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沖方丁「麒麟児」読書感想文

江戸城の無血開城の本。
読んでみたという757番の上田君から、そう聞いた。

江戸城の無血開城といえば、西郷隆盛と勝海舟か。
そのくらいは知ってる。

西郷隆盛は、おおよそわかる。
が、勝海舟ってさほど知らない。
偉人だろうけど、幕末の名脇役といった印象に近い。

「歴史って作りモノだから好きじゃない」という上田君ですら、そこそこよかったというから、自分だったらおもしろいだろうなという見当はつく。


この本を選んだ理由

沖方丁の本は、官本室に3冊ほどある。

この沖方丁をなんて読むかもわからないし、まったく聞いたこともないから、読書ノートにも書かれてない。

でも、なにも知らない作家ってけっこうヒットする。
自身の読書の感動パターンがわかりかけてきた、受刑生活2年目の秋だった。

世の中で大絶賛されているという本、何百万人が感動の涙を流したという本、なんとか賞受賞して売れているという本、そんな類は逆に醒めてしまう傾向がある。

よく知らない勝海舟に、まったく知らない沖方丁に、歴史が好きじゃないという上田君の評からすると、これは確実におもしろい本だと見当がついた。

単行本|2018年刊行|312ページ|KADOKAWA

読感

おもしろかった。
スラスラ読める。
なによりもわかりやすい。

幕末の複雑な状況を背景にしているのだけど、テンポよく話は展開していく。

あと、作家名って重要だと感じた。
沖方丁は、うぶかたとう、と読む。
おきかたてい、だと思っていた。

とにかくも、1回で覚えられないような変わった名前だと、また、その読み方が難しいと、書いている本までが難しそうな先入観を持たせる。

そんな沖方丁とは、自分が知らないだけで、60代か70代の大御所の作家かと勝手に思っていたら以外に若い。
1977年生まれの、まだ、40代の作家だった。

おもしろくない昭和の歴史教育

この本がおもしろかっただけに、大人になった今、つくづく昭和から平成にかけての歴史の授業っておもしろくなかったと実感する。

出口治明だったか、佐藤優だったか。
太平洋戦争の遂行には歴史が使われたので、戦後の歴史教育では解釈を加えずに、年号や人物を教えるのが主になった、というようなことを著書で読んだ。

実際、その通りだった。
中卒レベルでとは補足しておく。

先生が「ペリー来航は何年?」と質問すると、生徒は「はい!1853年です!」と答えて「正解!」となる。

次には「大政奉還は何年?」と質問すると、生徒は「はい!1867年です!」と答えて「正解!」となる。

その次あたりに「江戸城を無血開城したのはだれ?」と質問があると、生徒は「はい!西郷隆盛と勝海舟です!」と答えて「正解!」となる。

それで終わり。

年号と人物と出来事を覚えるのが歴史の授業。
なにがどうして、なんでどうなって、それでどうなっちゃのか、という話にはならないから、こっちも興味も湧かない。

そういうことだから勉強ができなくなったんだと、檻の中に入ってしまった自分は責任転嫁して憂さ晴らしをする。

沖方丁 年譜

読書録をキーボードするにあたって、著者を検索してみた。

すると、歴史小説だけでなくて、SF、ファンタジー、ミステリー、ホラー、官能小説と幅広い。
マンガ、アニメの原作も多数で多彩。

まったく知らなかった。
すみませんでした。

1977年 岐阜県各務原市生まれ
1996年 「黒い季節」で小説家デビュー
2010年 「天地明察」刊行 初の時代小説
2012年 「光圀伝」刊行
2018年 「麒麟児」刊行

次は「光圀伝」を読んでみたいなと。

SFやファンタジーは好きではないけど、この沖方丁が書いたのだったらよさそうな気がする。
機会があれば、それらにも挑戦してみたい。

登場人物

勝麟太郎

後の勝海舟。
安房守(あわのかみ)とも。

1868年3月12日現在で46歳。
徳川幕府の陸軍総裁。

西郷吉之助

後の西郷隆盛。
新政府の東征大総督府参謀。

山岡鉄太郎

のちの山岡鉄舟。
勝と行動を共にする。

徳川慶喜

15代将軍。
大政奉還してからは、上野寛永寺に謹慎。
朝廷に恭順の意を示す。

ハリー・パークス

イギリス公使。
官軍への協力を拒否。
官軍の江戸城総攻撃の遠因となる。

益満休之助

薩摩藩士。
薩摩勢が仕掛けた江戸市内での騒乱に参加する。
山岡とは清河塾で一緒に学んだ関係。

清河八郎

尊王攘夷思想を広めた人物。
浪士組を結成して上洛する。

後半からラストのあらすじ

幕府の武力討伐を掲げて江戸に迫った官軍。
勝は、徳川家存続のための交渉をする。

官軍からの降伏条件は以下の7つ。

  1. 徳川慶喜は備前藩(岡山)で預かり

  2. 江戸城は明け渡し

  3. 軍艦は没収

  4. 武器は没収

  5. 城内居住の家臣は向島へ移住

  6. 徳川慶喜の妄挙を助けた家臣は厳罰

  7. 暴挙に及ぶ者があれば官軍が鎮圧

幕府の家臣団は、とても承諾できない条件だった。

それでも官軍との交渉を続けた勝だったが、幕臣、強藩、徳川家の縁故・・・などの思惑が入り混じる。

抗戦を主張する者、立場を有利にしようとする者、属する組織の存続のみを考える者と様々だ。

いくら議論をしても意見はまとまることがない。

そのような状況で、勝と西郷は、日本国の統一を目指すという点では意見が一致していた。

勝からの手紙を利用した西郷も、幕府の交渉の窓口となるように立ち回る。

幕府と官軍の交渉は、勝と西郷の2者に絞られていく。

江戸城は無血開城となった。

戊辰戦争の戦いの場は、東北へと移っていく。
新しい時代がはじまろうとしていた。

明治となって10年が過ぎた。
政界を去った西郷は、西南戦争に敗れて切腹して果てた。

明治12年7月、57歳となった勝は、葛飾の浄光寺にいた。

賊軍として死んだ西郷の名誉を回復させるため、境内に留魂碑を建てたのだった。

勝は「もう少しばかり働きますよ」と碑に声をかけて、境内を後にしたのだった。

その後の勝海舟

57歳から勝海舟は、そのあとなにをしたのだろう?
何歳まで生きたのだろう?

読書録をキーボードしてから、ネットで検索してみた。

すると76歳まで生きている。
一言でいえば政治家で、短期間で辞職したり、要職を辞退したりしている。

元幕臣が新政府に仕えたことから、当然として批判もされることも多かったようだし、孤独でもあったともいう。

徳川慶喜の名誉回復や、元幕臣の困窮救済に尽力したりしている。

赤坂氷川が「勝海舟終焉の地」となっている。

最後の言葉は「これでおしまい」。
墓は大田区洗足。

勝海舟と赤坂氷川神社

赤坂氷川が気になってよく調べてみると、勝海舟は1859年から1868年まで住んだのが、赤坂氷川神社の隣となっている。

この小説で描かれている時期だ。
グーグルで確めると、今ではマンションが建っていて、案内版があるだけ。

それを知り、驚いてしまった。
秋になったな、あの赤坂氷川神社のイチョウの黄葉は11月の半ばか・・・と、ふと思ってからの勝海舟と赤坂氷川神社だったから。

探してみると、10年ほど前に撮った赤坂氷川神社の写真がパソコンに残っていた。

建立が1700年代の赤坂氷川神社には、幕末当時の勝海舟が見た風景が残っていると思われる。

紹介したい。


その赤坂氷川神社は、六本木駅から歩いて10分。

急に人が途絶える。
狭い道だから、車もそれほど走ってない。

神社が好きというのではない。

赤坂氷川神社の空気には、緊張感に似た静けさが含まれる。
その空気が好き。

この境内の左手に、勝海舟は10年間住んだ。
その間に、江戸城の無血開城を遂げている。

徳川吉宗公建立の御社殿は、幾多の震災・戦災を免れ建立当時の姿を現代に伝えます。緑豊かな境内には、江戸の年号が刻まれた鳥居・狛犬・灯籠が現存しており、都内では珍しい江戸の情景を数多く残す神社です。

赤坂氷川神社のホームページより

勝海舟は、身長154センチだったというから、目線はもう少し下になる。

昼間の社殿の写真がどうしても見つからない。
これは大晦日の社殿の様子。

夕方になると、木々ですぐに薄暗くなる。
こんな風景を勝海舟は見たのかもしれない。

で、目を引くのが、右手に見える大きなイチョウの木。
神社の建立前からあったという。

境内には、勝海舟が名付けた稲荷神社があって、赤坂氷川神社との繋がりは深いとも。

当然、勝海舟も、このイチョウの木を目にしていたはず。
まさか、銀杏を拾っていたりはしないだろう。

この赤坂氷川神社の隣に住んでいた勝海舟は、明治がはじるまると、徳川慶喜に付き従って静岡に引っ越している。

そしてまた、赤坂氷川に引っ越している。

晩年に住んだ赤坂氷川の住居が「勝海舟終焉の地」となっていて、そこに「勝海舟 遺愛のイチョウの木」もあるのをホームページで見た。

イチョウが好きなようだ。

とすると、勝海舟は、この赤坂氷川神社のイチョウの木も、お気に入りだったかもしれない・・・と妄想した。

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