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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#芸術

図式的な理解を超えて

奇異で複雑なもの、不気味でおさまりの悪いものを、わかりやすく整えて簡単に理解してしまうことなく、見えないものも含めてありのままに受け止めていたいと思う。 それは決して知ろうとしないとか、理解しようとしないとかとか違う。 知ろうとすることや理解することとはまた別のところで、その存在のありようを変化させ続けているものの感じを持ち続けることだといおうか。あるいはその不可視の予感のようなものから目を逸らさないようにすることか。 不定形の言語や図式化といった人工的なツールの狭く形式

言葉とイメージのあいだの……

ヴァールブルクはすでに1902年、自分の「源泉」探しが、芸術作品をテクストによって説明することをめざすのではなく、むしろ「言葉とイメージのあいだの[人類学的]共本質性ないし本質的共属性の関連を再構築すること」をめざしているのだと記していた。 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』より。 この「言葉とイメージの狭間で」と題したマガジンの源泉を僕は紛れもなくヴァールブルクに負っている。 そのヴァールブルクにおい

形態(する)

形態(form)というものを静的なものとしてではなく、動的な、まさに可塑性をあらわす動詞として捉えること。 そこに芸術の可能性を感じとった人が歴史のなかには何度かあらわれていることに僕は興味をもっている。 たとえば、美術史家のアビ・ヴァールブルクもその1人だろう。 彼は、美術史(いや、正確にはイメージの歴史だろう)を通常のように、作られた芸術作品とその制作者である芸術家たちの静的かつ線的な歴史としては見なかった。彼がみていた歴史は、もっとアナクロニズムなもので、力のうごめ

吝嗇(りんしょく)とデザイン

吝嗇。「りんしょく」と読む。 意味は「極端に物惜しみすること」。つまり「ケチ」。 節約が度を越すと吝嗇となる。 1つ前で紹介したデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』。 実は、そこですこし書き足りなかったこともあって、それが吝嗇あるいは節約の問題である。 でも、グレーバーの話に入る前に、すこし遠回り。 グレーバーのいう節約とは真逆の位置にある芸術について、すこし書いてみたい。 浪費の一様式としての芸術「芸術とは浪費の一様式であり、なにものかをその功利的価値のた

ロンドン・ナショナル・ギャラリー展@国立西洋美術館

ようやく美術展に行けた。 上野の国立西洋美術館で開催中の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」を観にいった。 ほんとにひさしぶりな気がした。最後に観たのが、今年の1月に行った「ハマスホイとデンマーク絵画」展だから半年以上経つ。 いつもなら、ゴールデンウィーク中にいくつかヨーロッパの美術館をまわっていたはずだ。今年はウィーンとプラハに行く予定でいた。それもなく、半年以上、実際に美術作品に触れることなく過ごした。美術作品を観ることへの恋しさはずっとあった。 この美術展自体も、

アバターとしての創作物

まったくオフィスに行かなくなって2週間。 はじめのうちは慣れずにストレスもあったけど、いまは毎日いつもより1時間半ほど仕事をはじめて、その分はやく仕事を終え、そのあと食事をつくるのが楽しみになっているので、ストレスはゼロ。 結局、どんな環境になってもその環境の特性にあわせて、自分で自分の居心地のよい暮らしのスタイルをつくれれば不満は生まれないはずだ。 もちろん、合わせられる余地がまだその人自身に残っていればの話だけど。 でも、余地があっても、誰かを頼りにしててはこうはなら

考える人、詩人

2015年に亡くなったポーランド生まれの美術史家、ペーター・シュプリンガーの『アルス・ロンガ − 美術家たちの記憶の戦略』を読んでいる。 またしても、パトスフォルメル的なイメージの反復の例がみられて面白い。 どうやら、僕はこういう話が相当好物らしい。 1つ前で紹介したカルロ・ギンズブルグの『政治的イコノグラフィーについて』でもそうなのだけど、歴史上、時代を越えて類似のイメージが意味を変えながら繰り返し浮かび上がってくることがある。 アビ・ヴァールブルクはそれをパトスフォルメ

経営とデザイン

ありもしないものに期待したり、不満を言ったり。 存在しないブラックボックス的な機能を勝手に仮定して、そこに自分たちの責任を転嫁する思考停止の状態を見かける頻度が増えている。 責任転嫁の対象は、存在はするがその責任を必ずしも担っていない相手だったり、あればよいがそんなもの存在するわけがない架空の存在だったりする。 よくある「隣の芝生は青い」的なものも同じだ。 目の前の問題の解決をまずは自分で引き受けようとするよりも、架空の責任主体を仮想して、そこに期待したり不満をぶち撒けた

ハマスホイとデンマーク絵画@東京都美術館

油彩画という視覚表現の可能性が、こんなにもあるんだというのは驚きだった。覗きこむとそのまま目が離せなくなる圧巻のヴィジュアルに至福の時間を過ごさせてもらった。 東京都美術館で今週はじまったばかりの「ハマスホイとデンマーク絵画」展。 展覧会の中心となるヴィルヘルム・ハマスホイは19世紀末から20世紀初頭にかけてのデンマークの画家。今回まで名前も知らなかった画家だが、なんとなく気になって観に行った。それでも本当に来て良かったとつくづく思えるほど、素晴らしかった。観ながら興奮する

没後90年記念 岸田劉生展@東京ステーションギャラリー

学び、自己鍛錬に関しては、昔の人にはかなわない。 それにくらべれば、今の僕らの学びに対する姿勢など、ないにも等しいと自己嫌悪的に思えるくらい、たとえば、明治期を生きた人たちの当時の学びへの姿勢をみるとその覚悟と実際の学びの結果の強さを感じる。 これは本当にもうずっと前から事あるごとに感じていたことで、だからこそ、なんとかすこしでもそれに近づこうと学びは怠らないようには日々過ごしているつもりだ。 だが、それが「つもりでしかないかも」と思えたのは、昨日も東京ステーションギャ

不在者の影

夏休みの旅行で山形に来ている。 今日は台風の影響もありつつも、酒田市を観光した。 訪れた場所の1つである本田美術館は、戦後の農地解放まで日本最大の地主と呼ばれた本田氏の別荘を元にしたものだ。 4代当主である本間光道が1813年に建造した清遠閣という建物が残っている。 壁に映る鶯の影その建物の2階に上がる階段の欄間にこんな梅の彫刻がある。 白い壁に映った彫刻の影を見てほしい。 鶯らしい影が映っているのがわかるだろうか? 梅に鶯、まあ題材としてはよくある。 しかし、もう

クリスチャン・ボルタンスキー回顧展 Lifetime @国立新美術館

この感じ、知ってる。 国立新美術館で開催中のクリスチャン・ボルタンスキー回顧展「Lifetime」の展示でのメイン一室ともいえる撮影不可の大きな展示空間での作品を観ながら、そう感じた。 それはフランスの大聖堂の地下にあるクリプトの雰囲気そっくりだった。 地下礼拝堂でもあり、地下墓所でもあるクリプト。あのすこし恐怖感を感じるクリプト内部に入ったときの雰囲気に、ボルタンスキーのメイン展示空間の雰囲気はそっくりだと感じた。 そこは死体なき死のイメージの安置所だった。 死体な

再物質化するイメージと動きだす世界

物事を変化で捉えることが大事だ。 そのことをここ最近はいろんな書き方で繰り返し書いてきているだけのような気がする。 こうまでして、何度もそのことについて書こうと思うのは、逆に世の中のものの見方が静的、固定的な見方に偏重しているように感じてならないからだ。 単純なことでいえば、想像力がない。 いま目の前にあることしか考えの対象にできず、次に何が起こるからとか、自分がそこに存在することやこれから行なうことで何が変化するかを想像して、いろんな判断ができないし、思考ができない。

肖像に話しかけて

不在の者の代理としてのメディア。 ハンス・ベルティンクは『イメージ人類学』で、死者の代理として、その人のイメージを再現する太古のメディアの意味について書いている。 メディアには、死者崇拝という太古の範型が存在する。死者は失った身体を像と交換し、生者たちのあいだにとどまる。このような交換によって実現される死者の現前はただ像においてのみ可能であり、イメージ・メディアは死とイメージとの象徴的交換を遂行する生者たちの身体に対して存在していたばかりでなく、同時に死者たちの身体の