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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2019年8月の記事一覧

周囲への気配り(=外部へリソースを配分する)

僕が働くロフトワークという会社には、半期に一度、他の人に自分の良いところを褒めてもらう360°レビューという仕組みがある。 一度に3人から5人程度、レビュアーを指名し、指名された側は相手の良い点をちゃんと言語化して伝えてあげるというものだ。 他人への好評価を言葉にする楽しさいつもいっしょに仕事をしていてもなかなか日常的には言語化しないようなところにまで言及してもらえることが多いので、レビューしてもらった側はとにかくうれしくなる、がんばってきてよかったという気持ちになりやす

質より量

質より量を重視すること。 それはブレストやワークショップなどでのアイデア出しの際のお作法としても言われるし、プロトタイピングを通じてユーザーニーズの有無やサービスの方向性等の仮説検証を行う場合においても基本となる方針だ。 細菌はいきなり人間に進化しない共通する考えは、複数の多様な人々が絡んでの価値創造的な場面においては、質の高いアウトプットをいきなり一発で出すことを狙うより、多様な方向性や視点をもった考え方をとにかく量を出してみて共有したり、テストしたりすることの繰り返し

思いがけない出会いを呼びこむ

ひそかに取り組んでいたこと、別々に手がけていたことが何かのきっかけにつながって、より面白い展開が新たに見えてくることがたまにある。 そういうときは「おおっ」と思って、本当に興奮する。 念じれば通じるというのを信じているわけではないが、何か仕掛けておくと、そこに何かが引っかかってきて、新たな展開が生まれるチャンスが得られやすいということは信じている。 僕自身の経験からいうと、特に、あまり人が手をつけてない領域で、たぶんこれから見込みがありそうなと予感がしたら手をつけておいた

不在者の影

夏休みの旅行で山形に来ている。 今日は台風の影響もありつつも、酒田市を観光した。 訪れた場所の1つである本田美術館は、戦後の農地解放まで日本最大の地主と呼ばれた本田氏の別荘を元にしたものだ。 4代当主である本間光道が1813年に建造した清遠閣という建物が残っている。 壁に映る鶯の影その建物の2階に上がる階段の欄間にこんな梅の彫刻がある。 白い壁に映った彫刻の影を見てほしい。 鶯らしい影が映っているのがわかるだろうか? 梅に鶯、まあ題材としてはよくある。 しかし、もう

したいこと

仕事をうまくやる、早く効率よくやるための1番の方法は、したいことをしたいようにやるようにすることだと思う。 仕事がなかなか思うように進まなかったり、仕事からストレスを受けがちな人は、自分がしたいと思うことをちゃんとしたいようにするためにはどうすればいいかを考えないまま、仕事をはじめてしまっているのではないか?と思う。 したいこと、イメージできてる?したいことをするためには、何がしたいかがわかっていないと始まらない。 当然のことを書いてるようだけど、何がしたいかをわかるの

忘れ物と前方不注意

時間が不当に冷たくあしらわれてる。 最近ずっと考え、そのためにいろいろ調べてたりする。 それで、ふと思ったのは、みんな、時間のことをあまりに気にしなさすぎだから過去を忘れすぎてしまうし、未来を想像することが苦手なんだなということ。 つまり、こと時間に関しては、忘れ物と前方不注意が多発していると。 追悼と未来創造追悼が日常的に必要だと考えたのは、きっとそんなことを感じたからだ。 あまりに過去の時間忘れられてしまっているし、だからこそ、未来に対する想像も疎かになってしまっ

追悼のある日常

昨日ボルタンスキー展を観たあと、考えた。 僕らの日常にももうすこし、ああした死を追悼するような時間や空間があっても良いのではないだろうか、と。 現代の社会、特に日本の環境からはあまりに死が日常空間から排除されすぎている。死と隣り合わせになることではじめて湧いてくる感情もあるだろうに、現代に生きる僕らはその行き場を失っているようだ。とうぜん、行き場の失った感情はどこかでくすぶって、それが気づかぬうちに僕らを害していることだろう。 そうした日常を過ごしているからこそ、ボルタ

クリスチャン・ボルタンスキー回顧展 Lifetime @国立新美術館

この感じ、知ってる。 国立新美術館で開催中のクリスチャン・ボルタンスキー回顧展「Lifetime」の展示でのメイン一室ともいえる撮影不可の大きな展示空間での作品を観ながら、そう感じた。 それはフランスの大聖堂の地下にあるクリプトの雰囲気そっくりだった。 地下礼拝堂でもあり、地下墓所でもあるクリプト。あのすこし恐怖感を感じるクリプト内部に入ったときの雰囲気に、ボルタンスキーのメイン展示空間の雰囲気はそっくりだと感じた。 そこは死体なき死のイメージの安置所だった。 死体な

再物質化するイメージと動きだす世界

物事を変化で捉えることが大事だ。 そのことをここ最近はいろんな書き方で繰り返し書いてきているだけのような気がする。 こうまでして、何度もそのことについて書こうと思うのは、逆に世の中のものの見方が静的、固定的な見方に偏重しているように感じてならないからだ。 単純なことでいえば、想像力がない。 いま目の前にあることしか考えの対象にできず、次に何が起こるからとか、自分がそこに存在することやこれから行なうことで何が変化するかを想像して、いろんな判断ができないし、思考ができない。

記憶と妄想と性愛と

昨日、会社の同僚と話していて、「怠惰について書いてあったnoteが面白かった」と言われたのだが、その場では「え、そんなこと書いたっけ?」とまったく思い出せなかった。 けれど、おかしなものでその同僚と別れて帰宅する途中、ひとりで歩いていると何のきっかけもなくふと、「あ、そうか、ジョルジョ・アガンベンの本でそういう話を読んで書いた気がする」と思って、家に着いて調べてみると、確かにあった。 これ。 あんなにさっぱり記憶になかったものが、一度、思い出しはじめると、アガンベンの『

肖像に話しかけて

不在の者の代理としてのメディア。 ハンス・ベルティンクは『イメージ人類学』で、死者の代理として、その人のイメージを再現する太古のメディアの意味について書いている。 メディアには、死者崇拝という太古の範型が存在する。死者は失った身体を像と交換し、生者たちのあいだにとどまる。このような交換によって実現される死者の現前はただ像においてのみ可能であり、イメージ・メディアは死とイメージとの象徴的交換を遂行する生者たちの身体に対して存在していたばかりでなく、同時に死者たちの身体の

人工補装具(プロテーゼ)

もっともっと、ちゃんと常識にとらわれず、知識や言語やさまざまなイメージなどの人間的な錯覚を強いるものに惑わされることなく、現実を、現在を生きていたいと思う。 それは正しい答えを見つけるということではなく、答えという静的なまやかしに安住してしまう罠を免れて、常に自らが何に捕らえられているのかを反省しつつ、そのヴェールの奥にあるものを探求し変わり続ける姿勢ではないかと思う。 まわりはひとつも悪くない。 いつでも間違いは自分の側にあり、自分の未熟さに原因があるのだから。 現在見

共創とわかりあい

共創という形で、多様な人々といっしょに何かを進めようと思えば、互いにわかりあうことが大事なんじゃないだろうか? 他の何をおいといても、互いにわかりあうことを大事にしていれば、そうそう困ったことは起こらないし、仕事を進める上での一体感や信頼感が醸成される。 逆に、わかりあうことを誰かがさぼりはじめた時から問題の火種はくすぶりはじめるし、チーム全体が不信感に包まれたりする。 わかりあうことにかかる労力より、一度燃え上がった火を消す労力のほうや不信感を拭う労力のほうが圧倒的に