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塩野七生「ロードス島攻防記」読書感想文

ロードス島ってどこだろう?
これはファンタジー小説か?

ライトノベルでよくある、魔法と異世界が合わさっていて、ヒロインやら王子やらが登場する戦記ファンタジーだと思っていた。

すると、塩野七生だ。
これほど官本の棚に目を走らせているのに、そこに気がつくのに2年かかっている。

この本は、戦記ファンタジーでもなく、魔法だって異世界だって出てこない正統派の歴史小説だったんだ。

はじめての塩野七生の、最初の1冊になる。
本当は「ローマ人の物語」にいきたいが、大作すぎて気後れして手が出せないでいた。

この文庫本は、厚さが1センチほど。
これだったら読めるだろう。
飛びつくようにして借りた。

まずはこの1冊だ。
この読書で、塩野七生にジャブを放つのだ。

※ 筆者註 ・・・ どうやら水野良の「ロードス島戦記」という大ヒットしたファンタジー小説と混同していたのです。まぎらわしい題名ですが、塩野七生の「ロードス島攻防記」ほうが3年ほど前の発刊となってます。


ロードス島はエーゲ海にあった

ページには小さな地図があって、ロードス島はエーゲ海のトルコ寄りに位置することが示される。

全長は80キロほど。
大きさは、ざっと東京都を4つ合わせたくらいか。
大陸からは50キロほど離れている。

薔薇の花咲く島、それがロードスの由来。
温暖な気候で、島には色彩に溢れている。

薔薇のほかには、ブーゲンビリアの赤紫、ハイビスカスの真紅、夾竹桃の白と赤、レモンの黄色い実、アーモンドの白い花、と塩野七生はロードス島の色彩を描く。

なんか優雅・・・
すてき・・・

で、当時、人口は5万人ほど。
住民の多くは、ギリシャ人である。
ロードス島は、海路の要衝に位置していて、軍港も商港もあって船が行き交っていた。

当時とは1522年。
その年の夏から攻防戦があった。
で、いったい誰が攻めて、誰が防ぐのか?

トルコ帝国軍の10万が上陸して攻めて、聖ヨハネ騎士団の600名が城壁で防ぐのである。

その攻防戦を挟んで、聖ヨハネ騎士団が持つ1000年の歴史を書いていく。

題名を「聖ヨハネ騎士団の歴史」いや「聖ヨハネ騎士団の物語」と変えてもいいくらい。

約1000年を追っていきながら、ざっくりさがない。
読み応えがあって、情景が心に残った。

はじめての塩野七生の1冊目が、この本でよかったともうれしい気持ちにもなった読書だった。

文庫|1991年発刊|280ページ|新潮社

解説:粕谷一希

初出:1985年(昭和60年)新潮社

ネタバレあらすじ

ロードス島には聖ヨハネ騎士団の城塞があった

ロードス島の城塞には、聖ヨハネ騎士団の軍旗がはためく。
団員は、ヨーロッパ各国から集まる。
全員が貴族である。

封建時代のヨーロッパの貴族社会では、領地のすべては長男に相続されるのが通常だった。

そのような背景もあり、長男ではない者が、一族を代表して入団するのだ。

未だにオリエントに留まり、対イスラムの戦いを継続している聖ヨハネ騎士団の騎士になるのは名誉だった。

・・・ そういった事情を、塩野七生は、登場人物を紹介しながら書き進めていく。

戦死者も多いので、騎士の年齢は若い。
騎士たちの服装はイラスト付き。

ロードス島の気候、城壁の街の様子、船の行きかう風景なども交えていく。

まったなじみのないロードス島とエーゲ海なのに、目に浮かぶようにして記は進んでいく。

西暦1099年には聖ヨハネ騎士団は存在していた

その聖ヨハネ騎士団の歴史は古い。

西暦1099年。
第1次十字軍の遠征があった。

そのときには、宿泊と医療を担う団体として存在していた。
裕福な商人が創設したらしい。

第1次十字軍の遠征は、キリスト教徒の雑軍ではあったが、イスラム勢力はパレスチナから追い出された。

このことで、ローマ法王から宗教団体として認められる。
聖ヨハネ騎士団という名称になり、エルサレムに拠点を置く。

設立のときは、病人治療に奉仕する宗教団体だった。
が、次第に軍事目的が強くなっていく。

聖ヨハネ騎士団の規模は、騎士500名に傭兵が500名ほど。
8次にもわたる十字軍の遠征では、彼らの健闘があった。

軍事力だけでなくて、資金力も増していく。
宗教と名がつけば、なぜかカネが集まりやすいことは古今東西と通じて実証されていると、ざっくばらんに解説を交えていく塩野七生である。

十字軍により建国されたエルサレム王国は滅亡する

1291年。
キリスト教途徒側は、200年ぶりの大敗をする。

パレスチナから、キリスト教徒は撤退する。
聖ヨハネ騎士団の新しい拠点は、クレタ島となった。

1308年。
聖ヨハネ騎士団は、ロードス島を征服。

これには、ジェノバ共和国やヴェネツィア共和国の資金援助もあった。

奪取したのは、当時のビザンチン帝国から。
ビザンチン帝国側は抗議をしたが、この国は末期であった。
軍事力で奪い返すだけの力がない国の抗議は、ただの言葉でしかない。

ローマ法王も、聖ヨハネ騎士団のロードス島領有を認めた。
ロードス島が、新たな拠点となったのだ。

新興国トルコ帝国の勢力拡大

1453年。
ロードス島の向こうの大陸では、勢力図が大きく変わった。

ビザンチン帝国が滅亡したのだ。
東ローマ帝国からの、1000年の歴史が終わったのだ。

滅ぼしたのはトルコ帝国である。
ロードス島は、キプロス島とならんで、イスラム世界に対する前哨基地となったのだ。

ここで聖ヨハネ騎士団は “ 海賊業 ” を手がけることになる。
イスラム教徒であるトルコ帝国の船を襲撃するのだ。

海での船の戦いでは、聖ヨハネ騎士団のほうが、技術力も戦闘力も上だった。

海賊とはいっても、大義名分はあった。

船の漕ぎ手となっているのは、たいがいはキリスト教徒の捕虜や奴隷であった。
彼らを、異教徒の鎖から解き放つのだ。

ロードス島は “ キリスト教の蛇どもの巣 ” だとトルコ帝国側ではいうが、放っておかれた状態が続く。

なぜ、トルコ帝国は、聖ヨハネ騎士団を攻めないのか?

強大なトルコ帝国に比べれば、ロードス島の聖ヨハネ騎士団などは豆粒に等しい。
しかし、聖ヨハネ騎士団の “ 海賊業 ” は盛んである。

・・・ ここで素朴な疑問がある。
なぜ、トルコ帝国は聖ヨハネ騎士団を攻めないのか?

それは、トルコ帝国が農業国家であったからだった。
領土の拡大には熱心だが、海には目を向けてない。
海路がなくても、自給自足できてしまう。
海軍もないに等しかった。

一方、聖ヨハネ騎士団を支援するヴェネツィア共和国などは、他国との交易によって成り立っている。
海路の確保は死活問題だった。

キリスト教とイスラム教の対立ではあるが、ある面では通商国家と農業国家の対立ともいえた。

・・・ 騎士団の疑問が、だんだんと解ける読書となる。
小さな軍勢が存在できたのは、絶妙なパワーバランスがあったからと納得できた。

10万のトルコ帝国軍の攻撃を、600名の聖ヨハネ騎士団は防衛する

1480年。
ついにトルコ帝国は、ロードス島征服に動く。
10万の兵が上陸したのだ。

対して聖ヨハネ騎士団は600名。
3ヵ月の攻防戦があった。
が、トルコ帝国側はあっさりと撤退。
疫病が流行したからだった。

この戦いは、トルコ帝国にしてみれば、たいして不名誉なことでもなく士気にも影響はしてない。

しかし、キリスト教世界にとっては300年前にさかのぼらなければないないほどの快挙であり、聖ヨハネ騎士団は大きく存在感を示すことになる。

時代は大砲と歩兵の戦いになる

1522年、夏。
トルコ帝国は、42年ぶりにロードス島を攻める。
さんざんと “ 海賊業 ” をしてるので当たり前だ。

300隻の船が、兵と物資をピストン輸送した。
10万人が上陸。

聖ヨハネ騎士団と住民が立てこもる城壁に向けて、大砲を設置していく。

対して聖ヨハネ騎士団は600名。
それに傭兵が1500名と、住民の戦闘員が3000名のみである。

ヨーロッパのキリスト教国からは、聖ヨハネ騎士団への援軍の見込みはない。
ちょうど、ローマ法王の空位が重なっていた。

ほどなくして、新しく就いたローマ法王にしても、小さなロードス島のことなど後回しとなる。

プロテスタント運動の広がりで、各国も動揺しており、新しいローマ法王からの援軍の要請には応えられない。

一方のトルコ帝国軍の陣営には、巨大な天幕が張られた。
スルタンの臨席で戦いの準備が整ったのだ。

・・・ このあたりの背景については、若い騎士の会話を中心にして、ほのかに男色も交えて描かれている。

砲撃と坑道による攻撃が続いた

トルコ帝国軍は、城壁に向けて大砲を撃ち浴びせる。

この時代の砲弾は、ただの丸い石である。
長年にわたり、砲撃に耐えれるように改良されていた城壁だったが、次第に崩れてきた。

同時に工兵がトンネルを掘り、城壁の下を爆破していく。

3ヵ月続いたある日、猛烈な砲撃がはじまった。
3日間で、1500発もの砲弾が打ち込まれたのだ。

トルコ帝国の戦いは、決まったパターンとなる。
次は、歩兵による総攻撃が予想された。

崩れた城壁に向けて、総攻撃がはじまった。

聖ヨハネ騎士団には名誉ある撤退が約束された

一進一退が続き、冬に差しかかる。
この冬を、聖ヨハネ騎士団は待っていた。
冬は雨が降るし、戦いの季節ではない。

が、トルコ帝国側は、戦いをやめる気配がない。
本国からは、砲弾や食料の輸送を続けている。
人海作戦と物量作戦だ。
城壁に避難している住民には動揺がおきる。

双方からの和睦交渉の申し入れもあった。
住民の安全と、聖ヨハネ騎士団の名誉ある撤退が約束されて、戦いは終結した。

実は、トルコ帝国軍も、多大な戦死者と病死や事故死が8万人に達していたのだった。

あくまでロードス島奪還を唱える聖ヨハネ騎士団は各国から疎まれた

1523年1月。
ロードス島から、聖ヨハネ騎士団が乗る36隻の船が出た。
トルコ帝国のスルタンは、約束を守ったのだった。

聖ヨハネ騎士団の船団は、クレタ島に向かう。

が、クレタ島を支配するヴェネツィア共和国は、聖ヨハネ騎士団が駐留するのを好まずに、3ヵ月の期限をつけた。
彼らが、ロードス島奪還を唱えていたからだった。

同年4月。
聖ヨハネ騎士団はシチリア島に移る。
が、そこを領有するスペインも駐留に難色を示す。

聖ヨハネ騎士団は、聖遺物と軍旗を持ったまま、ジェノバ、ニース、ヴィテルボと各地を転々とする。

1530年。
スペイン王によってマルタ島が本拠地となる。
ロードス島の撤退から、8年が経っていた。

聖ヨハネ騎士団は、マルタ島に再び城壁を築きはじめた。

新しい本拠地のマルタ島にて43年ぶりのトルコ帝国との戦いがはじまる

1565年。
マルタ島攻防戦がはじまる。

トルコ帝国は、地中海の覇権を狙っており、大小2000隻の船で攻めてきたのだ。
聖ヨハネ騎士団との、43年ぶりの戦いとなる。

マルタ島に上陸したトルコ帝国軍は5万。
対して、聖ヨハネ騎士団は540名。
それとスペイン兵が1000名に、傭兵が400名となる。

聖ヨハネ騎士団の団長は、ロードス島攻防戦を28歳で経験している。
マルタ島では、完全な城壁を築き上げていた。

今度は、聖ヨハネ騎士団が勝利した。

防戦を4ヶ月したのち、援軍のスペイン兵が到着。
トルコ帝国軍は撤退したのだ。

ナポレオンには戦わずして降伏してマルタ島を追放される

1798年。
ナポレオンの時代。

なんとここにきて、聖ヨハネ騎士団は、エジプト遠征の途中のナポレオンによってマルタ島を追放される。

ほとんど気まぐれのようなナポレオンの挑戦だったが、聖ヨハネ騎士団は戦いも交えずに降伏して去ったのだ。

入城したナポレオンは、すさまじく見事な城塞都市を目にして驚いた。

「城塞は攻撃に耐え抜いただろうが、守る騎士たちのほうに精神力が欠けていた」とナポレオンは後に書いている。

マルタ島を出航した聖ヨハネ騎士団は、招かれてモスクワへ移動する。
ロシア皇帝が、保護者の役を買って出たからである。

1826年。
聖ヨハネ騎士団は北イタリアのフェラーラへ。

その数年後にローマに移った。
ローマの中心街にある建物を、一員が寄付したからである。

ラストの2ページ

現在でもその場所に、聖ヨハネ騎士団の本部がある。

騎士団長は77代目。
その下には8000名の騎士がいる。

騎士とはいっても、以前のように、清貧、服従、貞潔を誰も強いているわけではない。

もちろん、貴族であることも要求されない。
自然に、貴族であることの意味を失っていったのだ。

特筆しなけばならないのは、聖ヨハネ騎士団は骨董品として残っているのではなくて、今でも活動を続けている組織であるということだ。

異教徒を相手に戦う騎士は消えた。
が、元々の任務であった医療活動を続けている。

今日、注意してみれば、世界中に赤字に変形十字をつけた病院や救急車があることに気が付くようになる。
現代の騎士たちである。

聖ヨハネ騎士団は、900年を経て、エルサレムに創設した当時の使命に戻ったのである。

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