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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2018年8月の記事一覧

頭脳というちっぽけな屋根裏部屋で

本をよく買うのはいつものことだけど、最近はちょっと買いすぎだ。 昨日届いたのは、このあたり。 『江戸川乱歩傑作選』 『バビロンの架空園』澁澤龍彦 『椿説泰西浪漫派文学談義』由良君美 『探偵小説の室内』柏木博 『都市の解剖学』小澤京子 『ラインズ』ティム・インゴルド の6冊。 でも、その前に先週もこれだけ買っている。 『文学論(上・下)』夏目漱石 『殺す・集める・読む』高山宏 『マニエリスムのアメリカ』八木敏雄 『メイキング』ティム・インゴルド の5冊を。 このリスト中

マジック・ランタン

誰にどのように情報を伝えるか? インターネット以前、いや、さらにそれ以前のテレビも電話もない18世紀には、それは今とは異なる問題だった。 とはいえ、印刷術はとうに普及していて、出版された書籍の流通はもとより、新聞や雑誌も17世紀には登場していた。だから、テキストや版画のような絵によりある程度の範囲である程度の速さで情報を伝達するテクノロジーも、社会的仕組みもすでに生まれていた。 そんな時代、フランスにおける通信を担っていたエドメ・ギヨーなる人物もまた情報の伝達と、それに伴

話の構造を読む

誰かが話をしているときの言葉を聞くとき、表面的に話されている意味や用いられる言葉の表現よりも、その言葉の構造を聞いているんだと思う、僕は。 話してる相手がちゃんと構造をまとめた上で話してるなら、そのまま聞いたりもするけれど、多かれ少なかれ、話言葉の構造は乱れてるか(僕だって乱れる)、ないに等しい状態なので(僕だってないときがある)、相手の話を頭のなかで構造化しながら聞いてたりする。 だからなのだろう。 相手の話自体にある矛盾にもわりとすぐ気付くし、考えたりてない部分がどこか

関係ないものから結果は生じる

関係ありそうなものばかり、周りに集めても期待する結果は得られない。むしろ、それいるの?と思えるものにも手を出しておいた方が結果はついてくる。 無駄なくきれいに整理しすぎてしまった環境からは残念ながら大したものは生まれてこない。ほとんどの場合、何かを生む環境というものを機能主義一辺倒で考えがちだが、その機能を真に機能させるためには一見無駄と思えるものをそこに配置しておかないと、機能を動く前提がその場で成り立たないのだ。ようは、多くの人が何故、事が生じるのか?を見えてる図の部分

暗号めいた言葉が群れを成す

話が合う人同士には仲間意識が生まれやすく、それゆえにまた、自分たちとは違う人たちを仲間ではない人として、時に敵視して仲間うちで揶揄したりしてしまうこともある。 その際、言葉の使い方の違いなどをネタに揶揄したりすることが案外多いのではないか。あの人は話がわからないとか、あの人たちの使うバズワードには意味がないだとか。リテラシーが低いなんて言ったりすることもあるだろう。また、価値観の違いを言っているようで、実は根本的には言葉の用い方の違いであることは少なくない。どうやら僕らは自

文化を変える会話が行われる場

文化が大きく変わろうとする際には、会話の場が求められるのだろうか。もちろん、場といって物理的な空間だけ用意すれば、そこに変化をもたらすような会話が生じるわけではない。物理的な空間は必要条件ではあっても十分条件ではなく、では、十分条件とは何かといえば「新しい会話」そのものだろう。新しく会話されるべき話題があってこその変化である。場や形式からはじめようとしても、なかなか変化は起こらない。各自、新しい会話を用意するように。 あの17世紀後半もやはり、そういう会話の場が必要だったの

羊の血を輸血する

気づいたらフォロワー10000人超え。 みなさん、こんな自由なnoteをフォローしていただき、ありがとうごさいます。「スキ」をいただけるのも励みになり、ついつい書いてしまいます。 さて、夏休み。雨の乗鞍高原。 前に来たときもそうだったが、ここに来ると雨が降る。 というわけもあって、M・H・ニコルソンの『ピープスの日記と新科学』を読んでいる。後に、ロンドン王立協会の会長も務めた、17世紀のイギリスの官僚サミュエル・ピープスが1660年から1669年の間、書き残した日記を紐解

想像力の乏しさ

「我々の情に触れようと思えば、想像力に照らして本当というものより、物としてリアルなものこそが必要なのである」。 これは19世紀イギリスの演劇督視官ウィリアム・ボダム・ダンなる人物の当時の演劇のあり方を評した言葉の一部。 ダン督視官は「我々の祖先が心眼を以て見ていた幻が、我々には可触のかたちに具体化しているのでなければならない。全てが心にではなく目に触れるものでなければならない」と嘆いているが、なるほど、1851年のロンドン万国博覧会を1つの象徴的な出来事としてその後展開して

発明の方法の発明

「誰しもほっとしたことだが、2つの文化をめぐる論争がやっとしずまった」。 20世紀が誇るアメリカの文化史家ワイリー・サイファーの名著『文学とテクノロジー』はそうはじまる。僕がいままで読んだ本のなかで10本の指におさまる、読んでよかったと思える1冊だ。 あの高山宏さんが「先哲サイファーの『文学とテクノロジー』が全く読まれていないのにほとんど絶望して、最近とにかく復刊企画を通した」と書いて絶賛するその1冊を、僕はその復刊の恩恵をあずかって読めたわけである。 さて、冒頭紹介した

ボール紙の仮面の背後から

わかるためのたった1つの方法。 それは、わかるまでちゃんと、わかろうとすることをあきらめずに、自分でわかるための思考作業を続けることだと思う。 自分自身でわかるようになるしかない。 このシンプルな真実を忘れずに、わかるための思考努力を放棄せずにいられるかということでしかない。 何か外から答えのようなものを持ってきて、それでなんとなくわかった気になることばかり続けていればいるほど、わかる方法から遠ざかるだろう。 わかるための自分自身での思考努力の方法とは結局、 「情報を