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司馬遼太郎「坂の上の雲 3巻」読書感想文

3巻は泣ける。
作中の登場人物だって泣く。

首相の伊藤博文は、泣きはらして叫ぶ。
陸軍の参謀本部の児玉源太郎が涙を流して訴える。
財界人の渋沢栄一も泣いて決意する。

東郷平八郎が出撃命令を伝えたとき、整列していた将兵の50名だって涙がこぼれて仕方がない。

緒戦の際にも、日本領事館の外交官も泣くばかりである。

なんで泣くのか?

日本がロシアの植民地になる、日本が滅びてしまう、戦うのは今しかない、日本は負けるかもしれない、なんとかしなければならない、と泣く。

んなことあるのか?

落ちついて考えれば、日本がロシア帝国の植民地になるなど大袈裟にも思えるし、それを戦争で解決するなど現代からすれば発想が飛躍している。

そこを司馬遼太郎は書いていく。

歴史の段階がすぎた今日では、これらの動きはどうにも理不尽で、見様によっては滑稽にすらみえる、とか。

後世の人たちは、主権を侵さず侵されず、人類の平和のみを国是とする国こそあるべき姿として、当時の国家と国際社会に割り込ませて正邪をきめる。

が、当時の世界の国や地域は、他国の植民地になるか、それがいやならば産業を興して軍事力と植民地を持ち、帝国主義国の仲間入りするか、その2通りしかなかった、ともある。

現代だって・・・。
後世の人たちが見れば、さぞかし理不尽で滑稽にみえるだろうと思わされた。


ざっくりとしたネタバレあらすじ

3巻のあらすじである。
以下、3行でまとめる。

ロシア帝国の強硬な態度に、日本は震える。
外交努力も絶望的で、存亡の危機となる。
開戦となり、日本軍は朝鮮半島と遼東半島に上陸する。

・・・というところか。

年代でいえば、ロシアの脅威が増してきている明治35年前後から、日露戦争がはじまった明治37年2月までとなる。

主人公の動向はどうなのか?
以下である。

正岡子規は、肺病で苦しみ35歳で没した。
明治35年9月である。
3巻がはじまって早々の死去で、以降は登場しない。
それっきりである。

大佐となっている秋山好古は、ロシアの演習に招待される。
これは、ロシアが威力を見せ付けるための招待である。

秋山真之は、連合艦隊の参謀となる。
開戦すると、黄海のロシア艦隊と交戦する。

司馬遼太郎は、しつこく書いていく。

日露戦争というものは、世界史的な帝国主義時代のひとつの現象であることはまちがいない。

が、その現象のなかで、日本側の立場は、追い詰められた者が、生きる力のギリギリのものをふりしぼろうとした防衛戦であったこともまぎれもない。

※ 筆者註 ・・・ 読書録は抜書きばかりになってます。感想文というより要約となってます。7000文字とけっこう長くなってしまい、もっと省こうとして断念しました。『5分で読める坂の上の雲 第3巻』と改めたいです。

文庫本|1999年発刊|361ページ|文藝春秋

初出:1968年4月 - 1972年8月 産経新聞連載

表紙:安野光雅

伊藤博文は、なぜ泣いたか?

伊藤博文が泣く場面である。

明治37年、2月4日。
御前会議において、日本政府は、対ロシア開戦を決意した。
そのあと伊藤博文は、元司法大臣の金子賢太郎を呼ぶ。

ロシアとの開戦がきまった、と打ち明けた。
今すぐにアメリカへいき、大統領と国民の同情を喚起し、好意的な仲介により停戦講和へもっていけるよう工作に従事してもらいたいという話であった。

金子は返事を渋る。
ロシアが勝つに決まっているではないか。
日本とロシアでは、国力が違いすぎる。

工作する前に、最初の一撃で負けてしまう。
それでは、好意的な仲介など成立しない。
政府要人の通常の判断であった。

このとき伊藤は、すでに泣きはらしたような目をしていたという。

「事ここにいたれば、国家の存亡を賭して戦うしか道はない!もはや、成功、不成功を論じている余裕などない!」
「・・・」
「かくいう伊藤も、もし、満州の野で日本陸軍が壊滅し、対馬海峡で日本海軍がことごとく沈められ、ロシア軍が海陸からこの国に迫ってきた場合、往年、長州の力士隊を率いて幕府と戦ったことをおもい、銃をとり兵卒になって、山陰道から九州沿岸でロシア上陸軍をふせぎ、砲火のなかで死ぬつもりだ!」
「わかりました!」

この激に、不利だのいってられないと金子は決意。
直ちにアメリカに向かう。

ロシア帝国の強硬な態度

遼東半島と満州を併合したロシアは、朝鮮半島にも着々と進出して権益を得ていた。

『清国と朝鮮の自主独立と領土保全を尊重すること』を日本は申し入れているが、ロシアには妥協の余地はない。

もはや満州のことには触れずに、朝鮮を半分をよこせといわんばかりに強硬に要求をしている。

「これほど不礼な外交文書が過去にあっただろうか」と外務省はうなる。

それまでにも伊藤博文は、なんとか外交によって、ロシアの南下政策を回避できないものかと動いていた。

いっそのこと、ロシアと攻守同盟を結んでみたらどうか。
いってみれば、強盗と話し合いを求めるようなものだった。

ロシアにも訪問して、歓待はされたが、日露同盟については冷ややかな回答だった。

この頃、ロシア皇帝のニコライ2世の発言も話題になった。
「ロシアと日本は戦争はしない。なぜなら予が戦争を欲してないからだ」という。

これは、軍の威力で強硬な態度を取っていれば、日本は言うがままになる。

日本は、戦争をしても勝てないロシアに挑んでこないという意味がある。

穏健派といわれる内務大臣プレーヴェですら「極東問題のごときは、外交官のペン先よりも、軍人の銃剣をもって解決するのが本筋である」と発言している。

陸軍大臣クロパトキンは、明治36年に来日した際に日本陸軍をつぶさに見学して「日本兵3人にロシア兵は1人で間に合う」とも「きたるべき戦争は、戦争というより、軍事的な散歩にすぎないであろう」と断定をくだしている。

駐日ロシア陸軍武官は「日本陸軍は乳児軍である。ヨーロッパでの最弱の水準にたどりつくまでも、あと100年はかかる」とロシア陸軍省に報告している。

同時期に神戸でも観艦式を見学したアスコリド艦長は「日本海軍は軍人としての精神は、とても我々にはおよばない。さらに軍艦の操法は、いたって幼稚である」と駐日ロシア公使に話している。

これらが、ロシア帝政の常識的な対日観測であった。

世界一のロシア帝国陸軍

開戦決定よりも半年ほど前。
ロシアから申し入れがある。

シベリアで大演習を行うので、貴国から参観武官を差遣されたい、という内容だった。

なぜ、わざわざ、大演習を見せるのか?

ロシアの狙いは、世界一の陸軍を見せつけて、日本を震え上がらせようとしているのであった。

秋山古好が、ロシアに派遣された。
演習が終わってからは、シベリア各地の軍事施設の見学を申し入れて、皇帝の許可を得た。

見学は1ヵ月に及んだ。
やはり、ロシアは世界一の陸軍を擁してした。
兵馬、火砲、装備、どれをとっても、日本が上回るところはない。

そして、どこへいっても、どの将校も歓迎をしてくれた。
秋山古好は、ロシア人に好感を持つ。

『ロシア帝国は、なにをしでかすか得体のしれない国ではあるが、ロシア人は国家とは違った好人物だけである。とくに酒宴での気分のよさは世界一かもしれない。』と言っている。

しかし、いずれは戦場で会わねばならない。
だからといって、戦いが陰惨であるとは両者は思わなかったに違いない。

秋山古好はサムライ上がりであったし、ロシアにもまだ騎士道は残っていた。

両者ともに、戦場での勇敢さを美とする信仰を持っていた。自身が美であると共に、敵もまた美であってほしいと望む心を習慣として常に持っていた。

そういう習慣の、この当時が最後の時代であった。

軍事費が国家歳出に占めた割合

世界史のうえで、ときに民族というものが、後世の想像を絶するほどの奇蹟のようなものを演じることもあるが、日清戦争から日露戦争にかけての10年間の日本ほどの奇蹟を演じた民族は、まず類がない、と司馬遼太郎は書く。

「日本人は信じがたい事をなした」と当時のイギリスの海事評論家は言っている、とも書いている。

なにが奇蹟なのか?
なにが信じがたいのか?

海軍である。

日清戦争の段階では、海軍とは名ばかり。
ボロ汽船に大砲を積んだだけ、といった軍艦ばかりだった。

それが、10年後の日露戦争直前には巨大海軍をつくりあげて、世界の五大海軍の末端に連なるようになったのだった。

日清戦争が終わった明治29年には、軍事費が国家歳出に占める割合が48%という狂気ともいえる財政だった。
これが50%を超えて、日露戦争まで続く。

さして産業もない国家が、これだけ重苦しい予算を組み上げるのも奇蹟であるし、それに耐えた国民のほうが、むしろ奇蹟だった。

日本人は大袈裟にいえば、飲まず食わずで海軍をつくり上げたのだった。

児玉源太郎と渋沢栄一は、なぜ泣いたのか?

陸軍の参謀本部次長には、児玉源太郎が就いていた。

文部大臣と内務大臣を辞めて、官職としてはそれより下級の参謀本部次長の席に、自ら志願したのだった。

ちなみに、すべての実務は、総長ではなく次長が担う。
日清戦争の際に、その席にあった川上操六は、過労ですでに死去していた。

児玉は訊かれた。

「もし、日本とロシアが戦争になったら、勝つ見込みはどのくらいです?」
「勝つというところまではいかない」
「・・・」
「国家の総力をあげて、なんとか優勢あたりで引き分けにしたいというのが、精一杯の見通しです。あとは外交です。それと戦費調達です」
「・・・」
「このまま時がうつればうつるほど、ロシア側に有利で日本側に不利です。2年もたてば極東ロシア軍の兵力は膨大なものとなり、いよいよ日本を圧迫するでしょう」
「・・・」
「そのときに起ちあがっても、もはや勝負になりません」
「・・・」
「いまならなんとかなる!日本としては、万死に一生を期して戦うしか残された道がない!」

児玉は悲壮だった。
そこまで言うと、ボロボロと涙を流した。

訊いたのは、財界の実力者である渋沢栄一であった。
それまでに何人もの軍人から、戦費調達について説得されていた。

が「日本の財政で、いくさを考えるなど妄想にすぎない」という非戦論者でもあった。

渋沢の考えが変わったのは、同じ財界人が、満州と朝鮮の視察旅行からもどって報告を聞いてのことだった。

「いたるところでロシアの大部隊が移動し、海上にはロシア艦隊が絶えず出没し、もはや極東の地図は一変しようとしてます。やがて日本は圧倒されて、自滅するでしょう」

軍人の観察眼をいっさい信用しない渋沢だったが、同じ財界人のこの報告には動揺した。

しかし、戦うといってもだ。
明治30数年にわたって、ようやく、こんにちの域にまで達した日本国は、この一戦で滅びるかもしれない。

そのことを陸軍作戦のすべてを担当する児玉が、自ら言っているのである。

渋沢も泣き出した。
「児玉さん、わたしも一兵卒として働きます!」と応えた。

渋沢のこの決断が、このあと開かれた銀行倶楽部での総意となり、開戦への協力態勢をつくることが決議された。

日本は勝てない

このあと開戦と同時に、ロンドンの金融街では、政府要人が戦費調達のために日本国債の売込みに奔走した。

しかし売れる気配がない。
大国のロシアに対して、小国の日本が戦争をしかけたのだ。
世界中が驚きはしたが、勝てるとは思ってなかった。

その状況で、日本が売る国債の半分を、アメリカのユダヤ人協会が引き受けた。

決して日本が勝利すると予想してのことではない。
ロシアは、ユダヤ人を迫害していたからだった。
日本の奮闘に期待したのだった。

そんな中でも、開戦と同時に「日本が勝つ!」と明言したのは、ドイツ陸軍のメッケルであった。

来日して陸軍大学校の教官をしたメッケルは「日本兵は志気が高い。死を恐れずに戦う」の1点のみの理由で、日本の勝利を断言した。

観戦武官として日本に派遣されたイギリスの将軍も「日本が勝つ!」と最初から明言している。

彼は、南アフリカのボーア戦争に従事している。
侵略戦争がいかに難しいかをわかっていたし、ナショナリズムを源泉とする民族軍の強さを知っていた。

戦場へ向かう前の、整列する日本兵の姿を目にして「日本が勝つ!」と確信をしたのだ。

・・・ のちにテレビ番組で知ったのだけど、この日露戦争の戦費の返済が完了したのは1986年だという。

なんと82年後なのだ!
驚きではないか!

国交断絶の宣言

御前会議の4日後。
開戦の直前。

外務大臣の小村寿太郎は、駐日公使ローゼンを外務省に招いて、ロシアに対して国交断絶を宣言した。

国交断絶すると、お互いの外交団も在留人も本国に引き上げてしまう。
戦争がおきても、もう、外交交渉というのはありえない。

ローゼンは、日本から国交断絶や戦争をしかけるはずがないとタカをくくっていたので、この宣言に戸惑うばかりだった。

ロシア極東総督のアレクセーエフも、国交断絶の意味を甘く解釈した。

強硬派の急先鋒でありながら、口癖で「サルに戦争ができるか」といっており、このときも「国交断絶といっても戦争を意味しておらぬ。日本は国力からいって開戦できない」と言い放った。

同様の見解を、皇帝に報告するつもりでいた。

連合艦隊出撃

同日、連合艦隊の旗艦『三笠』には、各艦指揮官と艦長の約50名が集合した。
東郷平八郎司令長官から出撃命令が伝えられた。

秋山真之の同期の森山慶三郎少佐の述懐では、このとき、涙がこぼれて仕方がなかったという。

ロシアに負けるかもしれない、ということだった。
彼は、2年前に公用で渡欧して、敗戦国ポーランドの状況を見ていた。

戦勝者のロシア人が、どの町でも、その町の主人のような態度でポーランド人を追い使っていた。
日本もあのようになるのではないか、と泣けてきたのだ。

50名は、皆、うつむいて黙っていただけだという。
空気から察するに、似たような感情で、日本存亡の崖っぷちに立っている思いであっただろう、と語っている。

解散した直後だった。
森山は、参謀室を通りかかる。

そこには海図に線を引き、これからの作戦を確めている秋山真之の姿があった。

気がついた秋山は、朝鮮の仁川に向かう別働隊の司令官は森山になったと告げて、また海図に向き合い、作戦に没頭していた。

仁川沖海戦

出撃命令から2日後。
連合艦隊の別働隊は、朝鮮の仁川でロシアの戦艦と交戦。
ロシア戦艦2隻を大破して、航行不能にした。

日本側が驚いたのは、ロシア戦艦の射撃の劣弱さだった。
戦闘中に1530発という大量の砲弾を撃ってきたが、1発も当たらなかったのである。

この戦闘によるロシア側の死傷者は223名。
日本側は、1人の死傷者もない。
ロープ1本も切れてなかった。

森山慶三郎は仁川に上陸して、日本領事館を訪れた。
館内では、臨時赤十字病院をつくっていた。

日本がヨーロッパとの間で交わした最初の海戦だったのだ。
相当の死傷者が出ると、当地の大使は予想していたのだ。

ところが怪我人の1人も出てないという。
大使は信じられない。

別室に移り「本当のことを言ってくれ!」と問いただした。
やがて本当だと知って、その大使はただ泣くばかりだった。

旅順港第一次攻撃

同日の夜。
連合艦隊本隊は、旅順港のロシア艦隊を攻撃。
三艦大破という戦果をあげた。

このとき、ロシアの極東総督のアレクセーエフは旅順にいて、幕僚や文官を集めて酒宴を開いていた。

砲声がおこったあとも、報告がくるまで慌てなかった。
慌てるどころか「本当に日本人がきたのかね?」と報告者に念を押しただけだった。

そのまま酒宴を続けたのは、日本軍など大したことないという表れだったのかもしれない。

旅順における陸軍の最高司令官のステッセルは、突然の砲声については、海軍の演習との報告を真に受けて就寝した。

1時間あまりたってから正確な報告者が駆けつけた。
ステッセルは起きて、司令部に出た。

すでに幕僚も集まっていた。
が、開戦のための動員計画は、まだできてなかった。

ロシア側は、日本が立ち向かってくるなど、まるで信じてなかったことが、これらからわかる。

日本軍の旅順攻撃の電報がぺテルブルグに入ったとき、ニコライ2世は就寝中だったが、決して不機嫌ではなかった。
内務大臣のプレーヴェの意見があったからだった。

「いま、国民の心のなかに潜在している革命気分を一掃するためには、小さな規模の戦争が必要なのです。むろん、それに勝って、皇帝の威信を示すのです」

翌日。
ロシア皇帝は、日本への宣戦布告を発した。

第2軍の南山の戦い

陸軍である。
黒木為楨(ためとも)率いる第1軍は、朝鮮に上陸。
4万の兵力だ。

満州との境界線になっている “ 鴨緑江(おうりょくこう) ” 沿いに展開する。

2万のロシア軍は退却した。
「大軍に兵法なし」のきわめて正統的な戦術だった。

奥保鞏(やすかた)率いる第2軍は、遼東半島の大連の近郊の “ 南山 ” に上陸。
そこは要塞になっている。
戦闘がはじまり、互いに砲撃をする。

5時間が経った。

「大変ないくさになった・・・」と砲兵総指揮官の内山少将は青くなる。
すでに、日清戦争で消費した砲弾量を超えていたのである。

予備弾まで全て打ち込んで、あとは銃と剣しかない。
歩兵が銃剣突撃をして、機関銃でバタバタやられていった。
日本兵はミンチになって転がっていくばかりだった。
機関銃の認識不足があった。

が、午後5時。
弱点だと見当をつけた要塞の1角に突撃が成功した。
これによりロシア軍は動揺。
退却がはじまった。

ついに日本軍は、要塞全体を占領したのだ。
ギリギリの勝利だった。

もし攻防が、明日まで延びていたら、第2軍はどうなっていたのかわからない。

死傷者3000名の報告を受けた東京の大本営は、電文のゼロがひとつ間違っているのではないかと疑った。

死傷者は、多くても3桁を超えることがないという見込みだったのだ。

近代戦のすさまじさを、日本は初めて知ったのである。


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