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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2019年6月の記事一覧

こうしたらああなる思考

フランス南部のモンペリエ近郊のガラルグルモンテュ村で、気温が45.9℃に達し、フランス史上最高気温の記録を更新したという。 まだ6月である。一方、僕がGWに行ったパリでは雹が降るくらい寒かった。 5月に雹、6月に40度越えの猛暑。もはや季節とは何かわからない。 毎年異常ともいえる猛暑が続くのはヨーロッパだけでなく、ここ数年の日本も含め、世界的な現象だ。もはや異常気象というより、温暖化がデフォルトである。しかも、単にデフォルトになったというよりも、どんどん進んでいる。 人間

本が読めない

アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』を読みはじめた。 最近、シャルル・ペギーの『クリオ』やら、美術史家アンリ・フォシヨンについて書かれた本など、19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランスで活躍した著作家のものに触れている。特にそうしようと思っているわけではないのだけれど、手に取るものがたまたまそうなっている。 この『物質と記憶』も同じく1896年に書かれている。 1914年頃書かれたとされるペギーの『クリオ』や、フォシヨンの『かたちの生命』が1934年の発行だったりするの

決定論に身を委ねるな、創造的であろうとするなら

創造的であろうとすることとは、もちろん、すべてがゼロの状態から自分の内からの生成力によって生じることを意味しない。 むしろ、ゼロからの創造なんてものは、所詮、人間には無理な話(いや、人間以外にとってもそうなはずだ)。創造とはむしろ、ゼロスタートではなく、すでに外的な環境から与えられたものもうまく利用しながら、ただ、これまでは存在しなかった組み合わせとしての新たなものを創り出す活動なのだと思う。 外的な環境からの影響外的な環境からの影響を受けつつ、創造を行うといって、それは

知識人というカテゴリの誕生

固定した形態にとらわれず、変化を見てそれをベースに思考を組み立てることが大事だと思う。世の中の動きを捉えて、その中でまともな思考をしようとすれば、「生成」という視点をしっかり持つことが必要だと思うからだ。 なぜなら時間は、その本質において生成であり、歴史とは「可塑的な持続」、すなわち変化だからである。 こう書くのは、『アンリ・フォシヨンと未完の美術史:かたち・生命・歴史』の阿部成樹さん。 「時の尺度を生きた歴史の推移そのものと混同して」しまう人間の思考のクセを指摘し、

見えるのではない、見えるようにするのだ

視野の広さって大事だと最近は繰り返し思う。 見えてないものは考えられないし、見えてないものには感情を動かされもしない。実際には、起こっている出来事でも見えてなければ、心配にもならないし、どうにかしなければとも思わないし、何か行動を起こそうとも思わない。 ようは視野が狭いと、行動や思考がかなり制限されているということだ。 危機も、チャンスも、目に入ってこなければ、何をしていいかもわからないし、そもそも何かしなくてはいけないと感じることもない。 視野が狭いと、冒険にも向かな

保守的であるということは……

先送り。いや、変わらぬことへの希求だろうか? 今日という、あまりに貧しい1日が、明日という、同じく貧しい1日に訴える。今日という日を含む、あまりに悲惨な1年が、今回かぎりの1年が、今現在の、あまりにも虚弱な1年が、明日という日を含む、同じく悲惨な1年に訴える。現在の悲惨が未来の悲惨に訴える。そして現在の虚弱が未来の虚弱に訴える。そして現在の謙遜が未来の謙遜に訴える。そして現在の人間的特性が未来の人間的特性に訴える。この考え方を、どうして否定することができるかしら。