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言葉とイメージの狭間で

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ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
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#本

本を読めない病

このゴールデンウィーク、本が読めない病に陥った。 ほんと何年かに一度程度にしか起こらないことなんだけど、前に明確に記憶にあるのは、もう15年以上前だ。 普段、ごくごく自然に読んでいる本が突如読めなくなるので、それなりにびっくりする。焦る。 本に書かれたこととの距離が埋まらないもちろん、文字が読めなくなるとかそういうことではない。その間もスマホでネット上の情報は普通に見ているからだ。そこに変化はない。いや、本を読まない分、時間にしたら多いのだろう。だから、文字を読めなくな

疫病、モバイル性、内面化

疫病(はやりやまい)は、人びとのあいだを分断する。 それをいま僕らは身をもって体験してるわけだけど、他人とのあいだを分断されて、部屋のなか、自分のなかにひきこもったとき、活躍するのがモバイル性のある情報メディアだろう。 たぶん、いまスマホがなかったら、僕らのひきこもり生活はもっと退屈だったに違いない。 とはいえ、過去のどの時代にも、その時代時代にあったモバイルツールが、疫病によるひきこもり生活を助けていたようにも見受けられる。 1665年、ペストが流行ったロンドンでた

フーリッシュな知性(後編)非人間的な知

「フーリッシュな知性」と題し、歴史上、至るとき、至るところに見られる「フール」の文化の変遷を辿りつつ、「理解」という人間的な思考の外側に開いた魔の領域に目を向けた「前編」。 さすがに長文になりすぎたため前後編に分割したが、後編では「使える」ということと「理解」の関係の外側にある非人間的な知性、まさにフーリッシュな知性について考えてみたい。 まずは、前編で紹介したチャップリンに続き、「ドイツのチャップリン」とも呼ばれる喜劇役者カール・ヴァレンティンのコメディ作品に目を向けて

フーリッシュな知性(前編)理解の外で

理解をするということは大事なことだと思う。 対象が何であるかにかかわらず、自分自身でその対象について理解を深めていくということは、とても大事なことだ。 「理解する」という行為は、対象物との関係性を深め、対象に対する配慮やリスペクトや愛を生み、対象との協働の可能性を高めてくれる。 つまり、逆に言えば、「理解している」かは、対象に対する配慮やリスペクトや愛や、利用可能性やコラボレーションの可能性をどれだけ手に入れたかによって測ることができるということだ。 現実において使えない

優れた人は、読書家である

ちょっとびっくりした。 1つ前で『時間は存在しない』を紹介したnoteの反響のあまりのなさに。 自分ではとても面白い本だと思って紹介しただけにこの反応の薄さは予想外。 内容的にも「時間が存在しない」という衝撃的なことを物理学的に分かりやすく教えるものだし、世の中的にもよく売れてたりもするから、自分自身の紹介の仕方がよくなかったのかなと反省している。 まあ、それは仕方がないこととして、今回は、その本の内容自体の驚くべきすごい思考の展開もさることながら、もう1つ驚かされた著

僕らを動かすエージェンシー

僕らは自分たち自身が行っている行為がなぜ行われているのかをほとんどの場合、理解していない。 意識していない、という意味ではない。 たぶん、自分が行った行為をなぜ、そうしたのかと問うたところで、答えがはっきりしているケースはほとんどないだろう。 僕らは自分でもなぜだかわからないまま、日々、いろんな選択をし、いろんな活動をしている。 なんとなく……。 そう、なんとなくなのだ。僕らがその行為を行った理由は。 でも、僕らの行為の背後にある、その「なんとなく」というヤツの正体はい

アクターネットワーク理論

本を買うタイミングと本を読むタイミングは同じではない。 読みたいから買うが、いますぐ読むかは別であることがほとんどだ。家に届いたあと、しばらく積んでおいて、読もうかなと思ったときに読みはじめる。 そんな読み方をしてるからか、多くの本は本当に読みたいときに読みはじめられ、そして、たいていの場合、本当にドンピシャのタイミングで読めたと感じられる。 現代社会を相対化する今年の2月に買ったブリュノ・ラトゥールの『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』も昨夜読みは

忘れ物と前方不注意

時間が不当に冷たくあしらわれてる。 最近ずっと考え、そのためにいろいろ調べてたりする。 それで、ふと思ったのは、みんな、時間のことをあまりに気にしなさすぎだから過去を忘れすぎてしまうし、未来を想像することが苦手なんだなということ。 つまり、こと時間に関しては、忘れ物と前方不注意が多発していると。 追悼と未来創造追悼が日常的に必要だと考えたのは、きっとそんなことを感じたからだ。 あまりに過去の時間忘れられてしまっているし、だからこそ、未来に対する想像も疎かになってしまっ

人工補装具(プロテーゼ)

もっともっと、ちゃんと常識にとらわれず、知識や言語やさまざまなイメージなどの人間的な錯覚を強いるものに惑わされることなく、現実を、現在を生きていたいと思う。 それは正しい答えを見つけるということではなく、答えという静的なまやかしに安住してしまう罠を免れて、常に自らが何に捕らえられているのかを反省しつつ、そのヴェールの奥にあるものを探求し変わり続ける姿勢ではないかと思う。 まわりはひとつも悪くない。 いつでも間違いは自分の側にあり、自分の未熟さに原因があるのだから。 現在見

動物としてのバランス

物事の行いやすさというのは、体系化された手法の中にあるのではなく、もともとの身体の感覚がもつ性質に忠実かどうかだと思っている。 手法から入るのではなく……いまから10年以上前に「デザイン思考」の本を書いたときも、デザイン思考を手法として利用する以前に、自身の感覚を研ぎ澄ませて、感覚に従った判断ができるようになっていないと、オブザベーションも、KJ法を使った発想もできないと思って書いた。 すこし前に「理解力と転換力」という記事で、手法だけでは足りず教養が必要だと書いたのも、手

想像する力と想像を捨てる力

想像力が大事だ。 他人のことを想像する力、自分の言ったこと/書いたことがちゃんと相手に伝わるかを検討してみる力、自分が行うこと/行なおうとしていることが外にどんな影響をもたらすかを想像する力、自分の仕事がどういう結果につながるかを想像する力。 ようは自分の言動に責任をもつために、想像力は欠かせないということだ。 だから、「自分勝手ではない」というのは、こうした想像力を常に働かせているか?ということに他ならない。だけど、自分勝手じゃないと言いつつ、こうした想像がほとんどでき

変化と知識

昨日紹介した『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』の番外編。 著者のエイドリアン・ベジャンによる知能と知識に関する、こんな区別についても紹介しておきたい。 もし物理学現象としての知識と知能を区別するとすれば、知能は知識を所有したり、創造したり、伝えたりする人間の能力ということになる。 まず「物理学現象としての知識と知能」っていうのがいいよね。知識や知恵まで物理学の現象として捉えようとする徹底した姿勢。 で、物理学現象としての知能がそんな風に知識

普通にできることのレベルを上げる

フォロワー数が30000人を超えた。 10000人を超えるまで8ヶ月、次の20000人までは6ヶ月だったが、今回は5ケ月で30000人に到達。ペースが上がってるのは、noteそのもののユーザーが増えているからなのだろう。 とても万人向けとは言えない内容のこのnoteに、その3倍の3万人のフォロワーがいるのはいつも不思議に思いつつも、現にそれだけの方が気にしてくれているのだと思うと、何ともありがたい気持ちになる。 とはいえ、フォロワー数が30000人を超えたとて、僕の書く

大人の学び

いま読んでるエイドリアン・ベジャンの『流れといのち 万物の進化を支配するコンストラクタル法則』は、いろいろ示唆的だ。 例えば、税収を増やすには、所得と資本に対する税率を下げるといいという話かある。「なるほど」と思った。 アメリカの経済学者アーサー・ラッファーは、所得と資本に対する税を減らすことを提案し、それが税収の増加につながると主張した。彼は正しかった。彼が提唱した変化は経済全体の流れを解放し、経済が成長したからだ。現在の結果、効率と生産性と経済活動が増加した。