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沙漠の民は飛行機乗りの夢を見るか? ––『人間の土地へ』読書感想文

社内の有志で読書感想文を一緒に書くという企画に参加した。運営メンバーが作ってくれたおすすめ本リストをなんとなしに見ていたら、ある本のタイトルが目に飛び込んできた。

『人間の土地へ』
目が引き寄せられたのは、サン=テグジュペリの『人間の土地』かと、一瞬思ったから。

『人間の土地』は数年来ずっと手元に置いて時々読み返す、私にとってはバイブルのような本。もし無人島に一冊だけ本を持っていけるとしたら、迷いなくこの本を選ぶ。

今回読んだ『人間の土地へ』は、サン=テグジュペリにオマージュを捧げつつ、舞台を現代の(人間にとってはとても過酷な)場所に移して、筆者の体験をつづったノンフィクションである。

一歩が命取りになる空間

著者の小松由佳さんはもともと登山の世界にいた人だ。
2006年に日本人女性で初めて世界第二の高峰「K2」への登頂を達成したすごい人であり、物語もその登頂の場面から始まる。

4人に一人が遭難し、過去に登頂に成功した女性6人のうち3人は下山中に命を落としている過酷な環境。ひとたびコンディションが崩れれば、人間は荒れる大地と天候になすすべもなく翻弄される。

山、とくに世界の高峰と呼ばれるような場所は必然的に死を意識することが多くはなると思うけれど、結局のところ筆者のいうように生と死の境界は私たちのすぐそばにあり、生きているのは死なずにすんでいるから、たまたま幸運が続いているからにすぎない。

この世界には運、不運とも言える大きな自然の流れがあり、私たちはその流れに生き死にを左右される不安定な存在にすぎない。

この部分を読んで、サン=テグジュペリの作品に登場する飛行機乗りたちを思い出した。彼自身パイロットであり、冒頭の『人間の土地』も、20世紀前半の航路開拓者たちの世界を主題としている。

当時の航空技術はまだ未熟で、飛行はとてもリスクの高い行為だった。パイロットによる、死と隣り合わせの冒険飛行が積み重ねられてきたことによって、長距離飛行や夜間飛行の航路が少しずつ切り開かれ、技術が改良されてきた歴史がある。

黎明期の飛行行為とK2への登頂は、だからこそ相通じるものがある。山も空も、そして筆者が山をおりてたどり着いたシリアの沙漠も、それぞれのやりかたで人間や動物を試し、ときに命をも奪う

それでも人はその場所の美しさとか、時空を超えた存在とか、未知のものに会いにいくことをやめない。なぜ命の危険を冒してまでそんなことをするんだろうと以前は思っていたけれど、もはやそれは因果律を越えて人間を突き動かす根源的な衝動、本能なのかもしれない。

どんなに念入りに準備を重ねても、無事に帰れる保証はない。それでも山の頂上をめざす登山家たちの姿は、サン=テグジュペリの作品に登場する数十年前の飛行機乗りたちに重なって見えた。その中には、最後は地中海の上空で飛行機とともに散った、サン=テグジュペリ本人もいるような気がする。

K2から無事に帰還した後、筆者はユーラシア大陸を横断する長い旅に出る。
そして、シリアで出会った人びととのかかわりを通して、そのあとの筆者の人生が大きく変わっていく。

山を降りて、沙漠へ

この本で印象的だったところはたくさんあるけれど、沙漠の情景を描く部分にはとくに心をぐっとつかまれた。

赤い太陽が沙漠に沈み、視界の全てに光が満ちる。沙漠が最も輝く時間だ。

地図上では“沙漠”とだけ示される土地。しかしそこに生きる者にとって沙漠とは、一生をかけても記憶できないほど広大で、変化に富み、多くの人間の物語が伝えられる土地なのだ。

こうした描写を読んでいると、彼女が異国で見た景色が自分の目の前にぶわーっと広がっていくような気がする。登山を通して培ったであろう、状況をただしく判断する冷静な目と、隣にいる人のぬくもりを感じとる繊細さ。その両方を兼ね備えているからこそ、鳥肌のたつようなノンフィクションが書けるのだと思う。

登山がライフワークであった筆者にとって、山をおりることは大きな変化だった。しかしその中でも「突如として起きた自分自身の変化に戸惑いながら、私は立ち止まって考えるより、歩きながら考えることにした」。

沙漠を歩いていくうちに出会ったのが、ラクダを飼って暮らしを営む、とある大家族だった。

沙漠の民

筆者は、その家族やまわりのベドウィンたちと少しずつ会話をしはじめる。のちに息子の一人と結婚することになるのだが、生活のしかたも宗教も考え方もまったく異なる文化の中で、筆者が彼らに歩みよっていく様子を丁寧に描く。

過酷な環境下でも家系を絶やさないように、沙漠の民は生き延びるための知恵を獲得してきた。

収入源はひとつだけでなく、複数あった方がよい。自分自分らの手でできる仕事は全てやり、それらを家族で担う。加えて、生きるためには状況に合わせて柔軟に変化すべきだと思っていた。

同時に、彼らは家族や友人との団欒によってうまれる「ラーハ」=ゆとりを重んじ、何より心の平安を大事にする。
一緒にお茶を飲むにしても、さっさと淹れて飲むということはせず、だらだらと準備をしたりしなかったりして、飲み始めるまでに1時間や2時間を平気で過ごすという。単なる怠け者というより、お茶を飲むまでの過程を共有するということに意味があるのだそうだ。

また、文化や習慣に大きな影響を与えているのがイスラム教の教えだ。
彼らにとって、イスラムの教えを実践することは息をすることと同じようなもので、彼らの土台そのもの。帰依することが最善の選択だと思っているから、異邦人である筆者にも、信仰に関する深遠な問いを投げたりする。

けれど彼らの信仰に対する姿勢に、おしつけがましいところはない。イスラムのそれはどこまでも神と自分との一対一の向き合い方であり、決して他人から強制されるものではない、という話が印象的だった。だから、徒党を組んで神を冒涜する者を攻撃するのは、本来のイスラム実践者ではない。

そして、そのような話はWebや本で読んでもなかなか実感がわかないけれど、実際に生身のからだで体験してきた人の言葉には重みを感じた。自分とは異なる人々の言動の裏側に、その人あるいは民族の抱えてきた問題や希望や、時には誰かを失いながら守ってきた大切なものが垣間見られることがある。筆者はその微かな印をそっと見つけて、言葉にすることにすごく心を砕いたのだろうと思った。

土地を生きるということ

平和だった沙漠での暮らしは、近年の政治的混乱により終わりを告げる。政府・反体制派・テロリストといった勢力がそれぞれに市井の人々を抑圧し、長いこと交流してきた大家族と連絡を取り合うこともままならない。入国審査官に執拗な尋問を受けてやっとのことで入国しても、街は秘密警察とテロリストと詐欺師であふれ、軍隊に入っていた恋人には会えるかどうかもわからない。

その緊迫した状況は言いようのない不安を感じさせる。爆弾が落ちてくることが日常になり、最低限の暮らしも送ることができなくなった人たちによる犯罪が頻発する。日本でも痛ましい事件や事故は毎日起こっているけれど、それがすべて自分の半径5メートル以内で起こっているようなものなのかもしれない。
情況は悪化するばかりで、やがて毎日のように無惨なやりかたで人が殺されたり、文化の痕跡をとどめる遺跡が破壊されたりする。

じゃあできるかぎり早くその地を離れたほうがいいのではとも思うが、彼らはなかなか、自らの文化を育んだ故郷から動こうとしない。それは土地に対して強い結びつきを感じていて、そこを離れることは自分を形作るものから離れること、根無し草のような存在になってしまうと考えるからだ。

それは平時でもそうで、筆者が出会った若い人たちは外に広い世界があることは知っていても、土地を離れてまで外に出ていこうとはあまりしないらしい。その感覚を、イスラム教などによるものと決めてしまうことは簡単だけど、それだけではない気がする。

もしかしたら、パイロットを空に駆り立てる衝動が、一方で沙漠の民には、しっかりその地に根を張るようにとうながすのかもしれない。

前者は飛ぶ喜びや、未知の航路を探す楽しみを。後者は自らの足で立ち、歩き、お茶をゆったり飲み、家族と語らう日々を。赤く沈む太陽を見つめながら、両者はおのおのの土地を生きている。

人間の土地

『人間の土地』と最後に「へ」がついている理由はなんだろうと読みながら思っていた。

これはあくまで想像だけども。荒廃した沙漠の街が、生きることを尊ぶあたたかい人間の手にふたたび戻ってくることを、いつか自分たちでそれを取り戻すことを、祈る筆者たちの切実な願いをあらわしているのかもしれないと思った。

下からは果てしなく続くように見える山の頂への道のりも、一歩ずつ歩き続けることで、より確実な未来となっていく。そうやって現実をたぐりよせていくことを、筆者は登山から、そして混乱に立ち向かうシリアのふつうの人々から学んでいる。

冒頭にあるサン=テグジュペリの作品からの引用は、筆者のその決意をあらわしているのだと思う。

人間に恐ろしいのは未知の事柄だけだ。
だが未知も、それに向って挑みかかる者にとってはすでに未知ではない、ことに人が未知をかくも聡明な慎重さで観察する場合なおのこと。

サン=テグジュペリ『人間の土地』(堀口大學 訳 新潮文庫)




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