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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2020年4月の記事一覧

リテラシー強化週間

コロナウィルス禍によって、社会における活動の場が否応なくリアルな場からオンラインの場に重心がシフトしている。 身体や物理的空間が活動を支えるのに果たす役割が少なくなって一方で、代りに創作されたもの、表現されたものが活動を支えなくてはならなくなっているのだと思う。 たとえば、オンラインでのミーティングやブレインストーミングの場においても、これまでのようにただダラダラと喋っても生産性は上がらなくなっていて(まあ、普通の会議はリアルであっても生産性は低かったというのは置いておいて

アバターとしての創作物

まったくオフィスに行かなくなって2週間。 はじめのうちは慣れずにストレスもあったけど、いまは毎日いつもより1時間半ほど仕事をはじめて、その分はやく仕事を終え、そのあと食事をつくるのが楽しみになっているので、ストレスはゼロ。 結局、どんな環境になってもその環境の特性にあわせて、自分で自分の居心地のよい暮らしのスタイルをつくれれば不満は生まれないはずだ。 もちろん、合わせられる余地がまだその人自身に残っていればの話だけど。 でも、余地があっても、誰かを頼りにしててはこうはなら

考える人、詩人

2015年に亡くなったポーランド生まれの美術史家、ペーター・シュプリンガーの『アルス・ロンガ − 美術家たちの記憶の戦略』を読んでいる。 またしても、パトスフォルメル的なイメージの反復の例がみられて面白い。 どうやら、僕はこういう話が相当好物らしい。 1つ前で紹介したカルロ・ギンズブルグの『政治的イコノグラフィーについて』でもそうなのだけど、歴史上、時代を越えて類似のイメージが意味を変えながら繰り返し浮かび上がってくることがある。 アビ・ヴァールブルクはそれをパトスフォルメ

非同期型社会と再生可能性

イノベーションはいずこへ? あっという間に、人間が生きる環境が一変し、あらゆるものが機能不全になってしまった。 もちろん、この機能不全によって生じた、今日明日の生活がままならない人や企業に対する補償は急務であることに間違いない。 だが、一方、今日明日の生活や事業推進という意味ではそこまで壊滅的でない人たちだっている。 そうした人たちにとっては1番の課題は補償を得ることではないだろう。この環境での自分たちの生活や事業の持続性を確保するために、どのような抜本的な変革を行うかと

同期型と非同期型

何週間か前から週に2日か3日のテレワークを行ってはいたけれど、今週は月曜日を最後に自宅での仕事が基本となった。 すでにテレワークを始めていたこともあって、家で仕事をすること自体は慣れてきた。 けれど、今週は会社のほぼ全員がことで、オフィスではなく、インターネット空間がバーチュアルなオフィス空間となったことで、逆に忙しさが増した。 Zoomでのミーティングに、Slackでのやり取りが相手が見えないが、ゆえに遠慮なく入ってくる。そして、よりテレワークでの共同作業をスムーズにする

わたしたちは各方面からわたしたちのところにやってくるさまざまなニュースの間断なき喧騒から身を引き離すよう努めなければならない

久しぶりにテレビのニュースを見ていて、唖然とした。 緊急事態宣言の発効を伝える内容なのだけど、中身がほとんどない。いろんなものが削られてまさに換骨奪胎。まったくコミュニケーションになっていなかった。 アナウンサーの喋っている言葉も、映像や音声の切り取られ方も、テロップなどで出される文字情エッセイ報も、このたくさんの命に関わる状況を改善するために、それを見ている人が正しい判断をし行動をとるための一助となるような有益な情報を何も伝えていないように感じた。 いや、何も伝えていな

世界は頭のなかに

「目に見えないほどの一本の糸でいかに自然がぼくをつないでいる」。 エルネスト・グラッシの『形象の力』の冒頭に置かれた、上の言葉で終わる文章が僕は好きで、ときおり思いだす。 もうすこし長く引くとこういう流れのなかに上の一文はある。 人間であるぼくは火によって原生林の不気味さを破壊し、人間の場所を作り出すが、それは人間の実現した超越を享け合うゆえに、根源的に神聖な場所となる。これをぼくに許したのは、自然自身であり、ぼくは精神の、知の奇蹟の前に佇んでいるのだ。自然がぼくを欺瞞的