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日本人が主に信仰している宗教は仏教です〜ラオスで感じたこと〜


無宗教だと思っている日本人

日本人仏教徒の6割が自分が仏教徒だと
自覚がないそうです。親の葬式を経て、自身の
宗教に向き合う人も多いとのこと。

先日、ラオスのルアンパバーンとビエンチャン
いってきました。
これまでアジアに関わって20余年、
まだ足を踏み入れた事がなかった国です。
何人かの人にルアンパバーンがいいと
勧められていましたが、機会を逃してきました。

一言で言うと、とても良かったです。
そして国民性と仏教について考えてみました。

街並みの美しさと空気感の理由は

その感想の最も大きな要因はラオス人の優しさ
彼らが作る街並みの美しさと空気感です。
もちろんルアンパバーンはその古い街が
世界遺産
なので守られるべきものとして
認識されているとは思いますが、
フランス植民地時代の名残なのか街並みも
可愛らしく、ブーゲンビリヤやプルメリアが
あちこちの庭先に咲き誇っていました。
それは、街中だけではなく、郊外に行っても
同じように感じました。
決して高価なものは使っていませんが、
綺麗に整頓されていて、圧倒的に落ちているゴミも少ない
また騒音があまりなく、
静かで落ち着いていました。

国民性

そしてラオス人は何と言うかピュアというか。
現金を落とした時に、拾った人が探して持ってきて
くれたそうな。日本と同じ感覚?まさかそれ以上?
何とも言えない奥ゆかしさと、滋味のある優しさ
やはり敬虔な仏教徒である故なのでしょうか。
タイ北部チェンマイ・チェンライでも同じ様に
感じた記憶があります。

早朝5時からの托鉢

今回はルアンパバーン滞在中に托鉢に2度行ってきました。

1度目は普通の日。私が宿泊したホテルから近い場所は
外国人観光客しかおらず、売り子の様な人から買った
もち米をお坊さんに渡しましたが、神聖さに欠け
おざなりな気がして、こんな感じなんだと帰りました。

でも2度目の満月の日は違いました。
前日からラオス人が市場で買い出しし、いそいそと
準備をして、当日は朝5時には正装して列をなし、
お坊さんが来るのを老若男女が
じっと座って待っているのです。
おばあさんが3歳くらいのお孫さんに所作を
教えていました。受け継がれていく様子が伺えます。
綺麗に飾られた手料理や、小額ずつ封をされたお金が準備され、
少しずつ大切にお坊さんに渡されていました。

あぁ、これがラオスで連綿と続く宗教儀礼なんだと
感動しました。
そして、そのお坊さんからさらに貧しい子どもたちに
お裾分けするのです。優しさの連鎖と、緩く繋がる連帯感みたいなものを見た様に思いました。

私は喜捨という言葉が好きです。喜んで、自ら進んで有り難くお布施する、
という考え方が好きです。

小乗(上座部)仏教と大乗仏教とは

ところで仏教は大きく分けて、小乗と大乗に分かれる事はご存知でしょうか。

日本は大乗仏教で、大きな乗り物に乗って、願えばみんなで救われる。
反して小乗は小さい乗り物に乗るという意味で、厳しい修行をした人だけが救われるという考え方です。
黄色い袈裟を着ているお坊さんを見た事が
あるでしょうか。タイ、ラオス、カンボジア、
ミャンマー、スリランカが小乗仏教を信仰しています。厳しく修行を積む彼らを大切にし、敬い、喜捨することで、人々も徳を積むと考えられています。

外国人から見た日本人の宗教心

さて、翻って外国人から見て、日本の宗教心は
どの様に思われているのでしょうか。
何でも取り込みすぎていい加減な感じもします。
仏教のみならず、アニミズムが元になる神道、ヒンドゥー神は七福神になり、儒教的な考えもあって、年上を敬う習慣もまだあります。

最近だとアイドルやスポーツ選手にも神を使いますね。神を安売りしすぎな感じもします。汗

日本人は神に対して、一見適当に見えるかも
しれませんが、私は逆に、何でも神様にして
敬う事ができる天才
だと思っています。
神様に囲まれている私達日本人は、
いつも何かに畏れ、謙虚さを持ち、感謝の気持ちを
忘れず、自分を律する力を持つ
のでしょう。

最後に

私もアジアで暮らす前は、仏教徒だと自覚が
ありませんでした。

アジアの人とは仏教で繋がっている、
今はそんな感覚がいつもあります。

訪日外国人から日本人はフレンドリーだと言う声を
よく聞きます。私も同意します。でもそれが宗教に
よるものなのか理由は分かりません。

今回、私がラオス人に感じた様な気持ちを
いつまでも訪日外国人に持っていてもらえたら
嬉しく思います。

今日はこの辺で。See you next time🎵

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