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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#イノベーション

非同期型社会と再生可能性

イノベーションはいずこへ? あっという間に、人間が生きる環境が一変し、あらゆるものが機能不全になってしまった。 もちろん、この機能不全によって生じた、今日明日の生活がままならない人や企業に対する補償は急務であることに間違いない。 だが、一方、今日明日の生活や事業推進という意味ではそこまで壊滅的でない人たちだっている。 そうした人たちにとっては1番の課題は補償を得ることではないだろう。この環境での自分たちの生活や事業の持続性を確保するために、どのような抜本的な変革を行うかと

同期型と非同期型

何週間か前から週に2日か3日のテレワークを行ってはいたけれど、今週は月曜日を最後に自宅での仕事が基本となった。 すでにテレワークを始めていたこともあって、家で仕事をすること自体は慣れてきた。 けれど、今週は会社のほぼ全員がことで、オフィスではなく、インターネット空間がバーチュアルなオフィス空間となったことで、逆に忙しさが増した。 Zoomでのミーティングに、Slackでのやり取りが相手が見えないが、ゆえに遠慮なく入ってくる。そして、よりテレワークでの共同作業をスムーズにする

ヘルメスとアレッキーノと道化的汎用AIと

僕の道化熱はじつは終わっていない。 ウィリアム・ウィルフォードの『道化と笏杖』と読んだ後、何冊かはさんで、いまは山口昌男さんの『道化の民俗学』を読んでいる。 16世紀のイタリアを中心に流行した仮面即興劇コンメディア・デッラルテのなかの道化アルレッキーノを論じるところからはじまるこの本は、2章に入るとアルレッキーノの起源の考察をするのだが、そのなかでギリシア神話のトリックスター的な神ヘルメスとアルレッキーノの重なりを論じる過程でこんなふうにヘルメスという神格の特徴がリスト化さ

共創とわかりあい

共創という形で、多様な人々といっしょに何かを進めようと思えば、互いにわかりあうことが大事なんじゃないだろうか? 他の何をおいといても、互いにわかりあうことを大事にしていれば、そうそう困ったことは起こらないし、仕事を進める上での一体感や信頼感が醸成される。 逆に、わかりあうことを誰かがさぼりはじめた時から問題の火種はくすぶりはじめるし、チーム全体が不信感に包まれたりする。 わかりあうことにかかる労力より、一度燃え上がった火を消す労力のほうや不信感を拭う労力のほうが圧倒的に

想像する力と想像を捨てる力

想像力が大事だ。 他人のことを想像する力、自分の言ったこと/書いたことがちゃんと相手に伝わるかを検討してみる力、自分が行うこと/行なおうとしていることが外にどんな影響をもたらすかを想像する力、自分の仕事がどういう結果につながるかを想像する力。 ようは自分の言動に責任をもつために、想像力は欠かせないということだ。 だから、「自分勝手ではない」というのは、こうした想像力を常に働かせているか?ということに他ならない。だけど、自分勝手じゃないと言いつつ、こうした想像がほとんどでき

理解力と転換力

問題を適切に理解し、課題解決策へと転換する。 よりシンプルに言えば、問いと解の両方をつくりだすことだ。 状況を適切に理解するたとえば、関係者へのヒアリングや事前調査の資料の閲覧を通じて、あるクライアントの現市場環境における問題を洗い出し、適切に取り組むべき課題を設定し、力のある解決策を見つけだす。「力のある」とは、その解決策によって社会的環境に大きな変化を及ぼし、クライアントにとっても利点があるようなものだ。 また、たとえば、クライアント自身が具体的な問題を把握していない

共創の技術

いっしょに創るための技術が足りない。 これだけ「共創」だとか「協創」なんてことが言われていながら、まだまだ世の中では、どうやったらうまく効果的に異なる文化や専門領域をもった他の人たちと仕事ができるかという観点での技術は、残念ながら未熟な段階にあるなと感じる。 個人においても、組織においても、共創技術が未熟それは個々人の考え方や仕事をする上でのスキルという面でも、共創のスタイルで仕事をするためのものに書き換えられていないし、それを学習、教育するための仕組みもまだまだ整備が圧

時間のなかに生きる

僕らは空間のなかに生きているのではない。 僕らは時間のなかに生きているのだと思う。 変わらぬ空間を前提にするよりも、変化そのものである時間のなかで生きている、そのことを前提に考えてみる。行動してみる。 自分たちが変化からどんな影響を受け、逆に自分たちの活動によってどんな変化を生み出しているかを考えることが自然にできるようになるといい。 生成であり、変化である時間物質の性質や、種としての生物の特徴も常に変化するようなものではない。 けれど、個々の物質の状態はむしろ一定ではな

決定論に身を委ねるな、創造的であろうとするなら

創造的であろうとすることとは、もちろん、すべてがゼロの状態から自分の内からの生成力によって生じることを意味しない。 むしろ、ゼロからの創造なんてものは、所詮、人間には無理な話(いや、人間以外にとってもそうなはずだ)。創造とはむしろ、ゼロスタートではなく、すでに外的な環境から与えられたものもうまく利用しながら、ただ、これまでは存在しなかった組み合わせとしての新たなものを創り出す活動なのだと思う。 外的な環境からの影響外的な環境からの影響を受けつつ、創造を行うといって、それは

見えるのではない、見えるようにするのだ

視野の広さって大事だと最近は繰り返し思う。 見えてないものは考えられないし、見えてないものには感情を動かされもしない。実際には、起こっている出来事でも見えてなければ、心配にもならないし、どうにかしなければとも思わないし、何か行動を起こそうとも思わない。 ようは視野が狭いと、行動や思考がかなり制限されているということだ。 危機も、チャンスも、目に入ってこなければ、何をしていいかもわからないし、そもそも何かしなくてはいけないと感じることもない。 視野が狭いと、冒険にも向かな

視野の外

どんなことでも良い。 何かを考え、そのことについて他人とディスカッションするとき、物事を見る視野が狭くて、自分の視点でしか考えずに話していると、相手と話が噛み合いにくい。そのことによって会話の時間そのものが不毛なものになってしまうことも少なくない。 しかし、視野が狭い当人には何故相手と話が噛み合わないかさえ、わかっていないはずだ。だって、当人にとっては見えてる世界がすべてで、相手がその世界の外のことを話していることなんて考えてもみないのだから。 大蛇の上に大きな亀が乗り、さ

獲物の気配

ヨーロッパ各地の街に行ったときの1番の楽しみは、その地の美術館に行くことだ。日本で名前の知られた美術館でなくても、その街にちゃんとした美術館があれば逃さず行きたいと思う。 現代美術館もいいが、好きなのは、ルネサンス以降、19世紀くらいまでの作品を扱う美術館。 そう。美術史家のダニエル・アラスが『モナリザの秘密』で「14世紀初頭から19世紀末にかけてのヨーロッパ絵画を特徴づけるのは、それが自然の模倣という原理のもとで描かれているということです」と書いている、まさにその時代の作

目利きとファシリテーション

大正から昭和にかけて活動した、青山二郎という骨董収集鑑定家がいた。 子供の頃から眼力を発揮して、柳宗悦らの日本民藝運動の設立にも関わるが、後に退いた。 青山の元には、小林秀雄、河上徹太郎、中原中也、永井龍男、大岡昇平、白洲正子、宇野千代といった錚々たる文人たちが集まり「青山学院」と呼ばれた。小林秀雄は「僕たちは秀才だが、あいつだけは天才だ」と青山を評したと言われる。 本気であっても面白半分 青山学院に集まった弟子のひとり、白洲正子の孫にあたる白洲信哉は『天才 青山二郎の

ステージアップ

旧来的な組織に対して、これまでにない新しい物事を実現しようとすると、人というものはやはり見たこと、体験したことのないものに抵抗しがちであるがゆえに、あまりに事を急いてしまえばかえって物事が前に進まなくなる傾向がある。 一気に高いところに登ってくださいといっても、不安の方が先にある立つのは、自分で何かを変えるということをしたことがない人にとっては自然なことだと思う。 けれど、いまや変わらずに済ませられる状況などはこの日本にはほとんど存在しないはずだ。 だから俗に言う「小さく