マガジンのカバー画像

言葉とイメージの狭間で

343
ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
運営しているクリエイター

2018年1月の記事一覧

デザインと言語化

何かをちゃんとデザインしようとすれば、様々なことを言語化することを想像以上にはるかに多く強く求められる。 いま誰を対象として考えているのか、問題をどのように捉えているのか、何を問題の原因と捉え、どのようにそれを解決しようと考えているのか。それはいったい、どのような価値がある何をデザインしようとしているのか。 これらを言語化するのは誰か説明するためというより、自分の想像力をより明瞭にするためだ。複数人でデザインに関わっているなら、チームとしてのイメージをクリアにするためである。

絵画と演劇の重なりにルネサンスの魔術的性格を読む

絵画で描かれた光景が目の前で演じられていたらどうだろう? それは滑稽に見えるのか、それとも……。 ポール・バロルスキーは「ルネサンス期には、絵画と宮廷の祝宴の間には種々密接な繋がりがあった」と『とめどなく笑う―イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』のなかで書いている。 そして、こんな例を挙げる。 たとえば、アポロ、ムーサ、そして古今の偉大な詩人が登場するラファエッロの《パルナッソス》は、ヴァティカーノ宮殿の「署名の間」の壁上に描かれているわけだが、その位置がブラ

プライバシーと空間の変容

日常の生活のなかでの体験を今よりすこし良くしようとすることは、同時に何かこれまでの常識的な生活のあり方を変えるということでもある。この必ずしも受け入れやすくはない変化を受容しなければ、良い方向への変化も受容することはできない。 いまで言えば、仮想通貨に関することでも、モバイルでの個人間取引に関しても、はたまた音声UIに関しても、何か新しいメリットを受容しようとすれば、これまで当たり前に思ってきたことを諦めたり、捉え直したりすることは免れえない。変化はポジティブな方向にのみ起こ

スペクタクルとしてのエクスペリエンス

体験のデザインは、従来型のデザインとは相性があまり良くないのかもしれない。 従来の特定のもの(物理的なものであれ、ヴァーチュアルなものであれ)を対象にしたデザインは、ものの静的な性質(機能的には動作はしても生物のような生長という変化がないという意味での静的)を前提としていたのに対し、体験を対象にしたUXのデザインは元来、あちこち動きまわり、突然思いついたり、あるいは忘れたりで行動や思考、さらには好みや価値の優先順位がころころ目まぐるしく変わる人間の体験価値という動的すぎるも

まがいの光に照らされて

極端にすれば、わかりやすくはなる。 でも、それはぎらぎらと誇張されたものにもなりやすい。 中世末期の文化は、まさしく、この視覚のうちにとらえられるべき文化なのである。理想の形態に飾られた貴族主義の生活、生活を照らす騎士道ロマンティシズムの人工照明、円卓の騎士の物語のよそおいに姿を変えた世界。生の様式と現実とのあいだの緊張は、異常にはげしい。光はまがいで、ぎらぎらする。 『中世の秋』でホイジンガが描くフランスやネーデルラントを中心とした北方ヨーロッパの風景は、すべてがあ

空間感覚とUX

『空間の文化史』でスティーヴン・カーンが使っている「積極的消極空間」という概念が面白い。 美術評論家は、絵の主要な題材を積極空間、その背景を消極空間と呼ぶ。「積極的消極空間」という意味は、背景自体がひとつの積極的要素であり、どの部分と比べても同じ重要性をもっているということである。 こんな意味でカーンは、背景としての空間の価値をあらためてフォーカスしているのだけれど、この感覚は所謂UXというものを考える上でも大事な感覚だと思う。 空間の些細な違いとそれがUXに与える

見えていないものを計画する

計画として描きだすべきものは、見えていない事柄だと思う。 実行にあたって、まだ見えておらず、そのため、実行に支障が出そうなところはないかと考え、その見えてなかった部分の絵を描いてみる。それが実行のための計画に必要なことだと思う。 わかっていることを計画しても仕方がない。わかっているなら、それはもう計画済みだと言ってもいいくらい。言い換えれば、わかるということが計画だ。 まあ、わかっていると思っても、他の選択肢はないか探ってみるくらいはしてみてもいい。つまり、この時点の「わか

恋愛術ですべてを理解する

「中世の心理学によれば、愛とは本質的に妄想的な過程であり、人間の内奥に映し出された似像をめぐるたえまない激情へと、想像力と記憶を巻きこむ」とジョルジュ・アガンベンは『スタンツェ』で書いている。 中世の騎士道物語で騎士たちは、手の届かぬ貴婦人たちに愛を捧げて闘いに赴く。その姿は当の貴婦人たちを愛するというより、自分の心に映った貴婦人たちのイメージを愛しているように見える。時には泉の表面や鏡にその姿を投影して貴婦人たちのことを思ったりもするが、とうぜん、実際に映っているのは自分

発見の方法としての結合術

何か、まだ見ぬものを見つけるためには、どうすればいいのだろう? 答えること自体は比較的簡単だ。 普段、見ていない場所、領域に興味を持ってみればいい。同じものを見るのにも普段と違う見方をすればいい。 けれど、言うが易し。実際にその行動をとるのをむずかしい。個人差もあって、やらない人はほんとにやらない。理由は何かわからないが、とにかく自分が慣れ親しんだ居心地のよい場所を離れず、知っていることにしか関心をもたない割に「何か新しい発見がないか」と口にする。残念だ。 見ていない場所

情報の行間を読んで発想力を高める

KJ法がちゃんとできる人って少ないよね、という話になった。 川喜田二郎さんの『発想法』って50年も前に書かれた本なのに、すごいことが書かれているよねという話の流れのなかで。 実際、KJ法といいつつ、多くの場合、ただの分類で終わってしまっているのではないかと思う。その分類さえ、まともな意味をなさない分類になることだってある。そもそも作業を進めていくなかで、すこしも思考が展開されていかない。いや、情報をどう扱っていいかが分からず、グルーピングしたり標識をつけたりする作業がままな

組み立てる-創造的思考のための基本的振る舞い

創造するためには、どのような振る舞いをみずからの思考に(あるいはチームのそれに)促せばいいのだろうか? 創造といっても、別に大それたレベルのものについて言ってるのではない。せいぜい日常的に何かをつくりだすことをイメージしている。 かといって、いわゆる思いつきみたいなものまで、ここでいう創造性の範囲に加えるかというと、それも違う。 何かしら複数の要素の入れ替えたり組み合わせたりしながらの試行錯誤や、論理的に構造化したり、あるいは簡単に作ってみるというレベルのプロトタイピングを

自然の秘密から大衆の知識へ

いわゆる「驚異の部屋」と呼ばれる、15世紀から18世紀にかけてのヨーロッパで流行した様々な珍品奇物を集めた博物陳列室に昔から興味がある。 だから、現在、Bunkamuraザ・ミュージアムで開催されている「ルドルフ2世の驚異の世界展」も観に行ってきた。 16世紀後半のプラハの宮廷には芸術や工芸の作品、天文学の道具や植物、動物などの自然科学にまつわるものなどが幅広く集められていた。その一部が公開された展示である。有名なアルチンボルドによるルドルフ2世の肖像画も出展されている。

しみとデザイン

創造性はどこからやってくるのか? レオナルドのよく知られた「才能を刺激してさまざまな試みを引き出す」ための方法とは、壁についたしみや組み合わされた石などを眺め、そこにさまざまな風景、戦闘、あるいは人体や「ありとあらゆるもの」を読みとるというものだった。 これはトマス・D・カウスマンの『綺想の帝国』からの引用。 このレオナルドとは、もちろん、あのレオナルド、そう、ダ・ヴィンチのこと。 引用中にある「試み」というキーワード、原語ではインヴェンションで、発明という意味もあ