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情報に包まれる

今日、ふと思った。
映しだされた情報を見るか、情報を身体に浴びるのか。そんな2つの情報への接し方がある、と。
前者はこちらが見ているのだが、後者はあちらから見られているという感覚。あるいは前者は情報を得るためフォーカスしてるのだが、後者はぼんやりと情報に包まれているような感覚。

マクルーハンが『グーテンベルクの銀河系』で、活版印刷以前と以降を比べて、光との関係で論じていたことから連想したイメージだ。

視覚とそれ以外の感覚

「グーテンベルク以後、視覚があらたに強調されたために、すべてのもののうえに光を要求することとなった」とマクルーハンはいう。
一方で、グーテンベルク以前の中世人なら「瞑想によって聖なる光を見るのではなく、それを浴びるのだ、という風に考えたであろう」と書く。

この対比。これは視覚情報と聴覚情報の違いだと想像するとイメージがわくはず。目は情報をこちらから拾いに行くが、耳は向こうからきた情報を浴びる。
いや、聴覚に限らない。視覚以外の情報はあちらから来る。
嗅覚などはわかりやすいだろう。匂い/臭いは身体を包みこむ。触覚も小さなものはこちらから触れにいく感覚だと思うが、常時、接している空気の熱、風の圧力、あるいは雨などを思えば、浴びているという感覚の方がふさわしいだろう。さすがに味覚的なものを浴びることはないだろうが、それでも味は向こうから来る感覚ではないか。

そう。視覚だけがほかの感覚とはすこし違うのだ。情報の捉え方が。
もちろん、視覚情報だって受動的に捉えている部分も多いはずなんだけど、そうした情報は「生きたInformation Architecture」で書いたように、図と地の区分でいえば、地の側に回ってしまって、結局、意識されない。意識する図の部分の多くはこちらから拾いにいく。

光に貫かれて

情報に包まれるというイメージをしたのは、二方の壁を、KJ法の作業途中のデータで埋め尽くされた小さなスペースで長い時間、作業をしていたせいもある。200近くのデータと、それを要約した看板が加わり、300近い文字データに囲まれていると、それは視覚情報ではあれど、包まれる感覚になる。

いや、視覚情報だって、図と地のように見なければ、身体を包みこんでいるのだ。そんな風に考えたのが、J.J.ギブソンの生態学的視覚論だろう。

「ミディアム(媒質、medium)」と「サブスタンス(物質、substance)」とそれらの境界となる「サーフェイス(表面、surface)」が織り成すレイアウトの変化を動きながら知覚することで、人はアフォーダンスとしての情報を得る。

その時、アフォーダンスは読み取られるのではないだろう。感じとられるのだと思う。アフォーダンスは浴びせられる。
浴びせられる情報、情報に包まれるという感覚で思いだすのは、先々週の週末に行った展示MeCAに出展されていた、Guillaume Marminの"Timée"という作品だ。

実際には、これらの光の筋がレーザー光線のようにこちらに投射される感覚。音の印象も相まって、何度もレーザービームに貫かれてる感覚になった。

包みこむインターフェイス

その時の作品に触れた(そう!見たではない)感覚を今日、KJ法をやってて思いだした。

KJ法をやってて、たまに思うのは、KJ法をやってる時に扱うテキスト情報って視覚情報であると同時に、触覚的というか、空間的な情報であるということだ。
だから、同じことをディスプレイ上でやろうとしてもあまりうまくいかない。それは単に画面が小さいからとか、タッチパネルスクリーンでやってないからとかではない。たぶん、普段、KJ法をする時にポストイットの物理的な感覚や壁そのものの空間感覚も含めてのことだと思う。

人はまだ文字を扱えなかった頃、長い演説の言葉や詩などを覚えなくてはいけない際、空間を使う記憶術を使ったという。その感覚は確かにKJ法をやってると、よくわかって、空間に情報が置かれるからこそ、どこにどの情報があり、それとどの情報に関連がありそうか、隠喩できる関係を結べそうかという思考を働かせやすい。
ギリシア神話での記憶の女神はムネモシュネというが、それを知っていると、なぜ、アビ・ヴァールブルクが971枚の図版を総数63枚の黒いパネルに配置した図像解釈学の装置を『ムネモシュネ・アトラス』と呼んだかも分かるし、それがイメージを用いたKJ法のようなものであることも、僕自身の身体的記憶を通じて納得できる。
ようは触覚的、聴覚的な感覚をともなう情報空間のほうが記憶を刺激し、思考を促しやすいということだ。であれば、ワークスペースとしてのUIには、本来この感覚が欲しいはず。

そんなことを思っていて、じゃあ、MR(VR+AR)空間で、KJ法ができるようになれば、同じような感覚になるのかな?と想像してみたのだ。
想像しただけなので、実際、なるのか、ならないのかはよくわからない。でも、感覚的には、ならないような気がする。それはまだ触覚情報とかが欠けているからかもしれない。
いや、でも、Guillaume Marminの"Timée"に浴びる感覚を感じたのだから、大丈夫なのだろうか? ヒントはあの光がともなっていた水蒸気的な物質感だろうか。

情報に包まれる感覚が持てるユーザーインターフェイスってどんな風なものであれば良いのか? そんなことを時々考えていた今日という日でした。

#デザイン #UI #インターフェイス #情報 #KJ法


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