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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2017年12月の記事一覧

謎めいて。不可能なものを結びあわせる

「あらゆるものは、別のものを意味するかぎりにおいてのみ真実であり、別のものを表わすかぎりにおいてそれ自身でありうる」とジョルジォ・アガンベンは『スタンツェ』において書いている。 これは唸る。 難解なので、まだ自分でもうまく説明できるほどには理解できてないけど、これはすごく面白く、例えば発明がなぜ発明なのかということの説明にもなりそうな指摘だ。 メタファーというものを想起してほしい。僕らはそれを何かを別の何かで代替する際の表現方法のように考えがちだ。けれど、アガンベンの

前提を疑おう

いまの常識は未来の非常識だ(という可能性がある)。 これほど、変化の激しい時代においてさえ、この前提に立てない人が少なくない。 例えば、結婚。 今でこそ、結婚といえば、恋愛の先にあるものと考えるのが普通でも、江戸時代においてはそうではなかった。江戸時代における結婚は、現実的実際的に生きていくために行われるものであった。 ようは、また何かの拍子で"恋愛の先に結婚があるというのが当たり前"でなくなる可能性は充分にあるというわけだ。 家族は江戸時代における生産の単位であって、

物の価値の問われ方からの問い直し

アガンベンの『スタンツェ』によれば、1925年に書いた書簡で、詩人のリルケは、「僕たちの父親の父親たちの世代にとってはまだ、家や噴水、見なれた塔、それから彼らの外套や衣服にいたるまで、このうえもなく親しみのあるものでした。なんであれしまいこめる、いわば壺のようなものだったので、そこに彼らは人間的なものを見いだし、さらに別の人間らしさを蓄えていったのです。ところが、いまやアメリカから、均一でない空虚な物がなだれこんできたのです」と書いて、物の領域で起こった変化について恐れを表明

怠惰という言葉が表す意味

言葉が何かひとつの意味を正しく言い表してると信じているとしたら、大間違いだ。 けれど、何故だか、みんな、相手と自分が同じ単語、言葉を用いていたら同じことを話していると思い込んでしまう。そして、相手と自分の認識が合っているということを、同じ言葉を用いたということだけで疑わなかったりする。 言葉が何らかの対象と1対1の関係で一致していて、それゆえに同じ言葉を使えば同じ対象について話しているのだということを、どうして無邪気に信じられるのだろうか? 何故、あなたの「正義」が、あな

不安を弄ぶスタンスをもって…

統合。 分析のように分けるのではなく合わせることで統べる。 僕らも仕事でリサーチした多数の情報を組み合わせたり比較したりフレームワークを考えたりしながら、個々の情報のみでは見えない知見を見つけだす作業を必ず行なう。 とうぜん、この統合作業の醍醐味は、普段は隠された知を、情報の重ね合わせから発見=発掘することだ。 だから、思いも寄らぬ情報同士の組み合わせから、いままで気づかなかったことに気づけると「よしっ」と思う。 アトラス:意味のマッピングけれど、以下で示す「操作

何故、内容のほうを変えようと思うの?

「わかりにくいかもしれないから内容を変えよう」 最近たびたび、こんなニュアンスの主張を聞く。その度に本当ですか?と驚きを伴う違和感を感じてしまう。 わかりにくいかもしれないから表現の仕方を工夫しようならもちろんわかる。でも、なぜ、相手に伝わるかが不安だからといって内容そのものから変更しようと考えてしまうのだろう。 その内容が良いと思ったから、それを伝えようとしたのではないだろうか。それが伝わりにくいかもしれないからという理由でどうして表現の仕方ではなく、内容そのも

瞑想の対象が欲望の対象に

ジョルジョ・アガンベンの「知の巨人」ぶりに圧倒されている。いま読んでいる『スタンツェ』における知の編集の仕方は大いに好みだ。 こういう知の扱い方は見習いたい。 フィチーノから、デューラーへ、パノフスキー、そして、フロイトへ。メランコリーがエロスと結び付けられるその流れに関心させられる。 同じ節でフィチーノは、メランコリックなエロスに固有の特徴を、転位と過剰の中に求めている。つまり彼によれば、「メランコリックなエロスは、愛をむさぼったために、瞑想の対象としてあるものを抱