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無縁仏の謎の続き

こういうときの女性って、離れるか、深まるか。
どちらかしかない。

弁護士がそういったという。
自分が逮捕されたとき、迷う彼女へのアドバイスだった。

犯罪とは無縁の彼女だったが、警察にやってきて事情聴取に応じた。

「あの人は悪いこともするが、ある面では正義感も強く、本当は優しい人なんです」などと徹底して擁護してくれて、刑事はその調書を読んで聞かせてくれた。

身の回りの取りつぐろいもしてくれて、裁判では小さな偽証もしてくれて、判決日に執行猶予となってからは一緒に歩いて帰った。

20代に逮捕されたときのことで、ひと回り以上も年上だった彼女で、もう癌で死んでしまったが。


深まったといえる女性

今回の逮捕では、離れるばかりだった。
唯一、深まったといえる女性は、老母だけ。

善悪には厳しい老母だが、身元引受人ではないが、田舎の実家を帰住地としてくれたのだった。

情けない。
けど、檻の中ではそれにすがるしかない。

757番の上田君も、母親から手紙がきたと話す。

弁当屋でパートしていてる彼女は、それを警察署の留置場にも届けているという。

今までは、犯罪者などに食べさすことはないと、少なめにご飯を詰めていたのが、今では大盛りにして届けているんだってとしょんぼりと話していた。

上田君も深まったほうの1人だった。

で、自分はというと、その老母と同居している身元引受人からの手紙が絶えている状況。

5通送っても返信がないので、送るのをやめて2年が経つ。

たぶん老母は亡くなった。
それを悟らせないために、身元引受人は手紙を返信しない。

757番の上田君は「ちがう」というが、あの家の性格からするとそうだとは予想ができた。

犯罪者の母親

犯罪者の息子を持つ母親で思い出す本といえば。

やっぱり水上勉の「金閣炎上」となる。
1950年(昭和25年)の「金閣寺放火事件」を描いたもの。

戦争であっても、アメリカ軍は、文化を保護するために爆弾を落とさなかったといわれる金閣寺に、当の日本人が放火したのだ。

犯人の林養賢(ようけん)は「国賊」と、当時の新聞に書き立てられたというのもわかる。

三島由紀夫の「金閣寺」もあるが、そっちは純文学。
水上勉の「金閣炎上」は、ノンフィクションになる。

文庫本|1986年発刊|347ページ|新潮社

『金閣寺』と『金閣炎上』は比べてみるとおもしろい。

三島由紀夫のほうは、美がなんじゃらとか、終戦後の社会の変貌とか、仏教界や住職の腐敗を絡めている。
父親を軸にしている。

水上勉のほうは、母親と故郷を浮き彫りにしている。
母親を軸にしている。

住職である夫を亡くしてからの林の母親は、寺の慣習によって行き場所を失くして、縁者の農家で下働きをしている。

彼女は、金閣寺で修行している息子に期待を寄せて、田舎から訪ねてきては立派な僧侶になるように言いきかせる。

金閣寺のことを「金閣はん」と呼ぶ。
息子は、金閣寺に屈折したわだかまりを抱く。

三島由紀夫のほうは、金閣寺に放火した犯人が毒物を飲んで「生きようと私はおもった」で、いかにも文学的に終わる。

水上勉のほうは、事件の5年後に病死した犯人の林養賢の墓を見つけるところで終わる。

実際の事件では、林の母親は自殺している。
逮捕された息子の面会にきて、拒否され、その帰りに鉄橋を走る電車から断崖へ身を投げている。

それを聞いた息子は精神的に不安定になる。
供述が不確かになって、動機がはっきりしなかったから小説の題材になる。

1956年(昭和31年)に三島由紀夫が「金閣寺」を発表。

水上勉は、それに違和感があったからと「金閣炎上」を書いたと本文にはある。

1979年(昭和54年)の発表になったのは、犯人の林養賢の墓が見つからなかったからとも。

関係者は、全員が墓は知らないというので、てっきり刑務所の無縁仏になっていると思っていたら、そこにもなかったのだ。

・・・無縁仏?

そうそう「無縁仏の謎」の続きでした。
つい、金閣寺に熱くなって忘れてました。

仮釈放になってから

仮釈放になった。

老婆は死んでなかった。
ピンピンしてたが、白髪は多くなっていた。

身元引受人からの手紙の返信がなかったのは、もう1人子供が生まれて、刑務所なんかにいる人までかまってられないという、ごく、まっとうな理由だった。

なんにしても、満期日がくるまでは実家に住む。
16歳で家出した実家に住むことになる。

で、とにかくしゃべった。
そりゃ、解き放たれたのだから、しゃべりたくなる。

無縁仏についても聞いてみた。
ところが、誰も、無縁仏のことなど気にかけてない。

誰も、無縁仏に違和感などないという。
誰も、無縁仏に不思議さもないという。

今までに、1度もないという。

詳しいことは自力で調べるしかないようだ。
もちろん、ネットにも情報はなかった。

天狗党説の崩壊

その無縁仏の石碑は、イメージよりは小さかった。

子供の目線の印象が残っていて、刑務所という環境下の妄想で、見上げるほどに巨大化していたのだった。

“ 南無阿弥陀仏 ” としか彫られてない。
あとは横に “ 文久元年 ” とあるだけ。

スマホで文久元年を検索する。

1861年だ。
1868年が明治元年だから、それよりも7年前になる。
まだ14代将軍徳川家茂の時代だ。

予想よりも古くて驚いた。
せいぜいが明治かと予想していた。

とすると天狗党の乱はいつだ?

スマホで検索する。

1864年が天狗党の乱。
それよりも3年前に、この無縁仏は建てられている。

天狗党説は、一瞬で崩壊。
足かけ3年ほど、檻の中でこねくり回していた説だったのに。

ただ、調べてみてうれしいことがあった。
天狗党の一団は、この無縁仏から2キロほどの場所に投宿していたのだった。

それ以前に無縁仏は建っているのだから、両者はニアミスしている。

で、ここの地域では、天狗党の騒乱を防ぐために寝食を提供して、あっさりと通過させている。

戦は一切ない。
ひょっとしたら、シンパシーを感じた者もいたのかも。

苔むした無縁仏だった。

それにもたれかかるようにして、幕末最大級の悲劇である天狗党への想いを巡らせていると、保育園のお迎えの戻りらしい若い奥さんが歩いてきた。

こっちは隠れてるわけではない。
が、奥さんは姿に気づいてハッとして、途端に子供と笑い合うのをやめて手を引いて足早に去っていく。

いかん。
不審者にされてしまう。

仮釈放の間は、一切の間違いは許されない。
もしなにかあれば、まったく関係がなくても、警察には100%の容疑者として引っぱられる。

幕末の悲劇よりも、まずは自分の身の安全だ。
逃げるようにして自宅に戻った。

一揆説は濃厚

第二の一揆説についても調べてみた。

まず、1853年に黒船が来航。
それ以来、幕府は防衛力強化のために増税をしている。
要は年貢の取立てが厳しい。

この郡部でいえば、1000人、2000人、3000人規模で一揆がおきている。

広範囲の村々から有志が集まったのだろう。
ここからも、1人か2人は参加していてもおかしくはない。

一揆をすれば、要望は認められている。
が、首謀者の死罪は免れない。

罪人扱いのため、表立って弔うことができないので、無縁仏として祀られた・・・という線が妥当か。

年寄りに聞いて回れば手がかりはありそう。
しかし、まだ、この地域の人と顔を合わせたくない。
聞いて回るのは、もう少しあとにしたい。

そうではないのか?

出所は隠してコロナでとしているが、久しぶりにひょっこりと帰ってきて、いきなり無縁仏について聞いて回るなんて。

「またあの人は・・・」などと、陰でなにをいわれるのかわからない。

そういう寒村だった。

安政の大獄説も浮上

無縁仏が建てられた当時は、相当にキナくさい。

1858年 日米修好通商条約調印
1859年 安政の大獄 吉田松陰が斬首
1860年 桜田門外の変 井伊直弼が暗殺
1861年 ★★★ 無縁仏、建つ ★★★
1862年 生麦事件、寺田屋事件
1863年 新選組結成、奇兵隊結成
1864年 天狗党の乱 勃発

この状況では、安政の大獄も疑う必要がある。
関東一円で、数百人レベルで、尊王攘夷の志士が捕縛され処刑されたのだ。

ここいらでも1人か2人は処刑されていて、・・・いや、しなびた郡部の寒村だ、そんな志士など輩出しないだろう。

しかし、念のために、志士の出身地もあたってみるべきか。

歴史ロマンも絡んできやがった・・・
ヤツは何者なんだ・・・

そんな思案をしながら、また今日も無縁仏から自宅に戻る。
庭先で草むしりなどしていた老母が、なにかわかったかどうか聞いてきた。

が「やっぱり、あの無縁仏はただものじゃあない。話が大きくなってきた」と委細は控えた。

無縁仏の謎は解明した

図書館で文献を調べてみようか?

しかしだ。
文献など触れたことがない。

郷土博物館の学芸員に尋ねたりしてみようか?

が、コロナ渦だった。
図書館も郷土博物館も入場制限されていた。

するとだ。
親戚のおばちゃんが訪ねてきた。

老母だ。
コロナで帰ってきた息子が、あの無縁仏を苦にして苦にして悩んでいる、と話したらしい。

心配した親戚のおばちゃんも、お寺にいって聞いてもみたが若い住職もわからないという。

住職も心配して、いろいろと当たってみたら郷土歴史として無縁仏を調べた老人がいて、詳しく聞いたおばちゃんは「わかったよぉ~」などと訪れたのだった。

そういう不審なところから前科がバレるのだからと老母には言ったが、好意を無下にするわけにもいかないし、なによりも本当のことを知りたい。

30年ぶりに会った親戚のおばちゃんが解説するには、その江戸時代の末期に、あの辺りで人骨がたくさんでたのだという。

昔に戦があった・・・と村では言い伝えられていたので無縁仏を建てたとのことだった。

あの無縁仏がある狭い道は、古来は鎌倉道だったという。
信じがたいが、交通の要所でもあったのだ。

そういえば。
司馬遼太郎の「義経」で、中世では人が1人通れるほどくらいに道が細かったと読んだ。

草深い関東に・・・、という描写も何度もあった。

文庫本|2003年発刊|上下巻|文藝春秋|初版発行 1968年

1878年(明治11年)に来日して著された「イザベラ・バードの日本紀行」でも、ちょっと田舎にいくと、そんな道がけっこう出てきていた。

文庫本|2008年発刊|496ページ|講談社

日常に使われている道であっても、山に差しかかると馬から下りて這うようにして上がり、馬は馬子が担ぐようにしてあがった、ともある。

道も交通もわかった。
でも、腑に落ちない。

遠い昔に戦・・・とはいつのことだ?
なぜ、その当時に埋葬しなかったのか?
地元だったら身元はわかっていたのではないか?

おばちゃんも同じ疑問があったらしい。
その郷土歴史家も、その点は調べていた。

その戦とは、戦国時代よりもずっと前の中世のこと。
一団が全滅するほどの戦いだった。
だから埋葬もできなかった。

中央の貴族の出資で行なわれた入植の地では、食糧をめぐって、一団の存続か全滅かを賭した戦いがあったらしい。

この郡部に人が定住して村が形成されたのは、戦国時代になってからとのことだった。

結局は、あの無縁仏には、天狗党も、一揆も、安政の大獄も関係なかったが、それなりの理由があるのがわかった。

せっかくだ。
何十年ぶりに線香の1本でもあげにいくか。


・・・で、書き忘れていた。
金閣寺に放火した犯人の林養賢の墓だ。

刑務所の無縁仏ではなくて、どこにあったのか?
水上勉も相当に探したらしい。

母親の縁者が、内密に引き取っていたのだ。
粗末な墓だったが、静かな場所で母親と並んでいたという。

母親は、息子と一緒に暮したがっていたのかもしれない。
縁者は、それを聞いていたのかもしれない。