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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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記事一覧

消費者と倦怠

消費者的。 僕らはただ待っているばかりで、期待するものがなかなか現れないと、それが当然の権利とばかりに不満をもらす。ウェルビーイングと言いながら自分に都合のよい良い現実をさも当たり前のように要求し、その実現にすこしでも障害になりそうなものがあればみずからは大した努力もしでもいないのにここぞとばかりに罵声を浴びせる。 いったい僕らは、どうしてこんなにもお気楽で傲慢な要求ばかりするのを当然の権利だと勘違いするようなご立派な身分になってしまったのだろう? 巣の中でピーチクパーチ

学ぶことでウェルビーイングに

昔から「教育」というものがしっくりこない。 学校というものを教育の場と捉えることに違和感がある。 というのも、僕自身が自分の人生のなかで「教えてもらう」ことに苦手意識を感じてきたからだ。教えられる形ではほとんど自分の身に知識やスキルが身についてこないように思えるからで、だから授業中もあまり先生の話は聞かずに自習をしていた。 美術や体育などの実習的な授業は、自分でやってみて、コーチング的に指導を受けられるのでそれはよかったが、講義形式の授業はまったくもって学びになるとは感じて

まちをつくる人を、つくる

たまには、本の紹介以外のことも書いてみよう。 まずはウェルビーイングなるものから話をはじめてみようか。 最近、仕事をするなかで、「ウェルビーイングな社会を実現する」といったテーマが明示的か、非明示的なかたちかを問わず据えられることが増えている。 背景には、岸田内閣で示されたデジタル田園都市国家構想で明示された地域が新しく目指す方向性もあるだろう。 デジタル庁から提示されている「デジタルから考えるデジタル田園都市国家構想」というPDF資料をみても、「デジタル田園都市国家構想

もってる知識は多いほどいい

同じものを見たり、同じ話を聞いたりしても、人によってどう認識し何を理解するかは大きく異なる。 解釈は人それぞれだというが、では、何がその解釈の違いを生んでいるのかと言えば、各自がもつ情報量・知識量の違いだろう。ありきたりの解釈ばかりが生まれてくるとしたら、そこに集まる人たちの知識の幅がきわめて常識的な範囲に狭く収まってしまっていたりするからなんだろうと思う。 解釈の違いは、価値観の違いから生じるとみることもできるが、その場合も何が価値観をつくっているのかというとどんな情報や

目的を見失った仕事

どんな場所を目指すのかがわかっていなければ、どんなコンパスや地図があろうと、目的地にたどり着くことはできない。 目指す場所がわかっていなければ、どこにたどり着こうとそこが目的地なのかが判断できないのだから。 手段ではなく目的に焦点をこんな当たり前のことは誰でも理解できるのに、なぜか目的地のことをおざなりにして、ツールや方法に固執してしまうのを目にすることは少なくない。 一言でいえば、手段が目的になってしまうということなのだが、そうなると、それが何の手段かは見えなくなり、それ

好奇心の機能不全と編集する力

唐突だけど、フランス・ブルターニュ地方への玄関にあたるレンヌの街のレンヌ美術館にある、Cabinet de curiosités(好奇心のキャビネット)という部屋が好きだ。 絵画や家具が並んだコーナーもあるが、ここに掲載した写真のような小さな彫刻や人形、化石や道具類が収められたガラス棚が趣味にあった。雑多で悪趣味な感じがなんとも良かった。パリのマレ地区にあるカルナヴァレ美術館が好きな理由とも似たところがある。 さて、このキャビネットは所謂「驚異の部屋」で、18世紀のクリス

仕事の準備と行為の7段階理論

1つ前のnoteで準備の話を書いたけど、もうひとつ書くの忘れてた。 仕事が早いか遅いかも準備次第だということを。 準備できてるから仕事が早い仕事が早い人はたいてい驚くほど前から準備をしてる。何の準備がいつ必要になるかが予測できてるから、つねに準備は万端だ。 どの準備を何時ごろまでに終わらせておかないと他の準備との関係で間に合わないかを把握できているから準備が間に合わないということはない。 準備が間に合ってるからこそ、ちゃんと仕事ができる。 準備ができていれば、その場ではあ

知ることと創造性

多かれ少なかれ仕事をするには創造性(クリエイティヴィティ)が求められる。 いや、そこまで広げるまでもなく、創造的な仕事をしたければやっぱり準備だよねと思う。それなしでそれなりのことできるなんてことないから。 その意味で、準備以外に生きる時間を何に使うの?と本気で思う。 まあ、創造そのものをする時間にも当然使うのだけど、創造の時間ってなんとなく自分で時間を使ってるというか、創造の時間に巻き込まれてるって感覚がある。 前に話題にした中動態の世界かな、と。 そうなると能動的に

発見とは即ち地平を広げることであるならば

自分が何をやりたいかわからない。 よく聞く言葉だが、この意志の不在の問題は、自分の外の事柄への理解(力)と相関しているはずだと思っている。 自分の元からの理解の枠組みでは物事の理解がうまくても、その外に、別の理解の枠組みがあることを想像することをしないと、新たな意志は生まれない。外の世界に飛び出して、自分とは異なる理解のフレームワークがあり、そこにある他者のロジックを発見しようとするところに、「これをしたい」という意志は生じるのだと思う。 それは発見への意欲であると同時

言葉と物

バーバラ・マリア・スタフォードの『実体への旅 1760年―1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』を読んでいて、ちょっと興味をそそる記述を見つけた。 こんなものだ。 ジョン・イーヴリンには『煤煙対策論』(1661)があって、英国産瀝青炭を燃した指すだらけの蜘蛛がいかに「いつも空を圧す」かを論じていた。イーヴリンに言わせれば、ロンドンはエトナ山、鍛治神ウルカヌスの仕事場、ストロンボリカザンそっくりだ。地獄というのもこんなふうなのだろう。「怖ろしい煙霧」はこうして、

前の晩の残りものは昨日と味が違うから

朝はたいてい、昨晩の夕食の残りものをおかずに済ませることが多い。 いまの時期はもちろんのこと、残りものは夕食後に冷蔵庫に入れた保管し、朝レンジで温めなおして食べる。ほとんどの場合、前の晩に食べたときと味の違いを感じる。 多くのものは、出来たてで食べたときのほうが美味しい。ホテルのバイキングの料理みたいなものだ。たぶん、あれも出来たてはもうすこし美味しいんじゃないかと思う。 なので、前の日の美味しかった記憶が強いと残念に感じることもある。 かといって、昨日全部食べちゃえば

搾取の逆転――聖フランチェスコは着物をみずから差し出した

みずからの欲を満たすために、ほかの誰かのものを奪いとる。 ブルーノ・ラトゥールは「テリトリー」の問題として、現在の環境・社会問題のありようと解決に向けての方向性を論じた著作『地球に降り立つ』で、かつて帝国主義的態度で他国を侵略したヨーロッパが、いまや逆に、移民というかたちで自分たちの土地に他国の人々が無許可に侵入される状況について、次のように書いている。 ヨーロッパにとっての現状は、潜在的移民と100年契約を結んだに等しい。私〔=ヨーロッパ〕はあなたの許しを得ずにあなたの

消えてなくなる詩のようなお金を夢見て

ケイト・ラワースの『ドーナツ経済学が世界を救う』を読んでいて、こんな一文に出くわした。 新しい経済の自画像には、世界のなかにおける人類の位置も反映されなくてはいけない。昔から西洋では、人間に自然を足もとにひれ伏させ、好きなように利用する存在として描かれてきた。「人類に自然に対する決定権を取り戻させよ。自然は神によって人間に授けられたものなのだから」と17世紀の哲学者フランシス・ベーコンは述べている。 ベーコンの言葉とされるのは、彼の『ノブム・オルガヌム』中の文章だそうだ。

縁を切るお金と縁をつくるお金

「金の切れ目が縁の切れ目」という言葉がある。 お金の関係が切れれば、それまでの関係性がなくなってしまうことを指す言葉だが、いまやビジネスの世界ではそういう関係のほうがある意味デフォルトといえるだろう。契約があるやなしやで、関係性の有無が決まってしまう。 そこに人間的なつながりがないのを嘆きたくなるような気持ちにもなるが、しかし、本来お金がつなげる関係性とはそういうものなのかもしれない。 お金が絡まなければ、関係性など生じなかったところに、関係性をつくれるというのがお金とい