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2021年10月の読書記録

年初に「年間80冊読む」という目標を立てたが、気づいたらすでに100冊近く読んでいた。
週末はほとんどアクティブな活動をせず、家か本屋にばかりいた気もするので当然かもしれない。冊数が大事というわけではないけれど、なんかうれしい。

目録(14冊)

  • フィフティ・ピープル(チョン・セラン)

  • ゴリオ爺さん(バルザック)

  • 世界が生まれた朝に(エマニュエル・ドンガラ)

  • インド夜想曲(アントニオ・タブッキ)

  • のどがかわいた(大阿久佳乃)

  • 迷うことについて(レベッカ・ソルニット)

  • イナンナの冥界下り(安田登)

  • 人間の土地へ(小松由佳)

  • ウィトゲンシュタインの愛人(デイヴィッド・マークソン)

  • ギケイキ(町田康)

  • 韓国・フェミニズム・日本(斎藤真理子 編)

  • 女であるだけで(ソル・ケー・モオ)

  • 外は夏(キム・エラン)

  • ものがたりの余白(ミヒャエル・エンデ、田村都志夫)


フィフティ・ピープル

なんとなく人に借りた本で、でもすごくよかった。タイトルどおり50人(実際は51人になってるらしい)に順番にスポットを当てて、韓国の地方都市にある大病院を舞台に人間模様を描く。

最終章を初めて読んだとき「えっそんな偶然あるわけないじゃん」と思ったが一瞬で「いや全然あるわ」と思いなおした。ある出来事にたまたまいあわせた人たちにそれぞれ人生やドラマがある、というと陳腐な言い方になってしまうけど、それを緻密に丁寧に織り上げた小説だと思う。

一章あたり、せいぜい数ページ。登場人物どうしがゆるやかにつながっているので、一気読みしたほうがそのつながりが見えやすいけれど、行きつ戻りつしながら毎日すこしずつ読み進めるのも楽しそう。

韓国・フェミニズム・日本

たまに行く韓国料理屋で韓国出身のマスターと話したとき、日本語に訳されてる韓国の本ってけっこう似た傾向があるよねみたいな話になったのだが、そのとき私の頭に浮かんだ本がこれだった。
韓国の本をたくさん翻訳している斎藤真理子さんが統括編集しており、せっかくなら韓国文学の全体を知りたいなと思って買っておいた本。

最近の比較的若い作家や作品だけでなく、ちょっと前の古典と呼ばれるような本についても触れられている。文芸というカテゴリを超えて、作家や韓国社会の雰囲気にも大きな影響を与えた出来事(セウォル号沈没事故など)をひととおり知ることができたのがよかった。

今はフェミニズム関係とか、若手作家の作品が取り上げられることが多いけど。想像よりはるかに色彩豊かな韓国文学、もっと読めるようになったらうれしい。

外は夏

キム・エラン『外は夏』は上の本で紹介されていて知った。
『フィフティ・ピープル』が痛みや辛さを吹き飛ばそうとするような明るさを持っているのに対して、こちらはしっとりとした、でも閉塞感のない冬の晴れた朝のような雰囲気の短編集。「喪失」が全ての章のテーマになっている。

個人的には、本の主題にもつながっている「風景の使い道」と、最後の「どこに行きたいのですか」という作品が、冷たい中にも温かみを感じるストーリーで好き。「沈黙の未来」という作品だけ色合いが違っていて、恩田陸のミステリーのようなぞっとする感じがあった。それもよかった。

ゴリオ爺さん

図書館で目に留まったので借りた。
後半が怒涛の展開で、時代設定はともかく、没入できた。古典の、時代を経た厚みというかしなやかさみたいなものを感じる。

長回しのセリフが多く、芝居の時代から文学の時代へ移行する過渡期の作品なんだなと思った。ゴリオ爺さんの娘たちへの愛情が深すぎて、今の時代だといろいろと問題が起きそうだけど、ピュアな父性愛が人を動かすのを眺めるのはおもしろかった。あと光文社の古典新訳文庫は本当に読みやすい。

女であるだけで

ソル・ケー・モオという作家の作品。これはマヤ人がマヤ語で書いた文学の翻訳シリーズ第一弾。古本屋で買った。このシリーズの装丁がとても好きで、2作目の『言葉の守り人』も、先日開催されてた神保町ブックフェスで1000円で購入(やったー!)

ブックフェスの収穫。
テンションが上がって洋書を買ってしまったけど、早速ディスプレイになっています

『女であるだけで』は、ラテンアメリカ先住民の女性の実話をベースに書かれた本。
夫から壮絶なDVを受けていた女性が衝動的に夫を殺して捕まり、世間から「先住民」と「女性」という二重の差別を浴びながら、最後にはそれに打ち克ってアイデンティティを獲得していく。

単純に自分が生きる意味を理解して解決、という話でなくて、自分に起こったことの原因が社会構造にあることを理解するというところに至っているのが印象的だった。

一般化するわけではないけれど、ふだん日常生活(というか主にネット)で目にする人間関係のあれこれの問題が、パーソナルな、本人たち同士の話というか個人の問題に着地させられていて、その当事者がいかに個人で状況を変えられるか、みたいな語り方をされることが多い気がする。
いっぽう今回の『女であるだけで』や最近読んだ韓国文学で感じるのが、「問題を個人の性質に帰着させずに、社会構造の問題としてとらえなおす」という視点かなと思った。読んでいる範囲がせますぎるので確証は全くないけど。

この本を読むのはかなり辛くて、ページをめくっていくのがしんどかった。でもところどころに入る主人公の語りの文章が美しく、ラテンアメリカ×フェミニズム文学の最高峰と言われる所以も理解できる。

ノーベル賞は、まだ知らない海外文学を知るいい機会だと思うのだけど、いつかそれくらいの評価も受けてほしいと感じる作家。

インド夜想曲

『島とクジラと女をめぐる断片』以来のタブッキ作品。先日箱根に一人で一泊したのだけど、その道中のお供にとてもしっくりくる本だった。

ある男が消息を絶った友人を探しにインドを放浪するという話。ホテルやバスの停留所といった日常の場所に、ふいに現れる旅人が新しい風を呼び込んで、去っていく。車窓にうつるバス停に、占い師で障害を負った兄をおんぶした少年はいないけれど、移動しながら読んでるとその世界が地続きになっていくような感じがする。

最終章に向かっていくうちに、単なる旅物語ではないことに気づく。結局、探していた友人ってなんなんだろう。何度でも旅に携えて、道すがら読みたい本。

ウィトゲンシュタインの愛人

実験小説はあんまり読んだことがなかったので最初はめんくらった。
冒頭から最後まですべて、女の独白(正確には日記)だけでページが進んでいく。ストーリーらしきものも、起承転結もない。これまでも、これからもつづいていく日記を切り取っただけ、みたいなたたずまいの本。

女は他の人間のいなくなった地球のあちこちを好き勝手に移動しながら、他の人間を探している。スペイン階段でテニスボールを大量に転がしたり、有名な美術館の絵画を燃やして暖を取ったりしていて、表紙同様、不穏な空気がずっと漂っている。

世界にはもう、女一人とあらゆる人間の遺物しか残っていない。画家や美術館、絵画についての、尋常じゃない数のエピソードが誰に語られるでもなく流れていく。
怖いものみたさというか、抗いがたい引力でページに引き込まれる感覚が面白かった。

イナンナの冥界下り

ミシマ社の「コーヒーと1冊」シリーズは、軽く一杯飲む間に読めてしまうくらいの薄さなのだけど、中味が深煎りのコーヒーみたいで好き。

イナンナとは古代シュメールの女神で、後にギリシアのアフロディテやローマのヴィーナスになったりする、いわば女神の原型。この本ではイナンナの「冥界に下る」という行為や伝説の中の逸話から、今の人間との共通点や相違点をみていく。

面白かったのは、「心」の存在が発見されたのは意外と最近だということ。
実際に古代中国で漢字が発明されたときには「心」をあらわす部分はなく、それが文字で現れるのは300年くらいあとのことらしい。心というのは文字の発達とそれに伴う思考の発達の中で生まれたのか。

イナンナ伝承がうまれた古代シュメールでも、物語では人の心情が描かれない。日本の古代神話を読むときに、神さまたちの言動にどこか違和感があったのは、言動の後ろにある気持ちがみえなかったからなのかーと思った。

女神やまわりの神々は、本能のままにというか、社会性がまだ発達していない幼い子どものようなふるまいをする。
「心」の描写って、身近な物語では当たり前すぎて意識したこともなかったので、それがないことに気づくのはアハ体験だった。
他にも母系社会の話とかがあり、神話とか民俗が好きな人にはおすすめ。

ものがたりの余白

同じく「物語」というものを鳥の目で見る本として、ミヒャエル・エンデの言葉をまとめたこちらを。

エンデの作品は私は『モモ』しか読んだことがないけれど、子どもでも読みやすい(でも実は大人向けの)童話を書いた人、というイメージだった。晩年のエンデに日本の翻訳者がインタビューをしてまとめたこの本では、エンデが物語を紡ぐときにどんなことを考えていたか、『モモ』などの作品でなにを表現しようとしていたのかを垣間見ることができる。

エンデはそこまで多作なほうではなく、途方もない時間を思索についやして、最後に精製されたのが『モモ』などの作品だということ。彼にとって創作=芸術は挫折と遊び(シュピール)をもって成り立つものであり、それはたとえば次のような言葉にあらわれる。

明るい顔で挫折を受け入れること、それが芸術家にとって一番大事なことでしょう。なぜなら、芸術とはほとんど挫折だけでできあがっているのですから。

また彼は、原因と結果という因果論のみに依ってたつ、現代の物語に注意をうながす。言われてみれば、大いなる物語––たとえば聖書の処女懐胎––でも、因果律が無視されていることはしばしばある。

これは、わたしには、いつもとてもうさんくさいものでした。生というのは、けっしてそんなものじゃない、という気がしたからです。「…だから」なにかすることはけっしてありません。そういう理由はいつも後でつけたものです。なぜ彼がそうしたのか、後で見つけた理由なんです。実際には、まったく別の動機が決定する。

そしてこの世に確実に在るのにみえないもの、余白とされるものについて。いつのまにか、価値のあるものは計測し計量することのできるものばかりになってしまったことをエンデは嘆く。

そうして、本質的なことを、間の(空虚な)空間で語る、と言えばいいかな、それが文学ではどうすればできるのだろうかと、わたしはいつも考えたのでした。語ることは、実は「語られないもの」に、「『絵』のあいだで起きること」に注目させる、ただそれだけの役目をはたせばよいのです。これがその当時わたしが努力していたことでした。

壺のだまし絵をみていて、それまで背景だと思っていた部分がいきなり前面に浮き出て人の横顔に見えてくるような感覚と似ているかも。さまざまな物語を、話の流れや登場人物のエピソードといった「目に見える」部分でしか読んでこなかったことに気づく。最近Twitterでみかけた「読んでいない本について語る会」的な催しが気になっていて、これもあらすじの中には見えないものをいろんな人が自分の言葉で語るから面白いのかな、と思ったりした。

「遊び(シュピール)」という単語が随所に出てくるけれど、日本語の「遊び」という言葉が、余白という意味で使われることもあるのはたまたまだろうか。

読書会っていいねという話

この前書いたこのnote。

会社で、「秋だしみんなで読書感想文書こう」「ついでに希望者でペアを組んで、感想とかフィードバックを交換しよう」っていう最高な企画があったのです。
それで、自分の大好きな本と題名が似ていた本を読んで感想を書きました。

3500字ぐらいだらだらと書いてしまって(しかも推敲したあげくもっと増えた)、にもかかわらず相手の秋山さんがくださった感想が温かくてとてもうれしくて、「読書会とかペア読書って超いい!」となりました(企画してくれた並木さん、ありがとうございます)

秋山さんのnoteはこちら。



毎月、前月末までに読んだ本をふりかえってnoteを書いている。
「今さら先月の分をあげても遅いんじゃ」と思った時期もあったけど、noteを書きながら、読んだときは思わなかったことが思い浮かんだりするので、発酵とか熟成に近いプロセスってことにした。

前月の読書量が多いと、つらつらnoteを書くにも時間がかかるし、のめりこんでいた分の反動みたいなかんじでその月の読書量が減るみたい。というわけで11月はぜんぜん読み進められていません。という長い言い訳でした。

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