだよね」
「そっか。今日のあんた、やっぱり朝から機嫌よくないよね。何かあった?」
「別に。明璃ちゃんこそ、早く肝心なこと話したら?」
「そうだね。ゴメン」
「いちいち謝んなくていいよ。ほら―」

 そのときだった。駅の方から歩いてきた1人の女が、私たちに声を掛けてきた。

【3・❽】
「あれっ? えっと、何ちゃんだっけ。あの、誰だったか他の子と名前被ってた、ちょっと思い出すから待って」

 たぶん大学生とか専門生とかだろう。私たちと同じくらいの歳に見えるその子は、そこで一端ことばを切った。私は知らないか覚えてないかのどっちかだ。でも朱莉は、もしかしたら。この態度、ほんとにそうなのかも知れない。私は私のいじめっ子の事を話してただけなのに、なんか奇遇だな。朱莉、あんたが1人でイライラしてるから罰が当たったのかもよ。
 まるで他人を警戒するモードに入ったペットの犬とか猫だな。もともと10センチくらい身長差のある彼女が、より小さく見える。そして細かく震えている。これ、下手に刺激すると目の前のこの女を攻撃しちゃうな。私と違って刃物は持ってないだろうけど、奇声あげて地面に押し倒すくらいのことはやっちゃいそう。だって目の前にいるのは多分、須坂朱莉をいじめてすっかり登校拒否にしてしまった張本人だ。私は全く見覚えないけど、ねえ朱莉、そういうことなんでしょう? 元同級生さん、あなたも次にどう行動したらいいのか、ちゃんと分かってますよね? 怪我するの、嫌ですよね。
 不穏な空気が朱莉と明璃を包む。そして、目の前の女が納得したという顔になり、口を開いた。

「いきなり声掛けちゃってすいませんでしたね。昔の同級生に似てる気がしたんですけど、私の人違いでした。隣にいるあなたもその彼女の友達にはいなさそうですし、まずそこで気付けよっていう感じですよね。ほんと、すいませんでした。それじゃ」
 気まずかったのかその女は一気に言い訳の様なものを喋り切ると、軽くおじぎをしてから私たちの前を通り過ぎようとした。だから私は素早くシャツの袖をめくり、リスカ痕だらけの腕を見せつけながら『いえ、貴女もお気を付けて』、と手を振ってやった。女は分かりやすくびくっとし、小さく手を振り返すと露骨な速足でその場から去っていった。
 よし、仕返し成功っ。すると、朱莉がもう  一方の腕にしがみ付いてきた。
「明璃ちゃん、ほんとにありがとう。ちょっとあそこ、座らせてもらえるかな」
 朱莉は間近のバス停のベンチを指差す。「そうだね。そうしよっか」

 すうぅぅっ、はあぁぁっ。朱莉が泣き出しそうな顔で深呼吸を繰り返している。私は、バス停脇の自販機で温かいほうの紅茶を買って、彼女に差し出した。朱莉は小さく『ありがとう』、と言ってそれを受け取る。私は朱莉の部屋のベッドでするみたいにして、その隣へそっと腰掛けた。バスがやって来て、私たちが乗らないことを確かめてから通り過ぎていく。朱莉が、何だかくたびれた口調で話しはじめた。
「明璃ちゃんは強いよね。さっきもずっと落ち着いてたし、それに、自分をいじめてた子の事もすっかり吹っ切れた感じで笑い飛ばせちゃうし。すごいよ」
 ああ、そういうことか。でもね、あたし背が高いだけで格好いいヒロインなんかじゃないの。
「ありがと。でもね、私、さっきの女にはムカついたから腕見せで脅かしたんだよ。それに、朱莉とはいじめる側との関係が違ってたもん。朱莉のはああいういかにもなボスキャラ女だったでしょ? 私のは、すぐ近くにいた友達がある日いきなりあたしを無視するようになってそれが一気に酷くなって、って感じだったの。だから、今でもその子のこと、嫌いにはなれないんだよね。もう絶対会えないし会わないけどさ」
「うん、そっか。そうなんだね。話してくれてありがとう」
 なんか調子狂うなあ。うちら、さっきまでぎくしゃくしてて、私、けっこう必死で取り繕ってたはずなのに。『あ』。私の左目から涙がこぼれ始めた。なにこれ。すぐに右目からも涙はあふれ、止まらなくなる。そっか。私は私で不安だったんだ。未来がはっきりすることも過去がはっきりすることも同じくらい怖くて、しかもリスカして今に逃げ込むのでさえ最近は嫌になってきてて、ほんと、どうしていいか分からなくなってた。中学のあの頃はどうせ自分には来ないままでお終いになっちゃうと思ってたこの『今』があっけなくやって来て、その上いつの間にか一番嫌だったはずの過去さえしっかり受け入れる支度ができてて。ほんと、なにこれ。

「うちら2人って、出来そこないの負け犬じゃなかったっけ」
「ん。その通りだけど、別にいいんじゃないのかな。今だってサイテーに苦しいけど、ほら、なんか楽しいし」
 朱莉が立ち上がって後ろから私の肩にぽんっと手を置き、そんなことを言ってきた。優しい、でいいのかな。ものすごくひどいこと言われてる気もする。ま、この際どっちでもいいか。私たち、今までもこれからも友達じゃないから、別々になっても一緒にいられるんだ。
「ふふっ。明璃ちゃん、そろそろ泣き止みなよ。これじゃさっきまでと役目が逆じゃん」「あははっ。別にそれでいいじゃん。なんか問題あるわけ?」
「そうだね。それでいいね」
 朱莉がそう言いながら私の右肩へ顎を乗せてきた。ああ。うちらのいつもの距離感だな。そう思えてきたことが、何だか嬉しかった。

 それから朱莉はベンチの右側へ座り直し、互いの左手と右手を繋ぎ合わせた。少し間を置いて、朱莉は自分の将来について語り始めた。人文系とか社会系の学部に入って、卒業した後はどこかの出版社で働いてみたいこと。上手くいったらそのままこの街には戻らないで生きていきたいこと。そして最後に『こういうこと全部、まだぼんやりした夢でしかないんだけどさ。上手くいかなきゃいかないでどうにかするよ』、と自分で自分に活を入れてみせた。
 朱莉の話を聞き終えた明璃は、約束だったからと自分の将来像について話し始めた。これ以上学校に通う気にはなれないから年内には就活に手を出すつもりだということ。まずは地元の会社で事務系のOLを目指してみること。そして『でもさ』、と前置きしてから腕のリスカ痕を見せ、『きっとこれのせいで厳しいと思うんだよね』と言ってみせた。
 続いて元友達のことを引き合いに出して、『私も、そういう、ヤバいやつじゃない類の夜のお店って興味あるんだよね』と朱莉に打ち明けた。朱莉は自分よりもよっぽど地に足の着いた将来像を描けている明璃に感心し、素直に『いいと思う。明璃ちゃんに合ってるよ』、と言って彼女を褒めた。話し終えた2人は手を繋いだままバス停のベンチから立ち上がった。そして歩き出し、互いの家の中間地点で『またね』、と軽く手を振り合って別れた。

【3・➈】
 なんだかすごく色んなことのある1日だったな。ぜんぶ自分のことだったのに、まるっきり実感がない。あ。明璃ちゃんからメールだ。『おやすみ』。『うん、おやすみ』。

 私はODする回数が前よりずっと少なくなっている。そもそも処方される抗鬱薬やら何やらの数も減ってきてる。何年か前の一番ひどかった時期から見て、自分の危なっかしさは比べものにならないくらい減っているだろう。明璃ちゃんのリスカ癖にしたって同じで、最近のあの子の腕にあるのはたくさんの傷の痕だ。傷そのものじゃあない。薬の方にしたって、詳しくは知らないけどまた減ってきてるみたいだ。
 つまり、私たちはきっちり回復してきている。それは当たり前のこと?きっとそうなんだろう。だけど、私は前向きな人間じゃないからそんな風に信じるつもりはない。明璃ちゃんだって似たようなもんだろう。
 この先まだしばらくは続いてくれそうな人生。夢みたい。精神科の先生やカウンセラーさんが指すカンカイ【寛解】にはきっと行き着けないけれど、そんなのお構いなしに続いてく。

 なるようにしかならないよ。おやすみ。


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