マガジンのカバー画像

言葉とイメージの狭間で

343
ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
運営しているクリエイター

#読書

言葉と物

バーバラ・マリア・スタフォードの『実体への旅 1760年―1840年における美術、科学、自然と絵入り旅行記』を読んでいて、ちょっと興味をそそる記述を見つけた。 こんなものだ。 ジョン・イーヴリンには『煤煙対策論』(1661)があって、英国産瀝青炭を燃した指すだらけの蜘蛛がいかに「いつも空を圧す」かを論じていた。イーヴリンに言わせれば、ロンドンはエトナ山、鍛治神ウルカヌスの仕事場、ストロンボリカザンそっくりだ。地獄というのもこんなふうなのだろう。「怖ろしい煙霧」はこうして、

前の晩の残りものは昨日と味が違うから

朝はたいてい、昨晩の夕食の残りものをおかずに済ませることが多い。 いまの時期はもちろんのこと、残りものは夕食後に冷蔵庫に入れた保管し、朝レンジで温めなおして食べる。ほとんどの場合、前の晩に食べたときと味の違いを感じる。 多くのものは、出来たてで食べたときのほうが美味しい。ホテルのバイキングの料理みたいなものだ。たぶん、あれも出来たてはもうすこし美味しいんじゃないかと思う。 なので、前の日の美味しかった記憶が強いと残念に感じることもある。 かといって、昨日全部食べちゃえば

臙脂色のサステナビリティ

臙脂と書いて、エンジと読む。えんじ色のエンジ。 この漢字から「臙」というなんらかの動植物の脂(あぶら)かなと思って調べてみると、染料の元になるのが、インドなどが原産のエンジムシなのだそう。 もっと調べてみると、古代中国で辰砂、日本では丹(に)と呼ばれる赤色硫化水銀から作られる顔料の朱(しゅ)に山羊の脂を加えて化粧紅をつくられていたことで、「脂」という字が化粧紅を指していたのだそうだ。 そして、この紅の産地として、燕の国が有名だったこともあり、燕脂というかたちでブランド化

本を読めない病

このゴールデンウィーク、本が読めない病に陥った。 ほんと何年かに一度程度にしか起こらないことなんだけど、前に明確に記憶にあるのは、もう15年以上前だ。 普段、ごくごく自然に読んでいる本が突如読めなくなるので、それなりにびっくりする。焦る。 本に書かれたこととの距離が埋まらないもちろん、文字が読めなくなるとかそういうことではない。その間もスマホでネット上の情報は普通に見ているからだ。そこに変化はない。いや、本を読まない分、時間にしたら多いのだろう。だから、文字を読めなくな

「ホモ・サケル」シリーズとサステナビリティ

世の中の悪事や問題が生まれるのは、その悪事や問題に直接関わるプレイヤーにだけ原因を求めても仕方がない。 つまり、悪事や問題の原因として特定のプレイヤーを個別に排除していく対応では、この世から悪事や問題を廃絶することはできないということだ。 求められているのは、誰か/何かに問題の原因を押しつけてしまうやり方ではなく、この社会全体の構造あるいはシステムに潜む悪事や問題が生まれるプロセスやしくみを取り除くアプローチなんだと思う。 サステナビリティの問題として僕ら全員に問われてい

無縁、あるいは、あらゆる法権利の放棄

道を自由に歩いてよいのは、法的に許されているからなのか。 空気を自由に吸いこんでも咎められることのないのは、法的に認められているからなのか。 また、他人を殺めてはいけないのは、法で決められているからなのか。 他人を誹謗中傷したりするのがいけないのも、法がそう定めているからなのか。 自由と法、やってはいけないことと法の関係をあらためて考えてみてもいいのかもしれない。 コロナ禍で不要不急の外出の流れをとめる/減らすには、法の改正が必要なのか、を問われているいまの状況だからこ

言葉とイメージのあいだの……

ヴァールブルクはすでに1902年、自分の「源泉」探しが、芸術作品をテクストによって説明することをめざすのではなく、むしろ「言葉とイメージのあいだの[人類学的]共本質性ないし本質的共属性の関連を再構築すること」をめざしているのだと記していた。 ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『残存するイメージ アビ・ヴァールブルクによる美術史と幽霊たちの時間』より。 この「言葉とイメージの狭間で」と題したマガジンの源泉を僕は紛れもなくヴァールブルクに負っている。 そのヴァールブルクにおい

形態(する)

形態(form)というものを静的なものとしてではなく、動的な、まさに可塑性をあらわす動詞として捉えること。 そこに芸術の可能性を感じとった人が歴史のなかには何度かあらわれていることに僕は興味をもっている。 たとえば、美術史家のアビ・ヴァールブルクもその1人だろう。 彼は、美術史(いや、正確にはイメージの歴史だろう)を通常のように、作られた芸術作品とその制作者である芸術家たちの静的かつ線的な歴史としては見なかった。彼がみていた歴史は、もっとアナクロニズムなもので、力のうごめ

お金を増やすことと気候変動の問題

表象と現実。 あるいは、言い方を変えれば、人間が扱いやすくするために用いる記号的なものと、記号によって示される元の現実にある物や出来事。 たとえば、デザインが可能なのは、画面や紙の上でつくろうとしているものを図示したり、場合によっては物理的なプロトタイピングでも実物とは異なる素材やつくりかたで試作したりすることで思考できるからだ。 そうした図示やプロトタイピングによる代理的な記号操作を経ずに、直接、実物=最終製品をいきなりつくるのだとしたら、それはデザインという工程なしの

脱成長コミュニズム

まだ読み途中だけど、これは絶対読んだほうがいい。 そう、声を大にして言いたいくらい、持続可能な社会を問う上で素晴らしく、かつ独自性のある提案をしているのご、斎藤幸平さんの『人新世の「資本論」』だ。 ひとことで、その特徴を言うなら、斎藤さんはこの本で持続可能性の実現のためには、資本主義を停止させ、脱成長の経済へと移行する必要があると言っていることだ。 『資本論』以降のマルクスその思考の根底をなすのが、『資本論』以降の著書に結実していないマルクスの思考だ。 晩年のマルクス

吝嗇(りんしょく)とデザイン

吝嗇。「りんしょく」と読む。 意味は「極端に物惜しみすること」。つまり「ケチ」。 節約が度を越すと吝嗇となる。 1つ前で紹介したデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ』。 実は、そこですこし書き足りなかったこともあって、それが吝嗇あるいは節約の問題である。 でも、グレーバーの話に入る前に、すこし遠回り。 グレーバーのいう節約とは真逆の位置にある芸術について、すこし書いてみたい。 浪費の一様式としての芸術「芸術とは浪費の一様式であり、なにものかをその功利的価値のた

デヴィッド・グレーバー死去

いま、ちょうど読んでる『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』。(読み終わった!) その著者で人類学者のデヴィッド・グレーバーが昨日亡くなったとのこと。とても興味深く読んでた途中で知ったので、驚いた。 59歳、若い。もったいない。 今年の5月に『民主主義の非西洋起源について』も読んで、「何気なく買った本に、僕は心を掴まれた」と書いて、すごく好きな著作家がひとり増えたなと思って喜んでただけにこの訃報はショックだ。 『ブルシット・ジョブ』のほかに分厚い『負債論』も

ポストヒューマン的言説を整理する

考えて必要な答えを出すのには、普段の準備が大事だ。 最近やってる仕事のなかでもあらためてそれを感じる。準備しているのとしていないのでは到達可能な地点がまるで違ってくる。 準備には、 ①多様な知識に可能な限り濃い密度で触れておく ②触れた知識同士の関係を小さな単位でいいので普段から考えておく ③1か月か数ヶ月の単位で1回くらいは、集めた知識や小さな単位でつなげた知識同士の関係性をあらためて整理し、俯瞰的な視点で何が言えるかを図式化したり記述したりすること の3段階がある

デザイン経営における共生志向民主主義

世の中的にも話題になり始めているように、リモートワーク環境下に移行したことで「仕事をしている」かどうかの判断基準が、オフィス(など、仕事の現場)に参加していることから、実際にそれぞれの人がどんな成果を出したかへとシフトしてきている。 以前から問われることのあった「会議で何も発言しない人はどうか?」という問題も、その流れでいけば、会議に参加してるだけで何の発言もしない人(議事録を作成する係でもないのに)は、その時間、成果を出していないのだから、仕事をしていないということになる