『月』感想

石井裕也監督の『月』を観た。今まで見た映画で一番良い、と言ったらありていだが、少なくとも一番多くのモノを得た、と言える。

内容に関しては割愛する。センシティブな話題が主な内容で、それに関して穏当に話せるほどの知識も技術もないためだ。とりあえず、作品から得たものだけをここに書き記したい。それは見当違いだと言われるかもしれないが、まあ、これが俺の現実なので、容赦いただきたい。

創作とは何か 存在の受容 現実との相対 

                               
とりあえず、ここに挙げたものについての考えを俺は得た。一つ一つ書き残しておこうと思う。

まず、創作とは何か。俺はこれを、人間の内面現実の写実だとこの映画を観て思った。まあ、これは正直この映画じゃなくても得られた考えかもしれない。だが、この映画が俺に見せたものが徹底的に辛辣なものであるために得られた考えだということもありえる。まず、この映画はもちろん…現実にあった事件をもとに製作されたであろうものではあるが…フィクションである。そして、このフィクションである映画に対して、現実はどうだろうか。この映画は”現実”を見せる、というのを一つのテーマとしているが、もちろん現実にはシリアスな場面で雷が落ちるわけではないし、言いたいことをすべてすらすらと言えるわけじゃない。現実は、映画や小説よりも奇なりでありえるが、しかしドラマチックでもダイナミックでもない。その点で、この映画はどこまでも現実ではない。では何か。俺はこれを人間の内面の現実だと捉える。そして、これを浮かび上がらせることこそが創作の意義だと考えた。現実と精神は時に対比構造として見られるが、実際にはある人の精神に浮かび上がったものも全て現実である。少なくとも、その人の精神にそうしたものが浮かび上がったということそれ自体は揺るがない現実である。そして、それを顕在化すること、それが創作だと、本映画をみて天啓のように思い至ったのである。言葉も、映像も、絵も、彫像も、そのためにあるのだと。精神世界における現実の表象化、と自分で名前を付けた。どこかで誰かが言っていることかもしれないが。この映画は、障がい者の存在、それを支える存在を通して、そうした社会問題、現実に対する人々の心を表彰したのだと、俺はそう捉えた。これは俺にとって重要な発見、あるいは発想となった。
存在の受容。この映画では、さまざまなところで、存在を認められない、認められないというのはつまり社会からの肯定的評価をうけることが少ない、注目されることの無い人たちがえがかれる。主人公が働くことになる福祉施設の利用者たち、そこで働くスタッフ、趣味に没頭しつつもなかなか日の目を見ない主人公の夫、そして、落ちぶれた作家の主人公など。彼らは様々な形で自我の否定に見舞われる。しかし、それぞれの人物が互いに認め合う形で、その存在が受容される。人間としてだめなところがあったり、障害があったりしても、それを込みで受容する。存在としての受容。実利や利益などの価値観から離れたところの受容。そして、その受容があるだけに、ある登場人物の思考の異常さ、感覚の分かり合えなさが際立つのである。

現実との相対、その意義もまたこの映画を観て感じたことである。俺たちは現実、都合の悪い現実に対して目を背ける傾向があり、その点をこの映画は嫌と言うほど、あぶり出している。しかしながら、その現実の社会問題を、「現実」と呼べるものの全てだと、登場人物たちは思っているように思う。ある登場人物を除いて。彼の心の中に出てきた思想も、また確かに彼の現実であった、という事実を、他の登場人物は理解していない。それが、劇中の結末に至った理由だろうか、と思うのだが、これはおそらくそう的確な意見ではないだろうと思う。彼だけが、その思想ゆえに、受容を受けられなかったのではないか。

以上である。当事者としての意識、その重さ。いい作品だったと思う。


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