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「真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝」読書感想文

著者の淵田美津雄は、真珠湾攻撃の際には39歳。
階級は中佐である。

約360機を率いてハワイ上空に攻め込む。
全軍突撃を命じて、4分後には成功を確信して “ トラトラトラ ” の打電を発する。

すべての攻撃が終わるまで、3時間余りを上空で旋回を続けて、戦果を確めてから帰投する。

高揚感を持って、詳細に書かれている。
ここまでで、本書は3分の1が割かれる。

翌年のミッドウェー海戦の様子も書かれる。
大きく敗北する瞬間に居合わせている。

フィリピン防衛戦も書かれる。
このときは、海軍の参謀として作戦の立案もする。
結果、連合艦隊の消滅も見届けることになる。

原爆投下の後の広島にも赴く。
終戦となってからはミズーリ号の降伏調印式にも立ち会う。
東京裁判を経て公職追放。
郷里の奈良で農業をして、自給自足の生活をする。

ここまで、本書は3分の2が割かれる。

それからなんと、淵田美津雄はキリスト教に改宗。
キリスト教伝道師として、全米の集会を回る。
元、真珠湾攻撃の総隊長と名乗りながらである。

残りの3分の1は、キリスト教に基づいた平和の想いが記されていて、何かを考えさせられる。

1976年(昭和41年)淵田美津雄、死去、73歳。
2007年(平成19年)編者の中田整一が、未発表の自叙伝の存在を知り、遺稿の編纂して刊行に至る。

単行本|2007年発刊|438ページ|講談社

編・解説:中田整一

仮想敵国はアメリカ

淵田の生年は、1902年の明治35年。

淵田の記憶には、日露戦争の勝利の雰囲気が残っている。
それがあったから、淵田は軍人に憧れて、海軍学校に進む。

すでに、大正のころには、日本の仮想敵国はアメリカになっていたという。
海軍学校での教育は、アメリカへの敵愾心を煽るもの。

日本帝国海軍の艦隊は、軍拡で大きくなってもいる。
アメリカ、イギリスに次ぐ規模になっている。

艦隊と艦隊がぶつかって、砲撃決戦をするという考えが海軍では主流だったが、軍幹部の道を歩む淵田は、航空機の運用に目をつける。

・・・ ここで誤解を解きたい。
本来は “ 淵田 ” と敬称略にするのは失礼だ。
これについては、個人的な腹立たしさも込められていると補足したい。

大正初期の生まれの、祖父と大叔父がそうさせている。
子供のころは高齢で生きてきた。
それぞれが東京大空襲も見て、シベリア抑留も経験していたが、周囲には一言もといっていいほどに詳しいことは話さずに死んだ。

彼らに限らず、その頃の高齢者は戦争を話さなかった。
聞いたとしても「よくないなぁ」という一言か二言がある程度で、ニタラニタラして誤魔化していた。

ただ単に、深くは考えてなくて、うまく話せなかっただけかもしれないが、明らかに本音は隠していた。

気持ちはわかる。
小さな子供に聞かせる話ではない。
後ろめたさもあるだろうし、思い出したくもないだろうし、批判もされたくなかったのもわかる。

なんのかんのいって、今は経済発展しているのだから昔のことはいいではないか、という考えもあったのかもしれない。

ともかく、その頃からすでに、戦争体験というのは本の中にしかなかった。

そのことが、個人的に腹立たしい。
「なんで話さなかったんだ!いいじゃないか!」という親しみも込められている腹立たしさでもある。

なので以降も、あえて “ 淵田 ” とする。

アメリカとの交渉が危うい

1941年、9月頃。
淵田は、飛行隊長となる。

気概も気迫も十分にあるが、もう40歳だ。
戦闘機乗りは、どうしても体力の限界がある。
現場に出ても、若手の足を引っ張ってしまう。

するとどうやら、これまでとは違うらしい。
アメリカとの交渉が危うい、と上層部は懸念を示す。
もしかすると、一戦交えるかもしれない。
淵田は意気に感じた。

10月には、志布志湾で戦闘機の猛訓練をはじめる。
攻撃するとすれば、真珠湾である。
水深が12メートルしかないので、魚雷攻撃は不可能といわれたが、淵田は成功の感触を得る。

11月の中旬には、南雲機動部隊の艦隊は、1隻づつ択捉島に向かう。
隠密行動のためだ。
下旬には、択捉島の単冠湾(ひとかっぷわん)には、37隻が集結した。

12月になり、南雲機動部隊は極秘にハワイに航行する。
各艦のマストには “ Z旗 ” が掲げられた。

『皇国の興廃かかりてこの征戦にあり、粉骨砕身、各自その任をまっとうせよ』という意を示す信号旗だ。

日露戦争の日本海海戦以来、36年ぶりにZ旗が翻ったのだ。

・・・ 戦後の東京裁判では、日本軍は3年から4年前から真珠湾攻撃の準備をしていたとされた。

が、実際には2ヶ月前からだったと、淵田は証言台に立つことになる。

現地時間、1941年12月7日

オアフ島上空に差しかかった。
淵田は、指揮官機の風防を空けて、座席に立ち上がった。
数えてみると、第1派の183機は、1機として落伍してない。

淵田は、信号拳銃を発射した。
183機は、進撃隊形から突撃準備隊形に展開した。

真珠湾が見えた。
現地時間は午前7時49分。

「総飛行機あてに発信、全軍突撃せよ」

電信員は電鍵を叩いた。

トトトトトトトトトトトトトトトト…

奇襲攻撃ははじまった。
地上からの対空放火もない。
迎え撃つ敵機の影もない。

こうなれば、もう作戦は成功だ。
飛行隊の腕には自信がある。
報告を急ごう。

「甲種電波で発信、我、奇襲に成功せり」

トラトラトラトラトラトラトラトラ…

発信は午前7時53分。
全軍突撃を下命してから4分後だった。

・・・ ちなみに、淵田は良心の呵責などはない。

国家10年兵を養うは、1日これを用いんがためなり。
よくぞ男に生まれつる、などと勇ましい。

アメリカ側は、この攻撃で3000人余りが戦死している。
戦後の東京裁判では、命令側に責任があるのであって、実行側には罪はないとなっている。

1942年6月、ミッドウェー海戦

真珠湾攻撃によって、航空機の編隊の前では、戦艦は沈むしかないと実証されたのだった。
海戦の主役は、急速に航空機となっていく。

真珠湾攻撃の翌年の6月。
ミッドウェー海戦では、航空機戦で大敗する。
敗因は驕慢だった。
戦闘技術では日本軍のほうが優れていたが、偵察がしっかりとしてなかった。

地上攻撃用の爆弾を、艦隊攻撃用の魚雷に交換しているうちに敵機の攻撃を受けたのだ。

あと5分、こちらの時間が早ければ、戦況は違っていた。
5分の差で、先手攻撃をくらってしまったのだ。

1944年、フィリピン攻防戦

淵田は、連合艦隊の参謀となっている。
作戦を立案して実行に移すのだった。
のちに “ レイテ湾海戦 ” と呼ばれる作戦も立案する。

今さら勝てるとは考えてない、これは和平工作のための戦いである、無条件降伏だけは避けるためだ、と淵田は記す。

アメリカ国民は出血をきらう。
船や航空機などは、どれだけ壊れてもかまわないが、出血こそが泣きどころなのだ。

レイテ湾に向かっているアメリカ軍の輸送船団は約100隻。
1隻には3000人だとすると、100隻だと30万人。

この作戦では、それらの輸送船団を強襲して、30万人のアメリカ人の出血を強いる。
むごい話ではあるが、これが戦いだ。

前哨戦となる囮作戦は成功した。
これは “ ハルゼーの大暴走 ” とも名付けられて、マッカーサーの回想録には “ 人生最悪の日 ” と記されることになる。

連動する栗田艦隊のレイテ湾突入も、成功するかに見えた。
が、思惑の伝達不足が元で、栗田艦隊は “ 謎の反転 ” をして失敗に終わる。

・・・ 軍人だけある。
淵田の立案は常人離れしている。
が、このあと何度も「戦争は犯罪ではない」と記している。

正当化してるではなくて、国際法がどうのこうのでもなくて、正直な気持ちなのだろう。

1945年8月6日の広島で

広島での体験がなにかを変えた

原爆が投下された直後に、淵田は現地に赴く。
前日まで会議で広島に滞在していて、爆心地の真下の旅館に泊まっていたのだ。

それまでの文面は、勇ましくもあって、鼓舞もあって、一方では少しの自虐もあったりするのだけど、ここでは淵田の混乱が伝わってくる。

どうしたらいいのかわからなくて、焼け野原をたださまようようにして惨状を目にする。
この本で泣けた箇所を挙げるとすれば、この箇所になる。

このとき神を感じたとある。
が、このときの淵田は、まだキリスト教を知らない。
後付けになっているが、大きく心が変化したのが伝わってくる。

原爆に対しての独特の思い

原爆に対しての淵田の想いは、今まで耳にしたことがない。
以下、要約して抜粋する。

広島の原爆慰霊碑には、次の文句が刻まれている。
「安らかに眠って下さい。過ちは繰返しませぬから」
しかし、誰がこれを約束するのか。

原爆などという兇悪無残な兵器で、バラバラにちぎられて死んでいった人たちに安らかに眠ってくれなんて、そんな簡単な慰めで片付けられるのか。
それは、詩人の気休めでしかない。

人類の英智に訴えるのだ、というのかも知れない。
だが、人類の聡明英智と言ったところで、知れたものである。

・・・ ここから、アメリカを非難して、アメリカこそが精神的敗北だと断じる。

平和は人間の力では闘いとれなくて、イエス・キリストにお願いしなければと続く。

奈良で自給自足の生活

日本は降伏した。
淵田は戦犯にはならなかったが公職追放となる。
それを機にして、一家で郷里の奈良に引っ越す。
畑を耕し、井戸を掘り、自給自足の生活をはじめる。

家族で台車を押して、山で木を切って、住居、にわとり小屋、作業小屋と自身で建てていく。

このときの経験が元で、息子は後年に建築家になる。
娘は、インテリアデザイナーになる。

私の半生は、爆弾を落として破壊してばかりだった。
なにかを造るのは新鮮であった、と淵田は充実の様子を隠すことなく書いている。

キリスト教へ傾倒

マーガレットというキリスト教徒の不思議な献身

奈良に引っ越す前になる。

淵田がキリスト教に関心を抱いたのは、帰国してきた捕虜の話を聴き取ったときだった。
東京裁判への対抗策の一環だった。

アメリカ軍は、捕虜に対して暴力は加えてなかった。
が、食事で優劣をつけたり、全裸で立たせたり、墓穴を掘らせたりと巧妙な扱いが多かった。

そのなかで、淵田の心に残った話があった。
あるキリスト教徒の献身だった。

そのマーガレットという女性の両親は宣教師。
フィリピンで死亡していた。

小型のラジオが、アメリカ軍に情報を送る通信機だとされて、日本兵に首を刎ねられたのだ。
両親は、その瞬間も祈ったままだったという。

が、マーガレットは、日本人の捕虜には不思議なほどよくしてくれたという。
なぜか聞いてみると、日本人が憎いからだという。

キリスト教には、憎しみは憎しみで返すのではなく、そういう相手にこそ兄弟愛を持って接するという教えがあるらしい。

受け取った「私は日本の捕虜だった」という小冊子

同じころに、淵田は、渋谷で小冊子を受け取る。
47歳の誕生日だった。

私は日本の捕虜だった」という題名で、作者は “ ドゥーリトルの東京爆撃 ” の搭乗員だという。
同じ飛行機乗りとして、興味をもったのが最初だった。

その作者は、ジェコブ・ディシェイザーという。
不時着してからは捕虜となり、日本の監房で聖書を読んで考えを改めて、今は宣教師になって日本に来ているという。

淵田は、あの捕虜の話が心に引っかかってもいる。
それで、聖書を読んでみたのだ。
1ヵ月後に、祈りの意味がわかったという。

淵田は49歳のとき、日本基督教団で洗礼を受ける。
渋谷での小冊子から約2年を過ぎているのは、それをしていいのかという悩みがあったと思われる、と編者の中田整一は補足している。

※ 筆者註 ・・・ 検索して調べてみると、ジェコブ・デシェーザー「私は日本の捕虜だった」は古書として販売されているようです。

50歳で、アメリカに招かれて伝道して回る

50歳のとき、アメリカに招かれて伝道集会に出る。
真珠湾攻撃から10年ほどしか経ってない頃だ。

当然のこととして、真珠湾攻撃で息子を失った母親から恨みの手紙が届きもする。

が、一方では、真珠湾攻撃で片足を失ったというキリスト教徒の元軍人に自宅に招かれて歓待を受ける。

同じくキリスト教徒で、真珠湾攻撃で夫を失った妻からは、息子に祈りを捧げてほしいと頼まれもする。

・・・ 不思議だ。
信仰の力とはいっても、日本ではこうはいかないだろう。

編者の中田整一のあとがきによると、真珠湾攻撃の総隊長が突然にキリスト教徒になって、何度もアメリカで伝道活動していることは、日本国内では批判されたとのこと。

新聞には悪評の記事が満ちた。
とくに元海軍の関係者からは、猛烈に非難された。
短刀を持って押しかけた元特攻隊員もいたという。

だ、淵田は活動をやめることはなかった。

なぜキリスト教徒になったのか?

もともとは、取り立てて信仰心などなかったことを、淵田は明かしている。
それだから、キリスト教をすんなりと受け入れた土壌があったとは感じる。

それに、あの終戦直後には新興宗教がいくつもできた。
天皇が人間宣言をしたことにより、新たに現人神を名乗る教祖が幾人かは誕生している。

同じようなことを、編者の中田整一も指摘していた。
すべて残らず否定された淵田は、新たな精神的な支えが必要だったとある。

あとは、戦後に公職追放されて、恩給も打ち切られて、人々に “ 職業軍人 ” だと指差されて、農業をしていた日々のときのことだ。

地獄の釜に入れたのはマッカーサーだが、その釜を煮たのは日本人とも、そういう日本人が憎いとも記している。

想像にはなるが、淵田からすれば、受け入れてくれるのなら、日本だろうがアメリカだろうがどっちでもいい、という気持ちもあったのではないか?

あともうひとつ、淵田本人も記してないし、編者の中田整一も見落としている点がある。

軍人とキリスト教の相性の良さだ。

勝つか負けるか、生か死か、イエスかノーか、進むか退くか、成功か失敗か、という二つに一つの軍人特有の判断が、迅速さも求められる判断が、キリスト教に転化しているのを感じる。

神か以外か、善か悪か、正か邪か、天国か地獄か、全てか無か、永遠か終末か、というキリストの教えに、淵田の思考回路が適合したのは文面からは感じた。

ラスト

65歳となった淵田は、心筋梗塞になって静養する。
同じころに、キリスト教の師が死去。
指導者を失って救国伝道の旗印は下された、・・・で本文となる自叙伝は終わる。

巻末には、編者の中田整一の解説がある。
自叙伝が執筆されたのは、淵田が65歳から73歳にかけてと思われる。
遺稿は、完成に近い状態だった。
章も副題もつけられていたとある。

これは前書きにあるけど、原題は「夏が近い」となる。
聖書からの引用だという。
世界の破滅の兆しを預言したキリストの言葉となる。
淵田は、第三次世界大戦への警告を込めて書いていた。

淵田の遺稿は、アメリカにあった。
マンハッタンに事務所を構えて、建築家となっている息子が保管していた。
淵田のアメリカ伝道に同行していた息子と娘は、アメリカで生活をするきっかけを持ったのだった

2人はアメリカ社会に溶け込み、アメリカ人と結婚して、それぞれ子供がいて、孫もいる。

かつての、真珠湾攻撃の総隊長の直系は、全員がアメリカ人となっていたのだった。

そこにも驚きがあった。

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