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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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2020年12月の記事一覧

2020年の終わりに

「経済を回す」ことより「生活を回す」ことだし、 「持続可能な開発」ではなく「持続可能な生態系」を目指すことだろう。 世界的にコロナ禍に見舞われた2020年。経済や開発といった手段の継続性にフォーカスするのではなく、ほかのものには変えられない目的であるはずの生活や生命と健康をこれからも無事に維持していけることを視野に入れるべきだということを、あらためて考えさせられた年ではなかったか。 経済の成長なくとも、これ以上の開発がなくても維持できる、生活の形、命と健康の尊重の仕方を模

すべっていく言葉

すべっていく。 意味のわからない言葉が、中身をともなわないキーワードが、右から左へ、つるつる、つるつるとすべっていく。すべり落ちていく。 どこにもひっかかることなく、現れては消えていく。 あっちからこっちへ、ただ意味もなく移動するだけ。 何ももたらさずに、それに費やされる時間だけが浪費される。 言葉が何も生みだすこともなく、次々にすべっていく。 意味をもたない言葉の集合によって、自分も含めたまわりのみんなの活動の目的を示した文章を構成していたとしても不思議にも思わなかった

図式的な理解を超えて

奇異で複雑なもの、不気味でおさまりの悪いものを、わかりやすく整えて簡単に理解してしまうことなく、見えないものも含めてありのままに受け止めていたいと思う。 それは決して知ろうとしないとか、理解しようとしないとかとか違う。 知ろうとすることや理解することとはまた別のところで、その存在のありようを変化させ続けているものの感じを持ち続けることだといおうか。あるいはその不可視の予感のようなものから目を逸らさないようにすることか。 不定形の言語や図式化といった人工的なツールの狭く形式

理想ではなく現実の素材を組み立てる

仕事であたふたせずに結果を出す。 あたふたしてしまうのは、多分に現実に向き合って臨機応変に行動しようとするのではなく、自分のなかでどうすればいいだろうかとばかり考えてしまうからだったりしないだろうか。 結果というのは外に出すものだ。 だから、自分の内でばかりあたふた慌てても仕方ない。 慌ててしまいそうになるときこそ、自分の外の現実に向きあわないと。 冷蔵庫には何が残っているかいま、この場で何が求められているのか? それを実現するにはいま目の前に提示されているこの素材を使

言葉とイメージのあいだの……

ヴァールブルクはすでに1902年、自分の「源泉」探しが、芸術作品をテクストによって説明することをめざすのではなく、むしろ「言葉とイメージのあいだの[人類学的]共本質性ないし本質的共属性の関連を再構築すること」をめざしているのだと記していた。 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』より。 この「言葉とイメージの狭間で」と題したマガジンの源泉を僕は紛れもなくヴァールブルクに負っている。 そのヴァールブルクにおい

形態(する)

形態(form)というものを静的なものとしてではなく、動的な、まさに可塑性をあらわす動詞として捉えること。 そこに芸術の可能性を感じとった人が歴史のなかには何度かあらわれていることに僕は興味をもっている。 たとえば、美術史家のアビ・ヴァールブルクもその1人だろう。 彼は、美術史(いや、正確にはイメージの歴史だろう)を通常のように、作られた芸術作品とその制作者である芸術家たちの静的かつ線的な歴史としては見なかった。彼がみていた歴史は、もっとアナクロニズムなもので、力のうごめ

正義の固定が正しさを奪う

ヨーロッパにおける移民の問題を取り扱って話題になった本、ダグラス・マレーの『西洋の自死』を読みながら、差別を避けるために多様性を肯定しようとする姿勢そのものがまた別の差別を生んでしまうというむずかしさを目の前にして、考えさせられている。 多様性がまた別の差別を生むというのは、たとえば、こんな例だ。 英国に住むシク教徒と白人の労働者階級の間で何年も語られてきた噂話に、ついにメディアの取材が入ったのは2000年代前半のことだった。それにより、イングランド北部一帯の町で北アフリ